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“神社のきつね”、ケンちゃん。
見た目は十代後半か二十歳そこそこ、と言った感じ。切れ上がった二重の目、スッと通った鼻筋の端正な男の子だ。
彼は週二回だけ営業する、うどん屋の店主でもある。このうどん屋、外に出している提灯が見える人と見えない人に分かれるのだ。
わたしを連れてきた東堂はケンちゃんのことを“この世のものではない存在”だという。しかも、わりと最初から“きつね”だと、わかっていたっぽい。
きつねが作る、きつねうどん屋。わたしね、そのうどん食べちゃったよ。とても美味しかったから、いいんだけど。でもさ。
自分の頭が、おかしくなっているとしか思えない。
けれど東堂も、わたしと同じ経験をしている。
東堂は、ごく当たり前のように今夜の出来事を受け入れている。それもまた、不可解だった。
でも実際に、眼前にいる“きつねくん”からは、とても素朴で純粋な雰囲気が伝わってくる。彼が話すたびに漂う空気が、ほわほわ和んでくるような気がする。
ケンちゃんは、東堂を待っていたと言っていた。
待たれていた側は飲み会の帰りに露天神社を掃除していて、敷地内に置かれていた人形を磨いたことがあるらしい。磨き終わった人形の顔が、ケンちゃんそっくりだったと聞いた。
そういうキッカケがあったからこそ、東堂は、このうどん屋の存在がわかったのだろうか。
おそらく大多数の人には見えない、橙色の灯り。ひっそりした空間の入口扉に掲げてある、提灯のともしび。
わたしと東堂は、いつのまにかケンちゃんに深く興味を抱いていた。聞いてみたいことは、山ほどある。同じように、うどん屋店主にも。誰かに聞いてほしかった話がありそうだった。
「ぼくがここにいる理由も聞いて行ってほしい」
そう言われたときから、わたしと東堂の気持ちは決まっていたと思う。彼の話を最後まで聞きたいだけではなく、きつね店主そのものに心が惹かれているのだ。
あとのことは、なんとかなるんじゃないかな。
最悪の場合は明日の朝、上司に「休みます」と電話をすればいいのだもの。
そこまで考えて、笑い出しそうになった。わたしの上司って、東堂くんじゃないの。休む理由もテキトーでいいかあ、なんて。
交わされている東堂とケンちゃんの遣り取りを眺めながら、少し思った。
――夢と現の境い目が、こんな感じなのかもね。
手の中にある湯飲み茶碗からは、ほのかな温もりが伝わってくる。腕時計の文字盤が、ふっと視界に入ってきた。日付は、すでに変わっている。
ケンちゃんのやさしい声が聞こえてきた。
「茉莉さん」
「あっ、はい」
前に顔を向けると、東堂がわたしの肩を叩いた。
「聞いてた? ここが週二回の営業しかしていない理由」
「ごめん。もう一度、教えて」
ケンちゃんが、白い歯を見せた。
「本業があるから」
「本業って、神社に常駐すること?」
「そう、そうです」
「でも週二回は、うどん屋なんだよね。『探しもの』と関係あるの」
「ええ」
ケンちゃんは応えながら、東堂とわたしの前に御猪口を並べた。ふと東堂を見ると、彼はコートを畳んで膝に掛けている。
「東堂くん、寒いの?」
「足元だけね」
「まさか日本酒をケンちゃんに催促したわけじゃないよね?」
「ち、違うよ」
東堂が手を横に振った。本当かなあ、という気持ちで店主を見る。視線を受けたケンちゃんが、口元をゆるめた。
「奢りですから、気にしないでください。それと、さっきの続きですけど」
「うん」
「茉莉さんは、神社の狐にも差異があることを知っていましたか」
「初耳」
「ですよね」
なんでも神社に鎮座しているきつねの像、神さまの使いとして神社に降りるための学校があるらしい。ただ、学校という言い方は、あくまでも物の例えみたいなんだけど。
「へー。神さまの使いをするのにも、勉強が要るのねえ。それでケンちゃんは、もしかして教育期間中なの」
「はい。だけど、ちっとも出来が良くなくて。おまけに神さまから、お預かりしていた鍵を失くしてしまったんです」
「鍵? なに、それ?」
声を上げたわたしに、東堂が口をはさむ。
「神社にある狐像は、人間界で言うところの道具を持っているのさ。持っているというかね、口に咥えているんだよ。それらは玉だったり、鍵だったり。ちなみに京都にある伏見稲荷大社の狐の像は、玉と鍵の他に巻物と稲穂を咥えているお狐さまの像がある」
「そんなに注意深く、神社の狐を見たことがなかったわ」
「まあね、日本全国の稲荷系神社が狐の像を設置しているわけではないから」
「ふーん」
言ったあと、わたしは首を傾げた。
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