スタンド・バイ・ミー

3/6
前へ
/6ページ
次へ
2 誰もいない廊下にサックスの音だけが響く。 この廊下で練習をするのが私は好きだ。音楽室があるのは一番端の校舎の一番上階。空に近い。部員以外はほとんど誰も通らないのもいい。サックスに息を吹き込むたび向かいの書道教室の薄い窓ガラスがぶるぶる震える。反対の窓からは絵の具を水で薄めて伸ばしたような空に積乱雲が浮かんでいるのがみえる。いくら私が吹いてもそれらは動かない。震える窓ガラス。動かない空。音なんてただの振動だ。そう思わせてくれるからこの場所はいい。 しばらくするとパンパンと上靴が階段を打つ音が聞こえてきた。姿を現したのは同じクラスの村木さんと西井さんだった。村木さんはお菓子みたいに、甘い匂いのしそうな女の子だ。昨日千里から和菓子屋だと聞いてなんとなく納得がいった。一方、西井さんは目鼻立ちのくっきりした美人で、気の強そうな印象を与える。村木さんに水無月のお礼を言おうとしたところ、間髪入れずに西井さんが口を開いた。 「清水さん、ジャズやってはった?」 「なんで」 なんで分かったんだろう。そんなに癖がでていただろうか。けれど同じパートの子にだって言われたことはない。今だってタンギングの練習をしていただけだ。 シンとした時が廊下に流れる。 「いや、なんとなく。ごめん、気にしんとって」 ばつが悪そうにしている西井さんを見てはじめて、私は自分が不安そうな顔をしていたのだと気づいた。だめだ、と思う。口角をあげる。 「ううん」 私はちゃんと笑えているだろうか。気持ちを振り払うようにして村木さんの方に向き直った。 「村木さん、昨日はお菓子ありがとう。美味しかった」 「ほんまに?良かったわあ」 「あと軽音の鍵、いつものとこに置いてるから」 「ありがとうね」 二人は連れ立って軽音楽部の部室へ歩いていく。 村木さんの三つ編みが揺れる。西井さんの短い髪は夏のひかりに透けている。二人の背中が部室の向こうに消えていくまで、私はそれをじっと見つめていた。 ・ 毎朝毎晩サックスばかり吹いていたら、日々はあっという間にすぎていった。期末テストも返却されてあとは夏休みを待つだけ。今日だってこれから文化祭の演目を決めたらもう下校だ。教室が真夏の海辺みたいな空気で満たされているのが分かる。けれどチャイムが鳴るとみんな磁石に引き寄せられる砂鉄のようにぴたりと席に着く。なんだかんだで真面目なこの校風が私は嫌いではない。 チャイムが鳴り終わるのと同時に担任の加田ちゃんが教室に入ってきた。挨拶が終わるなり、加田ちゃんは早口で説明を始めた。文化祭で一年生は毎年五分間の演目を行うこと、演目で流す曲は担任が決めること、その曲をどう仕上げるかは生徒次第だということ。そしてラジカセのスイッチを押して教室を出ていってしまった。 「先生はな、忙しいねん。とりあえず曲はこれやから。あとはみんなで決めてや」 捨て台詞にざわつく教室。 加田ちゃんは吹奏楽部の顧問だ。この感じにはもう慣れている。そして先生のこういうところも、私は嫌いではない。 いい加減さと、その裏側にある相手への信頼感。自分にはそれがないし、それが今の自分にとって必要なことだということも分かっているからだ。なのに。私はそれを手に入れることができない。分かっていたってどうにもできないことがあるということに、私は最近気づきはじめていた。 古ぼけたラジカセから音楽が流れ始めた。ざわついた教室が静まっていくのと同時に、曲が輪郭を帯びていく。聴こえてきたのはエルトン・ジョンのアイム・スティル・スタンディング。ベースを軸にしたご機嫌なナンバー。いかにも八十年代って感じのサウンドだ。ビッグバンドの編成でやったら楽しいだろうな、メインはピアノがいいな、と頭の中で描いてみる。 それを遮ったのは入学早々ダンス同好会を作ったという清川さんの一言だった。 「嫌やわこんな寂しい曲、もっと踊れる感じのがええ」 たしかに寂しく聞こえるのは分かる。けれどそれは録音技術の問題だ。あと再生機器の問題もあるな、と一体いつからこの学校に存在しているのか想像もつかないラジカセを眺める。 「先生居てへんし、もううちらでオリジナルの作らへん?」 「そうしよ。もっと歌ってかわいいのんがええ」 清川さんの意見に賛成したのは羽野さんだった。こちらはアイドル志望だと風の噂で聞いたことがある。彼女は生まれつきだと言い張っている栗色の髪をくるくるいじりながら、ふっくらとした唇をとがらせている。 どぎつい人たちが手を組んでしまったなあと思う。こういうときは声の大きいものが勝つのだ。きっとこの流れだと「担任が決めた曲を演じる」という前提のルールを破ることになるだろう。 言わなきゃいけないかな、と息を吐く。 こういう場で口を開くのは慣れている。わかばなら言ってくれる、そんな空気が場に流れるのだ。しかしあの場所から遠く離れたこの教室にはもはやそんな空気なんて流れていない。なのにすっと息を吸い込んでいる自分がいた。 けれどそれより先に口を開いたのは西井さんだった。 「この曲でもダンスはできるし歌も歌える。与えられた中でうちらがどうみせるか。そこが見られてるんやから、オリジナルやったって意味あらへんよ」 教室がシンと静まる。立ち上がった西井さんを、残り三十四人の、六十八の瞳が見つめる。多分みんな、西井さんの言うことが正しいと分かってる。ただ出方を伺っているのだ。 遅れをとって口を開いた。 「私もそう思う。