スタンド・バイ・ミー

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1 「千里、ドア開けるから布団たたんで!ほら雑巾!」 布団に埋もれる千里に雑巾を押し付ける自分。寝起きざまに雑巾を押し付けられている千里。なんて滑稽な光景なんだろうと思う。でももうなんの違和感も感じなくなっている。 眠い眠いと言いながら千里が布団を折りたたんだのを見届けてからドアを開けると、既にどの部屋もドアをあけ放って廊下に向かってごみを掃き出していた。灰色のくすんだリノリウムの床にホウキをあてる。頭上のスピーカーからは早朝の爽やかな空気をのせたラジオが流れ、今日は七月一日だと告げる。 この寮での暮らしも三ヶ月が過ぎた。 「夏が始まったなあ」 早くも雑巾で壁と床を拭き終えた千里はのんびりとした口調で言うと、さっきたたんだ布団を広げて再び潜り始めた。 「え、また寝るの」 「あと三分あるやん」 「三分寝てどうなるの。今日トクソウでしょ」 トクソウなんて普通の人が聞いたらいったい何の特別捜査だと思うだろうが、そんな仰々しいものではない。トクソウというのは特別掃除の略だ。今から私たちは向かいの部屋の先輩たちと一緒に洗面室を掃除することになっている。 「ええ、そうやったっけ」 布団からひょっこり頭を出した千里は小さな子どもみたいだった。 京都に創立した東嶺女子高校が地方から進学してくる子女のために設けた寮、桔花寮。この寮には独特の規則が、それはもう沢山ある。朝六時四十五分のチャイムが鳴ると同時に部屋の清掃開始。その際には必ず布団をたたんでおくこと。半月に一度回ってくる掃除当番。略して特掃。それが終わったら仏間に移動して仏参。夜八時からの静粛時間、十時には消灯、週に一度の洗濯物一斉取り込み。あげればキリがない。そしてそのどれもに良妻賢母を育てあげようという封建的な雰囲気の名残がある。 先輩から規則を教わるたび「わけ分からへんわ」と言っていた千里のことを思い出す。私は生まれが田舎だし、家事もそこそこしていたからこの寮にもあまり違和感を抱かなかったけれど、都会で暮らしていた千里には文字通りわけの分からないことばかりだったようだ。 彼女は洗濯機のまわし方も知らなかった。 「洗濯なんかお母さんがしてくれるやん」 そう言うわりに五月の大型連休、千里は実家には日帰りしただけだった。都会の子というのはそういうものなのだろうか。 最初は文句ばかり言っていた千里も今はわけの分からない規則を守りつつ、ときに隙間をするりと抜けてたりして上手くこの寮に順応している。こうして掃除と特掃のあいだに三分眠るとか。それは反抗でも諦めでもない。自分が今いる場所のことをちゃんと理解して受けとめている証拠だと私は思う。規則だらけの寮の中で、千里はとても身軽にみえる。 「先輩より早く行っとかないと。怒られるよ」 「大丈夫、あと一分あるから」 そう言って千里は布団を頭までかぶった。 ・ プラスチックのパックをパリパリ鳴らしながら千里が部屋に入ってきたのはその日の夜だった。 「村木さんにもろてん。食べよ。お店のが余ってんて」 「お店?」 「言うてへんかったっけ。村木さんち和菓子屋さんやねん」 パックの中には白いういろうの上に小豆ののった三角形の和菓子が二つ仲良く並んでいる。 「これなに?」 「水無月。半年の厄払いで、ほんまは昨日食べるものらしいわ。私も知らんかってんけどな、京都の人はこれを六月三十日に食べなモヤモヤするって」 「それは村木さんが和菓子屋さんだからじゃないの」 「いや、西井さんも言うてたわ。あの子も京都人やろ」 水無月を見つめる。小豆の粒が蛍光灯に照らされてぴかぴかひかっている。ういろうの部分は白くつやつやとしていて、触れると冷たそうだ。と思っていたら千里がおもむろにパックをあけて水無月を手で掴もうとした。 「ちょっと待って。手づかみで食べるわけ」 「うん」 なにかおかしいかと言いたそうな目で千里はこちらを見つめてくる。なんて大雑把なんだろう。はあ、とわざとらしくため息をついて席を立つ。 「お茶淹れてくるから」 「さすが静岡県民」 「水無月、そこのお皿にのっけといて。小さいのあるでしょ」 「はあい」 すっかり塗装の剥げた共用の食器棚からそろそろと小皿を取り出す千里を横目に給湯室へ向かう。和菓子に緑茶は必須だと思うのだけれど、それは静岡県民だけなのだろうか。そんなことはないと思いながら、叔父の家でつくられた茶葉を冷蔵庫から取り出す。 たしかに、身内の家でとれたお茶を飲むというのは静岡県民でないと経験し得ないことかもしれない。私の父もこのお茶がとれた茶畑で働いていて、閑散期は楽団でサックスを吹いたり、個人レッスンをひらいたりしている。ほんとうは逆なんだろうけど。もうどちらが本業か分からなくなっている、と本人も言っていた。私もいずれそういう生活を送ることになるのだろうか。 茶葉を急須に入れると、青く懐かしい香りがした。 一日経った水無月は少し固くなっていたけれど、それはそれで美味しかった。お茶もうまく淹れられたと思う。一口飲むと舌の上に甘さが広がって、食道がポカポカしていくのが分かった。クーラーの効いた涼しい部屋で温かいお茶を飲むのが、私は昔から好きだった。 「なんか、お茶飲んでたらほっとするなあ」 千里が目を細めて言う。 「深呼吸できるんだよ。香りを嗅ぐのに息を吸い込むでしょ」 「ああ、たしかに」 お茶の香ばしい香りをすっと吸い込んで、はあと口から大きく息を吐いた。そう、深呼吸。 「厄払えたかなあ」 心の中で言ったつもりが、気づいたときには口からこぼれていた。 「払えたよ」 空になったお皿を見つめながら千里は言う。 「わかばは大丈夫だよ」 その一言で、ああこの子は知ってるんだなと思った。 「清水わかば」 吹奏楽コンクールの選抜メンバーが記載されたプリントが配布されたのはついこのあいだのことだった。そこに自分の名前を見つけたのも。先輩を押し退けてそこに入った一年生は私しかいなかった。なのに先輩も、同級生も、私に頑張れと言ってくれた。嫌味一つ言わず。みんな優しい。 あの時だって、みんな優しかった。 なのに私は逃げ出した。
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