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山下さんに、ハンカチを渡した。それを受け取った彼は、あらためて泣いてしまう。
「もう、しょうがないなあ」
「俺が、はっ、はじめて『誰かと一緒にいたい』『さみしい』そんなふうに、か、感じた気持ち。先輩には、わかるの」
「当たり前じゃない」
なるべく明るく言いながらも、もらい泣きをしてしまっている。この人の悲しみの深さが、ひたひたと伝わってくるから。
「もしかして山下さん。母方の親戚から仕送りをうけてなかった? それも中学入学あたりから」
「うん、でも俺は知らされてなかった。それがわかったのは、つい最近」
「ありがちな話ね」
「そう思うよ」
山下さんは涙を拭いながら言った。
「先輩、俺ね」
「うん」
「水道が止まっていたとき、男の人がふたり来た、って言ったでしょ。それでね、市役所の若い男の人がね。俺を見て『可哀想に』って言ったの。『可哀想に』って。その人が今にも泣きそうな顔をしていたことを憶えてる。児童相談所の人の方は結構ドライだった、未成年者後見人っていうの? 連絡先だけの存在だったけどね、そこを教えたことは憶えているんだけどね。市役所の人のほうが強く印象に残ってて」
「そう」
「ふたりが帰ったあとね、思った。『誰かが俺のそばにいてくれたら』って、ひたすら思った。そのとき、生まれてはじめて『さみしいな』って思ったんだ」
「がんばったよ、偉かったと思うよ」
「ありがとう」
山下さんは、ぐずぐずと鼻を啜りながらうなだれる。わたしは彼の背中を、ぽんぽんと叩いた。
「あしたから、社会人としての仕切り直しがはじまるから。ここまで苦労してきたんだから、きっと乗り越えられるよ。それに今の時代、家庭裁判所に行けば、改名もできるんでしょ?」
山下さんが顔をパッと上げて、わたしを見つめた。
「改名手続きは、やってるよ」
「そうなんだね」
……あ。そういえば今日。東堂くんが山下さんのことを、名前で裁判がどうとか言っていたような気がする。
「あとね。わかっていると思うけど……あしたから始まる研修で一緒になる同期には、生まれ育ちとか改名のための云々とか言わなくてもいいのよ? 本社勤務じゃないから、まだいいかもだけど。新人時代にうっかり話したことで、余計な苦労を先々背負っちゃう人も、いっぱいいるから」
「は、はい」
後輩になる若い男が、こくこくっとうなずく。
部課長以上の本社にいる役職者たちは、この人がヒトミ会長の曽孫だということを隠したいと思っている。
それならばそれでいい。
せっかく自分の足で立ち上がって、がんばって行こうと決意した人に、これ以上の「社会の汚さ」を見せたくないなーと思うのだ。
たかが一介の社員なんですけどね、わたし自身も。だけど、ちょっとだけ先輩なんだから、ちょっとだけでも後輩に楽に過ごしてもらいたいじゃないの。
「ありがとうございます、先輩。ほんとに、ありがとう」
そう言った山下さんのまなざしが、人懐っこく輝く。
ああー、この人は心底から人とのつながりが欲しかったんだな......と感じたと同時。ふっと正気に返った。
そういえばケンちゃん、どこよ? っていうか東堂くん、来るの遅いよ!
わたしには「うどん食べよう」って付箋でメッセージまで、していたくせに。まったくもう、あんたってヤツは。
しんみりとしている山下さんを慰めながら、きょろきょろと目を泳がせると。
ケンちゃんは山下さんを真っ直ぐに見つめながら、両目を真っ赤にしていた。カウンターの内側、厨房に入るか入らないかの距離のところにいる。
おきつね店主は、わたしの視線に気づくと「てへっ」と笑った。
「人の苦労話には涙腺が弱いんです、ぼく」
「いいことじゃないの」
わたしは言った。
うなずいたケンちゃんが口元をほころばせて、山下さんに濡れたタオルを渡した。
「あしたは研修の初日なんでしょ、ちょっとでも目の腫れを取っておいたほうがいいですよ」
「ありがとう」
山下さんがタオルを受け取り、目とまぶたのあたりをゴシゴシとこする。
……それじゃ腫れが引かないと思うんだけど。
ま、いいか。
わたしは気を取り直して、ケンちゃんに熱燗を頼む。
「後輩の前途を祝して。一本つけて頂戴」
「茉莉さんが一本だけで、足りますか? ほんとに?」
このうえなく真顔で応えるケンちゃんに、山下さんは声を上げて笑った。
次の日。
東堂は欠勤していた。わたしはといえば昨夜、ちょっと飲みすぎたのかもしれない。頭痛が痛い、まさにそんな言い方がぴったりの二日酔いだ。
蕾ちゃんに頭痛薬をもらおうかと思ったが、話しかけづらいオーラが凄い。なにか気軽に話しかけられるようなネタがあればいいんだけど……。
あれこれ考えているうちに、昼の休憩時間になってしまった。
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