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しっかりと相手が見えるように、わたしは座り直した。
「わたしの名前は野々村っていうの。さっきから聞きたかったのだけれども、あなたの名前は? それと研修する企業は、もしかしてヒトミ?」
若い男が驚いたように目を見開く。さっと頬が赤くなった。
「やっ、山下と言います。すみません俺、自分のことばっかり話しちゃって」
ああ、やっぱり。皇帝と書いて「かいーざ」って読む人だ。
山下さんは体をちいさくして、ぺこぺこと頭を下げ続けた。そのたびに耳のピアスが、天井からの照明にきらきら光っている。
「いいの。こっちこそ、ごめんね。わたし、そこの社員なのよ。ヒトミグループの社員だってこと、なんとなくタイミング逃しちゃってて、言えなくって。申し訳なく思っています。本当に、ごめんなさい」
参ったなあ、と山下さんがつぶやく。つっと目線を逸らされたような気がした。
「わたしだって。まさか後輩にあたる人と、こんな梅田の片隅で会うなんて思ってないよ」
それに今日の午後、この人の履歴書をデータ入力していたんだもの。わたしの方が、びっくりですよ。でも、そのことは内緒にしておこうと思った。時期が来たら勘づかれるかもしれないけれど、もしかしたら山下さんに気づかれないまま時間が過ぎていくかもしれないし。
「じゃ、じゃあ。野々村さんと会ったのは、ほっ本当に偶然なんですね」
「うん」
「なっ、なんか。はじめて自分の力だけでがんばろうと思ったんだ、はじめて自分のことを誰かに聞いてもらいたいと思ったんだ俺。それを先輩にあたる人に聞いてもらった。すごく、すごくうれしい」
「わたし、山下さんの話を聞いているだけだよ?」
「そんなことない」
まるで子ウサギのように、ぷるぷるとふるえながら首を振る。
見ているこちらの胸の奥底が、ツキンと痛んだ。
「この際だから、あしたからの研修の予行演習だと思って。なんでも話しちゃったらどう?」
「ありがと、せ、先輩」
やがて彼は涙を浮かべながら、ついでに時折どもりながら、一生懸命に話している。中学に入学してから育ててくれている人の羽振りが急に良くなったことや、その人たちから家を追い出されてひとりで暮らすようになったことや、古いアパートで水道が止まった三日目に市役所と児童相談所から職員が来たことまで。
「大変だったね」
それしか、言えなかった。
「でも水道が止まってから『どんな状態でも人は生きていける』とは思った」
「タフだなあ」
目尻を拭ったわたしを見て、山下さんは顔をくしゃくしゃにして泣き出した。
「違うんだ。市役所の若い人の顔を見ていたとき、はじめて思ったんだ」
「違うって?」
「はじめて、はっ、はじめて。『さみしい』って思ったんだ」
山下さんは「はじめて、俺は『さみしい』と感じたんだ」と繰り返しながら、ぽろぽろ涙をこぼし続ける。
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