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01 はじまりは、サビ残のあと
「寒い」
つぶやいて、パソコンのモニタから視線を外した。
フロア中ほどにいる東堂係長が、キーボードを叩くことを止めた。モニタから顔を外し、こちらに向かって首を傾げる。たった五メートルほどしか離れていないのに、その顔が滲んで見える。
「あっ、大丈夫です」
係長は、軽くうなずく。
「ん。冷えてきたよね」
ちょっと失敗した、と思った。
フロアには、わたしと上司の二人しかいない。
ほんの少しの物音でも、聞こえてしまうのは当然だ。こんなことくらいで、係長の仕事を止めてしまったことが恥ずかしい。
「すみません」
「いいよ、別に」
東堂は片手を振って、きりりとした眉毛を下げた。
わたしは、モニタに目を移す。手元に広げた履歴書を、テキストに打ち込んでいく作業の続きだ。
ここは、ヒトミ食品本社人事情報部。
連日のように各事業所で採用された社員やバイト、パートの履歴書が送られてくる。採用後の提出を義務付けられる社員調書も入力する。
それだけではない。
在籍する人間の冠婚葬祭、異動や出張に関する情報のすべてが、このフロアに集められる。全国展開している企業であり、関連会社も多い。在籍した当人だけではなく、三親等以内の親族の出生日から死亡日まで入力される。それらの人事情報は、退社しても五年間はデータベースに保管されるのだ。
指を動かしながら、キーボードの横にある書類の束を見遣る。あと一時間もあればカタが付きそうな感じだ。
東堂の声が聞こえた。
「空調が切れたのかもしれないな、見てくるわ」
わたしに声を掛けて、執務室の外に出て行く。彼の上半身が、間仕切りの合板に大きくはめ込まれたガラスに透けた。
何気なしに、眺めていた。
やがて白シャツ姿が、エアコンスイッチの前に立つ。彼は、わたしの顔を見ながら、人差し指を振る。なにか、言っているようだ。
――「切れてた」
執務室内の空調が切れていた、という意味か。
「すみません」と言いながら、両手を合わせた。東堂が「おう」と唇の形を作る。
わたしは入力の続きを始めた。指を動かしながら、キーボードの横にある書類の束を見遣る。
一時間もあれば片付きそうな感じ。
ついでに腕時計を見る。あと五分ほどで十時と、いうところ。思わず心の中で、勢いよく親指を立てている。
いつまで経っても、わたしはノロマだ。いつまで経ってもタイピング速度を上げることは難しい。
「野々村さん。そろそろ帰ろう」
いつのまにか東堂係長が、目の前に立っていた。
「でも、終わってないんです」
東堂はネクタイをゆるめ、空いた手で両目の間をつまんだ。
「俺、もう疲れた」
「係長は、お帰りください。わたしはこれ全部、片付けてから帰宅します」
「アホなこと言うな」
上司の目尻が幾分か、吊り上がったような気がする。
「だって、終わらないんです」
「明日にしよう」
「でも」
東堂が咳払いをして、わたしを上目遣いで見つめてくる。
「茉莉ちゃんさぁ。明日やろうよ、もうさあ。ビルを管理している会社も遠隔で空調を切っちまったんだよ。俺も寒いからさ、帰ろう」
「そう言われても」
わたしは手元の書類を指し示した。
「あと十五人分、昨日付で採用されたバイトさんたちの履歴書を入力しないと。明日に持ち越すのは、イヤなんです。あと、その呼び方は止めてください」
「頑固だなあ。とにかく明日に回しなよ、それ。無理して今夜中に仕上げてもだよ。チェックしてミスが散見されていたら、なんにもならない。どうせ明日も、書類を大量に入力するんだもの。茉莉ちゃんが、自分で決めた一日のノルマがあるんだろうけれどもね。こだわりすぎても、よくないと思うよ」
「それは、まあ。そうなんですけど」
わたしは顔を上げ、ちょっと唇を尖らせる。
「係長のように、やさしい人ばかりではないですから」
「知ってるよ。でもさ、現実問題として空調が切れてるだろ。帰ろうよ。な?」
「係長が先に帰ればいいじゃないですか」
拗ねるような口調で言う。東堂が、驚いたように目を見開いた。それから眉毛を下げて、ぽりぽりと頭とこめかみをかき出す。彼が困ったときの癖を久し振りに見た気がして、なんとなく面白くなってきた。
わたし自身も東堂に対して上司と部下という『社会的な体裁スイッチ』が切れかけている。
ふたりで残業することなど、今まであまりなかったので尚更だ。
「責任者が先に帰るわけには、いかないよ。なにかあったら、どうするんだ」
「なにもありませんよ。なにかあったら、管理会社に電話をします」
「あのなぁ」
わたしは下を向いて、笑いを堪えた。でも、肩がふるえてしまっていたらしい。
「笑うなよ、もう……あっ、からかわれてたのか。俺」
「途中からね」
にいっ、と笑ってみせる。ふんわりしたデコピンが、わたしの額に飛んで来た。
「まったくもう。しょうがない子だよ。キミってヤツは」
「あはっ。駄々っ子の同期で、悪かったわね」
「そうだなあ、同期か。同期なんだよな」
不意に東堂の口調が、しんみりしたものに変わった。彼は天井を見上げ、わたしへと視線を戻す。
「営業一課の斎藤が、今日付で退社したの。知ってた?」
「知らなかった。休暇を長く取っていることだけは、知っていたけど」
「そうだよな、退社書類を入力するのも明日以降になるだろうから」
「ええ、たぶん」
「実家の父親の介護が長引いてね。復職できそうにないと、今日になって正式に書類が送られてきた。惜しいよなあ、色々なことを頑張っていたのに」
「そう」
斎藤は東堂と同じ役職の、東京採用の男性社員だった。二人とも他業種を一年ほど経験しているので、新卒ばかりの同期内で馬が合いやすかったのだろう。
わたしも東京採用で、斎藤と同じ営業一課に配属されていた。彼は当時から努力家で、面倒見もよかった。毎月の営業成績も、決して悪くなかったはずだ。
東北出身の彼は、本来ならば入社二年目の人事異動で課長に昇進するはずだったという。それを自身で係長職に留めておいてほしいと願い出て、昇格を取り下げてもらっていたと聞いている。
「俺さ、実は三日前に斎藤と飲んだんだよね。この近くで」
「斎藤くんと? 彼が実家から、ここまで出て来たの?」
「うん。というか、引っ越しの手続きに来たついでに、俺に声を掛けた感じかなあ」
「そうなんだね」
わたしたちは帰り支度をしながら、会話を続けていた。一段落ついた頃、東堂がぽつりと言った。
「どうしようもないよな。ある程度の年齢になっちゃうと、無傷ではいられなくなる」
「皆、たぶん、そうなんだと思うよ。顔に出せないだけで」
「うん」
東堂の言いたいことが、わかるような気がする。わたし自身も、世間に大きく出遅れている感覚がある。それはいまだに、拭えないから。
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