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しいんとしている店内に、消え入りそうな男の声が「はい」と聴こえる。わたしは誰にも気づかれないように、ほうっと息を吐いた。
ケンちゃんが新客を、やさしく促している。
「空いているところなら、どこに座ってもいいんですよ」
うどん屋に足を踏み入れて来た若い男が、ためらいながら「あ、はい」と言った。彼が、わたしの真後ろにあるテーブルについた気配がする。
すぐにケンちゃんがお盆を持ってカウンターの中から出てきた。ことり、と湯呑み茶碗を置いたあとで言っている。
「少しだけ、待っていてもらえますか。すぐに、お持ちしますから」
「……はぁ」
ぼそぼそっと「山下さん」そっくりの男が応えた。ケンちゃんが奥に引っ込んでから、さっきまでの沈黙とは違う色がついたような静けさがうどん屋の中に漂う。
ありふれすぎる演歌の有線放送でも契約しておいてくださいよ、まったく。
それにしても東堂くんが来てくれないのは、なんでなのよ。
まったく、もう。
内心ちょっと悪態をつきながら、わたしは中断していたカレーうどんを食べることに専念しようと思いはじめた。
丼に箸を入れるたびにカレーと鰹出汁の匂いが、ほんわりと漂う。
レンゲですくって舌に乗せるカレーは、市販のルゥではないと思う。おそらくケンちゃんがカレー粉から丁寧に作り上げて、片栗粉でとろみをつけたものだろう。豚バラの脂身が煮溶けているせいもあって、絶妙な甘みもあった。濃いめに取ってある鰹出汁と、とろんとしたカレーに絡まったうどんの麺は、ほどよく固めに茹でられている。
うどんを舌に乗せてから胃袋にすとんと収まるまでの間、ずっと。ぽかぽかした温もりが真っ直ぐに通っていくみたいだ。
ついつい我を忘れて貪りそうになるところ、真正面から視線を感じた。ケンちゃんが、わたしを見ている。
くいっと顔を上げると、にやけた顔の店主がいた。
「茉莉さん、気に入ってくれたみたいでうれしい」
「うん、美味しいよー」
そう言いながら、親指を立てて見せる。それと同時に、背後で麺を啜る音に気づいた。
いつのまに新客に料理を出していたのだ、このきつねめ。仕事が早いね。さすが、あやかし。
丼の隣にある、かやくごはんに箸を伸ばしかけていたときだった。後ろから、ぼそぼそ、ぼそぼそと声がしている。
なんだろう、と振り向いてみる。すると、五センチほど離れたところに「山下さん」そっくりな顔があった。
おどおどしながら、わたしに話しかけている。
「あ、あのう」
「はい」
「とっ隣に、座っても。い、いいですか」
「あ、どうぞ」
わたしは横の椅子に置いていた上着やバッグを床におろした。そっくりさんは、いそいそと自分のところにあったお盆やお茶を運んでくる。
彼が座り直したあと、タイミングよく。ケンちゃんが二人分のお茶をあたらしく注いでくれる。
わたしたち客同士は、同じタイミングで湯呑み茶碗に手を伸ばして、ひとくちずつ。ほうじ茶を口に含んだ。
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