あの日

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今すぐにでも、夏美の手を掴みたかったのに。 僕は相変わらず動くことができない。 夏美は僕に気付くこともないし、田中の父親も田中も、ただ倒れている夏美を見ていた。 手を差し伸べることはなく、ただ、ただ、見ていた。 その行為はどれだけ夏美にとって不安な思いにさせたことだろう。 少なくとも夏美は、自分の身にこれから何があるのか、僕よりもずっとずっと知っているわけだから。 田中の父親は、夏美の後ろ髪を引き、顔をあげさせてコゴミの方向に向ける。 キレイな夏美の黒髪が、田中の父親の指に隙間からさらさらとこぼれ落ち、鷲掴みにされた髪はぐちゃちゃになっていた。 声をあげられないのだろう。 夏美は、一文字に口を閉じ、黙っていた。 その様子を田中も黙って見ていた。 「コゴミ様。明日、明日でうちのおっかぁは返ってきますね?あなたの力で、取り返してくれるんですよね?」 田中の父親は、焦点の合わない視線をコゴミなのか、壁なのか、よくわからない場所に向けている。 全くどこを見ているのかわからないまま、コゴミに話し続けた。 「おっかぁを返してくれ。頼むから、生きていけないんだ」 田中の父親は涙を流しているけど、それはどんな意味を持っているのだろうか。 悲しみ?何のための? 思い返せば、田中の家庭環境はまり良くなかった気がした。 田中の母親は……。
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