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終業式が行われたその次の日から夏期講習が始まった。夏休みなんていう雰囲気は微塵もなく、講習を終えて部活へ行くという普段と何ら変わらない日々が続いていた。ただ、西井さんと神社の境内を歩いたあの日以来、新しく始めたことがひとつだけある。
夕食を終え食堂を出る。階段を上り二階の仏間に入る。だだっ広い仏間は真っ暗だと少し怖い。廊下の明かりをたよりに照明のスイッチをパチパチといれる。部屋の隅にある礼拝用のオルガンのふたを開ける。それから十分ほど、オルガンを弾く。ピアノとオルガンではかなり勝手が違うけれど、好きな曲を好きなように弾くのは楽しかった。ペダルを踏まず運指を確認するだけでも、十分だった。西井さんの笑顔が、千里の横顔が、ときどき頭に浮かんだ。
「おかえり」
仏間から部屋に戻ると、パジャマ姿の千里が布団にくるまっていた。枕元には漫画本。いつもの光景だ。
「ピアノ、やるんや」
「分からない」
あの日と同じ答えを返す。
「でも弾いてるやん、オルガン」
千里はごろりと寝転がって私を見上げにやにや笑いながら言った。
「わかばはもっと自信持ったらええよ。まあでも自信持ったらわかばじゃなくなるな」
それからもそもそと布団から這いだし、これ借りるで、と言って急須を持って部屋を出ていってしまった。
しばらくしてから、彼女は水無月と温かいお茶を持って部屋に帰ってきた。
「どうしたのそれ」
「明日、コンクールやろ。やし前夜祭。あと厄払い」
前夜祭というのは少し違う気がしたけれど、胸が詰まって何も言えなかった。
千里は何でも分かっている。あの日私が泣いていたことも知ってたんだろう。なのに何も言わなかった。今日だって、講習最終日で大半の生徒が実家に帰る中、この寮に残っている。千里は帰らないんじゃない。私のために残ってる。
「はい」
透きとおった緑色をしたお茶がなみなみ注がれた湯呑みと水無月が手渡される。
千里は大雑把で、いい加減で、だらしない。でもなんでも受け入れて、愛してるって感じがする。私のことも、愛してくれている。そう感じる。良かった、千里がいて。
「いただきます」
水無月を頬張る千里を見て思う。
私はもう無心で音楽が大好きだった頃には戻れない。だったら進むしかない。新しい自分で、進んでいくしかない。何が正しいかは分からない。でも自分を更新しながら、その時の正しさで音楽に向き合っていくのだ。
なら私は自分じゃない、誰かのために吹きたい。誰かのためならできる。今はそれが私の正しさだ。
お茶を口に含むと、食道と、あと胸の奥の方がポカポカした。
「千里」
「何?」
「コンクール頑張ってくるから」
「うん」
「あとさ、私、一生音楽やるよ」
「うん」
「ありがとう」
ふふ、と千里は笑った。
湯気の向こうで、小さなマッチ箱がやわらかく揺れていた。
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