編成をバンドにして演奏したらちゃんと踊れるし、歌えるよ。きっときまったら格好いいと思う」 しばしの沈黙の後、そうだね、そうしようか、という声がどこかからポロポロ聞こえてきた。 「まあそこまで言うんやったらええけど」 清川さんのその一言で、その場はなんとかまるく収まった。ふうと息を吐いていると、立ち上がったままの西井さんがくるりと振り返った。 「よし決まり。うちさあ、ブラスも入れてビッグバンドみたいにしたいんよな」 私の頭の中と同じことを言った。 「ほんでメインはピアノ」 描いていたイメージと西井さんの言葉が重なる。 「で、ピアノは清水さんがいい」 「なんで」 なんで。見開いた目の先で、西井さんが白い歯をみせてにやりと笑った。白い雲をバックにした彼女は爽やかで、夏日に透ける黒い髪は美しくて、私はいつかの清涼飲料水のコマーシャルを思い出していた。 夏が始まった。 ・ コンクールも間近だというのに、昼間の西井さんの笑顔が瞼の裏側にはりついていて、その日の練習は何度も集中力が切れた。誰にも何も言われないけれど、ずっと責められているような心地がしていた。 「息抜きしたいし」 という加田ちゃんの一言で翌日の部活は午後からになった。私一人のために先生が動くはずがない。でもなんとなく、見透かされているような気がした。 「ただいま」 部屋のドアを開けると、もうすでにパジャマ姿になった千里が布団に寝そべっていた。枕元には漫画が積み上げられている。どういう状況かはなんとなく把握したけれど、一応尋ねる。 「ちょっと千里、洗濯物は?」 「あ、忘れてた」 「今日一斉取り込みの日でしょ。一緒に取り込んどいてって言ったじゃん。あと五分で七時半だよ」 「そうやった、危なかったわ」 「いやもうアウトでしょう。取り込んでたら五分経っちゃうよ」 「五分あれば余裕やって。早よ行こ!」 千里は目にもとまらぬはやさで押し入れから洗濯カゴを取り出しスリッパをつっかけた。いつもの千里からは想像できない素早さに驚きつつ、部屋にあがる間もなく屋上へ向かった。 先輩に睨まれつつどうにかして洗濯物を取り込んだのは七時二十八分。セーフ、と言う千里の足元の洗濯カゴにはブラウスがめちゃくちゃに突っ込んである。しっかり伸ばして干したのに、またアイロンをあてなくてはいけないではないか。そんな私の胸中も知らず、千里は洗濯カゴを抱えてふらふらと屋上の端へ歩いていった。 「綺麗やなあ」 千里の目線の先には淡いオレンジ色に包まれた家々があった。その中で京都タワーだけがくっきりと光っている。もう日の入はすんで空の上の方から紺色が滲んでいる。千里はそのグラデーションにケータイを向けた。 「なんで千里は空ばっかり撮ってるの」 不思議に思っていたことだった。屋上でも、部屋の窓からでも、千里は空にレンズを向ける。「写真部でな、フィルムで撮ってん」と見せてもらった現像済みの写真は見事に空ばかりだった。四角に切り取られた空の切れ端。それを手にした千里のやわらかな横顔。 「まあ、色々理由はあるけど」 彼女は祈りを捧げるみたいにかざしていたケータイをポケットにしまった。それから私の方を見ないままこたえた。 「勝手に綺麗でいてくれるからかな。私のために綺麗でいてくれてるわけじゃないことに、逆に救われるっていうか」 視線の先で制服の生徒たちがグラウンドを駆けていく。千里の影はさっきより少しだけ、でも確実に濃くなっていた。 胸が詰まった。 私も、自分勝手に綺麗でいられたら良かったのに。ただの振動だと言い聞かせながら、誰よりも気にしてるんだ。探してるんだ。音を鳴らす意味を。響く音、揺れる窓ガラス、動かない空。西井さんのひかりに透ける髪。いろんな物事が頭をよぎった。 「西井さん、すごいな」 背中を向けたまま千里は続ける。 「清川さんに振り付けとさ、羽野さんに歌頼んでてんけど、なんや注文の仕方が抽象的なようで具体的っていうかさ。多分、自分もやってへんとあんなこと言えんと思う」 「うん」 「あの子、ただの軽音部やろ?」 「うん…」 「わかばは、弾くん?」 「分からない」 分からない。振り向いた千里の表情は、薄暗くてよく見えなかった。 布団に潜り込んだらいつも一分もしないうちに寝息が聞こえてくるのに、その日の夜は消灯時間から十分しても、二十分しても、部屋は静まりかえっていた。なにかあったんじゃないかと心配になってきたところで、千里の声が真っ暗な部屋に降ってきた。 「なあわかば」 「なに」 「わかばはえらいよ」 「なにいきなり」 「毎朝起こしてくれるし、洗濯機の使い方教えてくれたし、お母さんみたいやし」 「最後は余計」 口ではそう言いつつも、あらたまって告げられて少しだけ心が温まった。あはは、と笑ってごまかす。ふふ、と千里も笑う。 「あと、迷いながらでも、ちゃんと吹いてる」 さすがにその一言は、笑ってごまかせなかった。 「私は考えると止まってまう人やから。走りながら考えられるわかばはえらい」 千里は、弾いちゃいなよとか、もう答えは見えてるでしょとか、そんな分かりやすいことは言わない。ありのままの私を見て、ありのままのことを言ってくれていると感じる。 「聞いてる?」 「聞いてるよ」 弱気な自分と、それを奮い立たせる自分と、その間で揺れてすっかり疲れてしまっていることに、私は千里の一言で気づいた。 深く息を吐き、ばれないように静かに泣いた。
/6ページ

最初のコメントを投稿しよう!

6人が本棚に入れています
本棚に追加