スタンド・バイ・ミー

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3 翌朝は京都駅へ出かけた。行きは大きな通りを歩いたので、帰りは散歩がてら狭い道を選んだ。標識には正面通と書いてある。なんの正面なんだろうと思いながら、焼けつくコンクリートの上を歩く。京都の夏は暑い。地面から湯気が立ち上ってきているみたいだ。地元だって夏は暑かったが、もっとカラリとしていた気がする。息を吸い込むとじっとりとした空気が肺を満たして、逆に息苦しくなった。鴨川を渡り、しばらく歩いていると広場に出た。正面は少し高くなっていて、大きな鳥居がどんと構えていた。神社だ。境内にはテントが並び、人が溢れている。祭だろうか。立派な石垣に囲まれたその神社に近寄ってみると、その石垣の石は自分の背の高さの倍ほどあった。 「すごい」 てっぺんを見上げる。すべすべした石の表面は日光に照らされて白く光っている。 ふと、いつか実家で観たテレビを思い出した。小さな画面の中では、ロッククライミングをしているという小柄な女性がインタビューに答えていた。ほぼ垂直の岩の斜面にしがみつく彼女の映像が映し出される。彼女は次へ次へと腕を伸ばす。「次に掴むべきところが光って見える」そう彼女は言っていた。夕食を食べながら何気なく観ていただけなのに、その一言で箸がとまった。 全てそうだなって、そのとき私は思った。音楽だって。最初はよく見えていたのだ、光が。掴んだら次が、そこを掴んだらその次が。このままこうやって上へのぼっていける。そうしていればいつかゴールに辿り着く。そう思っていた。でもだんだん光が見えなくなってくるのだ。どこを掴めばいいのか分からなくなる。そして壁にしがみついたまま、動けなくなる。 今は、どうなんだろう。落ちてしまったのか、なんとかしがみつけているのか。それすら分からない。 日傘をさしていても、頭のてっぺんがじりじりと熱くなっていくのが分かる。そろそろ帰ろう。そう思うのに、なかなかその石の前から動くことができなかった。聞き覚えのある声がしたのはその時だった。 「あ、清水さん」 声の方を振り向くと自転車にまたがった西井さんがいた。 「今日は吹部ないん?」 自転車を押しながら彼女は近づいてくる。 「今日は午後から」 「へえ、めずらしい」 背、高いな。目の前の西井さんの口元を見つめる。少し視線を上げないと目は合わない。 「どこ行ってたの」 「京都駅。親が京都来るっていうから、お土産買おうと思って」 父はわざわざコンクールを観に来るという。そう告げられたとき、胸の底になにか重いものが落ちていくような感覚を覚えたことを思い出した。西井さんはそっか、と静かに答えた。会話が途切れる。蝉の声だけがわんわん響く。なんで私がジャズやってるって分かったの、なんで私がメインピアノなの。ききたいことがたくさんある。それをきくのは今なんじゃないかな。なのに口をついて出てきたのは無難な一言だった。 「西井さんは今日部活?」 「うん」 背負ったギターのストラップをぎゅっと握って、また口の端をあげて笑った。あの時の笑顔。やっぱりきいておこう、そう思い口を開こうとしたら、思いがけず彼女の方からその話題をふってきた。 「あの、前はありがと」 「前?」 「文化祭のん決めるとき」 「ああ、慣れてるからああいうのは」 「慣れてる?」 「なんていうか、変に目立つから。お前が言えって空気になるの。今はそんなことないけど」 「ふうん。変に目立つって?一年生なのにコンクールのメンバーに選ばれるとか?」 「なんでそれ知ってるの」 「廊下で清水さんが練習してるん聴いてから気になって、吹部の子にきいてん。みんな言うてたで。清水さんはすごいって。なんや静岡で有名な、あの甲子園ようでてる中高一貫の吹部で、エースで、ピアノもできて、父親はヤバいジャズサックス奏者やって」 「なに、ヤバいジャズサックス奏者って」 思わず笑ってしまう。 笑いながら、目の奥が熱くなっていく。違う。私はそんなんじゃない。 