05 涙のカレーうどん

14/14
前へ
/89ページ
次へ
 山下さんに、ハンカチを渡した。それを受け取った彼は、あらためて泣いてしまう。 「もう、しょうがないなあ」 「俺が、はっ、はじめて『誰かと一緒にいたい』『さみしい』そんなふうに、か、感じた気持ち。先輩には、わかるの」 「当たり前じゃない」  なるべく明るく言いながらも、もらい泣きをしてしまっている。この人の悲しみの深さが、ひたひたと伝わってくるから。 「もしかして山下さん。母方の親戚から仕送りをうけてなかった? それも中学入学あたりから」 「うん、でも俺は知らされてなかった。それがわかったのは、つい最近」 「ありがちな話ね」 「そう思うよ」  山下さんは涙を拭いながら言った。 「先輩、俺ね」 「うん」 「水道が止まっていたとき、男の人がふたり来た、って言ったでしょ。それでね、市役所の若い男の人がね。俺を見て『可哀想に』って言ったの。『可哀想に』って。その人が今にも泣きそうな顔をしていたことを憶えてる。児童相談所の人の方は結構ドライだった、未成年者後見人っていうの? 連絡先だけの存在だったけどね、そこを教えたことは憶えているんだけどね。市役所の人のほうが強く印象に残ってて」 「そう」 「ふたりが帰ったあとね、思った。『誰かが俺のそばにいてくれたら』って、ひたすら思った。そのとき、生まれてはじめて『さみしいな』って思ったんだ」 「がんばったよ、偉かったと思うよ」 「ありがとう」  山下さんは、ぐずぐずと鼻を啜りながらうなだれる。わたしは彼の背中を、ぽんぽんと叩いた。 「あしたから、社会人としての仕切り直しがはじまるから。ここまで苦労してきたんだから、きっと乗り越えられるよ。それに今の時代、家庭裁判所に行けば、改名もできるんでしょ?」  山下さんが顔をパッと上げて、わたしを見つめた。 「改名手続きは、やってるよ」 「そうなんだね」  ……あ。そういえば今日。東堂くんが山下さんのことを、名前で裁判がどうとか言っていたような気がする。 「あとね。わかっていると思うけど……あしたから始まる研修で一緒になる同期には、生まれ育ちとか改名のための云々とか言わなくてもいいのよ? 本社勤務じゃないから、まだいいかもだけど。新人時代にうっかり話したことで、余計な苦労を先々背負っちゃう人も、いっぱいいるから」 「は、はい」  後輩になる若い男が、こくこくっとうなずく。  部課長以上の本社にいる役職者たちは、この人がヒトミ会長の曽孫(ひまご)だということを隠したいと思っている。  それならばそれでいい。  せっかく自分の足で立ち上がって、がんばって行こうと決意した人に、これ以上の「社会の汚さ」を見せたくないなーと思うのだ。  たかが一介の社員なんですけどね、わたし自身も。だけど、ちょっとだけ先輩なんだから、ちょっとだけでも後輩に楽に過ごしてもらいたいじゃないの。 「ありがとうございます、先輩。ほんとに、ありがとう」  そう言った山下さんのまなざしが、人懐っこく輝く。  ああー、この人は心底から人とのつながりが欲しかったんだな......と感じたと同時。ふっと正気に返った。  そういえばケンちゃん、どこよ? っていうか東堂くん、来るの遅いよ!  わたしには「うどん食べよう」って付箋でメッセージまで、していたくせに。まったくもう、あんたってヤツは。  しんみりとしている山下さんを慰めながら、きょろきょろと目を泳がせると。  ケンちゃんは山下さんを真っ直ぐに見つめながら、両目を真っ赤にしていた。カウンターの内側、厨房に入るか入らないかの距離のところにいる。  おきつね店主は、わたしの視線に気づくと「てへっ」と笑った。 「人の苦労話には涙腺が弱いんです、ぼく」 「いいことじゃないの」  わたしは言った。  うなずいたケンちゃんが口元をほころばせて、山下さんに濡れたタオルを渡した。 「あしたは研修の初日なんでしょ、ちょっとでも目の腫れを取っておいたほうがいいですよ」 「ありがとう」  山下さんがタオルを受け取り、目とまぶたのあたりをゴシゴシとこする。  ……それじゃ腫れが引かないと思うんだけど。  ま、いいか。  わたしは気を取り直して、ケンちゃんに熱燗を頼む。 「後輩の前途を祝して。一本つけて頂戴」 「茉莉さんが一本だけで、足りますか? ほんとに?」  このうえなく真顔で応えるケンちゃんに、山下さんは声を上げて笑った。    次の日。  東堂は欠勤していた。わたしはといえば昨夜、ちょっと飲みすぎたのかもしれない。頭痛が痛い、まさにそんな言い方がぴったりの二日酔いだ。  蕾ちゃんに頭痛薬をもらおうかと思ったが、話しかけづらいオーラが凄い。なにか気軽に話しかけられるようなネタがあればいいんだけど……。  あれこれ考えているうちに、昼の休憩時間になってしまった。
/89ページ

最初のコメントを投稿しよう!

319人が本棚に入れています
本棚に追加