03 きつねたちの手招き

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「東堂くん、帰ろうよ」  わたしは言った。けれども東堂は、首を縦に振ってくれない。 「帰っちゃったら、二度とケンちゃんと会えないような気がする」  ヤケに乙女チックな台詞を言いつつ、わたしとカウンター内側にいる店主をチラチラと見遣ってくる。  ケンちゃんは、こそばゆそうに背中をすくめた。 「大丈夫ですよ、こっちは。ちゃんと週に二回は、店を出しますから」  言われた東堂が上目遣いにケンちゃんを見つめて、ぽりぽりと頭を掻く。 「でも、この店自体は夜明けまで営業しているんだろう?」 「ええ。まあ」  うなずいたケンちゃんの頭上にある、きつねのお面が「かさっ」と音を立てた。どことなく困ったような、けれども反面とてもうれしそうな表情に見える。  その顔を見ている東堂の頬も、ちょっぴり紅潮しているみたいだ。 「なんだか、変なの」  ついつい、つぶやいてしまった。すかさず東堂が、こちらに顔を向けてきた。 「なにか、おかしい? 俺」 「充分に、おかしいよ」  わたしの口元が、自然にゆるんでくる。 「東堂くんが仕事帰りに『ひとりで来るのは怖い』って言って、わたしを連れて来たのに……当の本人がケンちゃんと、決められていた運命の出会いを果たしたように感じてしまう」 「そうかもしれん」  同期入社で上司の男が、ぽつんと言ったあと。顔を下に向けた。 「やっぱさ、俺だって。どこか人恋しいのかもしれないよ」 「それは誰にでも、あることじゃない」  東堂の目線が、わたしにふたたび寄越される。 「茉莉(まり)ちゃんなら、こんな気持ちを共有できるかも。そう思ったんだ。ほら、俺たちって社内ではアウトロー中のアウトローじゃないの。だからね、つい」  とても素直な、まなざしだった。 「言いたいことは、わかるよ」  わたしは椅子から上げかけていた腰を、幾分か下ろしている。 「けど現実的なことを言えば。わたしは明日も仕事があるの。東堂くんだって、そうじゃない」  東堂が「あはっ」と砕けた調子で、体を開く。 「明日は休んでいいよ。茉莉ちゃんは働きすぎだ。他の社員が当日欠勤で空けた穴を埋めていることも、ちゃんと知ってる」 「ありがとう、いい上司に恵まれました」  東堂は何度もうなずき、そのあとスーツのポケットから財布を出した。 「茉莉ちゃん確か、阪急沿線から通ってたよね。万が一にでも、終電に間に合わなかったら使って。あとで返してくれたらいいから」  向こうから、一万円札が差し出されている。ここは有難く受け取って、帰ろう。  客ふたりの遣り取りを黙って聞いていたはずのケンちゃんが、いつのまにか店の引き戸の前にいる。  わたしが立ち上がると、待っていたかのように引き戸を開けてくれた。 「茉莉さん。絶対に、また来てくださいね」 「はい」  駅へ向かう大通りまで、ケンちゃんが付いてきてくれている。たくさんの人が地下鉄へ急ぐ流れの手前で、彼はわたしに頭を下げた。 「茉莉さんが、来てくれてよかった」 「そ、そんな」  屈託のない笑顔は夜の街に、妙に不釣り合いだ。それが逆に、ケンちゃんの素直な感情を浮き立たせている。わたしは、まるで子どものように戸惑いながらも、明るい調子で右手を振った。 「ケンちゃんが、望んでくれるなら」  こちらの言葉に、ケンちゃんがにっこりと笑ってくれる。  駆け足で滑り込んだ最終電車の窓ガラスに、彼の表情がつぶさに浮かんでは消えていく。  あんなふうに。  わたしがいることを無心に待っている人の笑顔を見たのは、一体、どれくらいぶりだったろう?  
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