「そんなんじゃない」 なんとか堪えたのに声が震えてしまった。西井さんは一瞬大きく目を開いて、私を見つめた。 「確かに有名な吹部にいたけど、引退のコンクールは出られなかった。お父さんはサックス吹いてるけど、所属してるのは地元の小さな楽団だし、全然有名じゃないし。それじゃ生活できない、っていうかむしろ赤字」 一気に言い終える。言葉とともに溢れてしまいそうになる。 しばらく黙った西井さんは自転車を路肩に停めはじめた。それから、 「見ていかへん?まだ時間あるやろ」 神社の方を指さして、汗ばんだ私の手をとった。驚く私の方なんて振り向かずに、西井さんは神社の石段を登っていく。 「なんで」 私が言うと、彼女は振り返ってまたにやりと笑った。 ・ 境内で行われていたのは祭ではなくフリーマーケットだった。「豊国さんのおもしろ市」というのぼりがあちこちに立っている。石畳を挟んでテントがずらりと並ぶ。骨董品を集めたものから、自身の不用品を並べたもの、手作りの品を販売しているものなど、お店の種類は様々だった。西井さんはそれを見ているのか見ていないのか分からないぐらいのスピードでサクサクと境内の奥へ進んでいく。木漏れ日が彼女の肩の上を滑る。やがてそれは後ろを歩く私の日傘の上を滑っていく。首筋に流れる汗を手で拭った。 そのとき、ある一つのテントに広げられた物品の中に見覚えのあるものを見つけた。 「これ!」 大きな声を出した私の方を西井さんが振り返る。店番をしているおじいさんが私を見上げた。 「これ、触ってもいいですか」 おじいさんは何も言わずに頷いた。白い小箱を手にとる。 「マッチ箱?」 西井さんは私の手元を覗き込んで首を傾げる。 「うん。京都にあるジャズ喫茶のやつなの」 「しあん、くれーる」 西井さんがマッチ箱の表面に書いてあるひらがなをたどたどしく読み上げる。 ジャズ喫茶しあんくれーる。そのお店のマッチ箱を、父はいつも部屋に飾っていた。私が京都へ進学を決めたとき父はまず「いいなあ、いつでもここにいけるじゃないか」と言った。そのマッチ箱を手にとって。高校生がジャズ喫茶なんて行けないし、と思いつつ調べてみると、しあんくれーるはとうの昔に閉店していた。 いつか私はここに父と行くのだろう。そのときだって私はサックスを吹いていて、光を掴んで、掴んで、上を目指しているんだ。幼い頃からなんとなくそう思っていた。けれどもう二度と行くことはできないのだ。そして私は光が見えなくなって、この街を、父のもとを離れようとしている。ひどく寂しい気持ちになったことを思い出した。 「思案にくれる」 ぽつりと呟くと、西井さんは少し考えてからはは、と笑った。 「なんやしあんくれーるて、ダジャレか。フランス語かおもたわ」 「いや、ほんとはフランス語らしいんだけどね。『明るい田舎』って意味だったかな」 西井さんはへえ、と言い、切れ長の目を見開いてマッチ箱をまじまじと見つめた。 「京都のジャズ喫茶だったら他にも、『ろくでなし』とかね。ジャズっていったらお洒落でシックなイメージがあるでしょう。でも昔はもっと鬱々としたものだったんだよ。七十年代の学生運動と一緒に栄えていったものだから」 父から聞いたことをそのまま口にする。西井さんは私を見て言った。 「詳しいんやな」 「だって好きだし」 「好きでも、そういうとこまで知ろうと思ったことないわ、うちは」 それでも私がジャズやってたことを聞き分けられるぐらいの耳を持っている。ダンスも、歌もする。この子はいったい何なんだろうと見つめていると、突然おじいさんがつぶやいた。 「それ、持ってき」 「いいんですか」 おじいさんは仏頂面のままただ頷いた。 「ありがとうございます」 礼をして、懐かしいその小さなマッチ箱をポケットに滑り込ませた。 ・ それから少し境内をまわって自販機で缶ジュースを買った。西井さんはサイダー、私はオレンジジュース。氷のように冷えたそれで首元を冷やしながら、隣のお寺にある鐘の下に腰かけた。 「西井さんは、ずっと音楽やってたの」 やっときけた。