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男は言った。
「不思議なんだけど、お姉さんの言う通りなのかもしれない。この店だって、とても非現実的に思える。実際に俺は、ここでうどんを食べたり、お姉さんに話しかけたりしているのに。な、なんだか変な感じで」
「変な感じ」
「そうなんですよね」
非現実と言えば、そうかもね。わたしはひとりでに、口元がゆるむことを感じた。かやくごはんを少しずつ噛みしめながら、彼へと心を傾ける。
隣にいる男は、カレーうどんをひとくち啜る。飲み込んだ音のあと、こちらに顔を向けたのがわかった。
「俺ね、あしたから会社の研修なんです」
「就職先の?」
「はい」
男の顔が臆病な色に、ふたたびくすむ。
「か、関東の総務なんですよね、配属先は。でも本社が、ここにあるから。方向音痴だもんで、下見しておこうと思って今日の昼過ぎに大阪に着いたら、ふらふらと」
「カレーうどんを食べるはめになっちゃったのね」
「はあ」
彼は言いながら、恥ずかしそうに頭を掻いた。
「こんな場所だから、自分のこと。遠慮しないで言えるかなあと考えたのかもしれない」
「そういえば、さっき『自分から誰かに話しかけたことがない』って」
「言いました」
男はうつむきながら、言葉を続けた。
「も、物心ついた頃から、両親がいないことに気がついてですね。育ててくれる人も、くるくる変わってた。それに、お、俺すごく変な名前で。ちいさい頃から、ま、周りにずっとバカにされていたから」
「変な、名前」
「むっ無条件にね。他人にバカにされる……だから、誰とも親しくなれない。なりたくても、なれない」
訥々とこぼれる言葉が、ときどき涙声に聴こえてくる。それと同時に、わたしの中で「一枚の履歴書で見た山下さん」は、リアルに繋がっていく。
山下さんの考えていることが、手に取るようにわかる。
きっと、この場所を。わたしとケンちゃんのことを。たった一度しか逢わない人たちだと思っているのだ。
旅の恥は搔き捨て、という言葉がある。たった一度きり、すれ違う程度の他人だからこそ。吐き出せる思いがあるのだろう。
「……どこに行っても、名前が消せない。生まれも育ちも消せない。お、俺は、俺自身から逃げることができない」
わたしは、かやくごはん最後のひとくちを、ゆっくり飲み込んでから言った。
「でも、あたらしいところに行きたくて仕事を探してみたんでしょう?」
「だって」
彼がなにかを激しくあきらめたような笑みを浮かべる。
「もう誰も俺のことを、守ってくれないから。ひとりぼっちでも生きていかないとならないから。一生懸命に考えて、一生懸命に面接を受けまくったんです」
「わたしも、キミとは似ているかもしれない。両親とも、もう亡くなってる」
相手は「あっ」と息をのんで、わたしをまじまじと見つめる。それから、とても悲しそうな表情になった。
「ごめんなさい、お姉さん」
「え、なにが? なにも悪くないと思う……」
「違う、俺。俺は自分ひとりだけが、つらいと思ってて、それで、あの」
まだ名乗ってくれていない山下さんは、しどろもどろになりながら必死でわたしに対しての謝罪の気持ちを表そうとしている。
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