サイダーに口をつけた西井さんは、一口飲み下すとはー、と言って缶をおいた。ひんやりとしたコンクリートに、汗をかいた缶がじわじわと色をつけていく。 「中学の頃までは、ピアノと歌やってた。ギターは教わってはないけど弾いてたし。あとダンスと、うーんまあいろいろ」 「今は?」 「軽音だけ。もう全部やめたわ」 「もったいない」 そう言うと、彼女は目を伏せた。 「みんな言う。もったいないって。でも今のうちはあの子とバンドしたいだけ。それしかない」 あの子とは、村木さんのことだろう。連れだって部室へ向かう、いつかの西井さんと村木さんが頭をよぎる。 「もったいないかどうかはうちが決める」 西井さんは言い切った。 私にも、こんな頃があった。それが何になるとか、後先や理由なんて考えずに、ただ吹きたくて吹いていた時が。 「すごいね。私はそうはなれない」 というより、もうその頃には戻れない。 「清水さんは、ほんまに音楽好きなん」 「好きだよ」 そこは、それだけは変わらないことだった。ふうん、と西井さんは口をとがらせる。 「やったらなんでそんなに楽しそうやないわけ」 好きだったら楽しいはずだ。私もそう思っていた。でも、 「好きでも、楽しくない時だってあるよ」 あの時以来、私が知ったことだった。 「私、初めてじゃないもんでさ。先輩からコンクールの出場権とっちゃったの」 思わず、口からこぼれていた。なんとなく西井さんには話していいかなと思った。 「で、いじめられてわざわざ京都まで来たってわけ」 悪びれる様子もなく西井さんは言う。 「いや、みんなそのへんは分かってたしわきまえてた。私を選んだ先生が正しいって、納得してた。逆に優しかったよ。だからすごくプレッシャーだったの。みんなが思う自分に見合う自分にならないといけないって。それに耐えられる人はすごいよ。私は駄目だった」 糸が切れたのは二年生のとき。コンクールが終わった後だった。来年のこの日までまた同じような日々が続くと考えたとき、その先にいる自分が想像できなかったのだ。同時に、もうここには居られないと思った。 「上手くい続けないといけないってのは怖いことだよ。綱渡りみたいなもの。別に誰にも期待なんかされてないのに」 私をリラックスさせようとしてか、言われたことがある。別にみんなあなただけを見ているわけじゃないから、と。誰も見ていない、誰も期待していない。それは分かる。自分でも思う。 「じゃあ誰が私のこと見てるんだろう。そうやって考えたとき、気づいたの。それは他でもない自分自身だって」 自分が納得する音を出す。自分が楽しいからやる。そう、自分のために吹く。 「でも私は、自分のためならもう吹きたくないって思った。しあわせよりも、楽になりたかった。というか、楽になることがしあわせだった」 「でも吹いてるやん」 西井さんは言う。 そうだ。私は知らない場所にまで来て、また吹いている。 「そうだね。同じことしてる。何も進んでないんだ、私」 戻れないし、進めない。この世界のどこに行っても、私自身のいる場所は変わらない。真っ白な積乱雲が、真っ青な空の上でじっとしていた。 「そんなことはないんちゃう」 西井さんはぐっとサイダーを飲み干すと、すとんと地に足をつけた。それから私に向き合って言った。 「清水さんは今の自分にしか見えない見方でみてるやろ、音楽のこと。いったん音楽やめて、また始めて。それがやめる前の清水さんとおんなじわけないやん。考えなんてなかったとしても、感じたことたくさんあるやろう」 言葉に詰まる。 「ピアノ、嫌やったら断ってええから」 ふっと背を向けて彼女は歩きだした。 「じゃ先行くわ」 あの廊下でいつかしたように、私は彼女の姿が見えなくなるまでその背中をじっと見つめていた。 私が、感じたこと。 そればかりが頭の中をぐるぐるとまわっていた。 なんとなく、千里のことを思い出した。 ふくらはぎから足首へひとすじの汗が伝う。サイダーの染みだけが私の隣に残っていた。
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