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嫌な空気
帰宅して扉を開けると、むわっと澱んだ空気を顔に感じた。
「暑いな、冷房つけてないのか?」
「……何よ、ただいまも言わないで。暑いなら窓でも開けたら?」
妻の声は冷たい。そのくらいやってくれてもいいじゃないか、と思いながら居間の窓を開ける。梅雨時の空気は夜でも湿ったようで、僅かに涼しい。
「まだ暑いな……2階も開けてくるか」
返事はなかった。今までだったらこんなことは妻が先回りしてやってくれた。いや、帰ってきたころには空調が効いてるのはもちろん、風呂も料理もすべてが整っている状態だった。それが今では、妻は掃除もせずに一日中ふさぎ込んでいるばかりだ。
重い足を引きずって階段を上る。木造の3階建てを買ったのはずいぶん前だ。天井や壁紙の隙間、あちこちに増えたシミや柱の傷はいつできたものだかもう思い出せない。
夫婦の寝室が並んだ廊下の突き当り、アルミのサッシに手をかけ、窓を開ける。向こう側はすぐに隣の新築の灰色の壁だ。開けたはずなのに開放感はなく、むしろ息苦しさを感じる。
三階だ。こうなったらすべての窓を開ければいいんだ。そうすれば外の新鮮な空気を吸えるはず。
突き動かされるように三階へと続く階段を上がる。呼吸をするたびに重苦しい空気が肺の中にたまっていくようで、必死に喘ぐ。ようやく上り切ったころにはすっかり息が上がっていた。
ふと足を止める。廊下に並んだ二つの部屋は、いったい誰のものだったか。考えようとした瞬間、強いめまいを感じてふらふらと座り込んでしまう。
酸素を吸わなければ。新鮮な酸素を。
這いずるようにしながら廊下を進む。窓だけを一心に目指す瞳には、廊下に厚く積もった埃や箱に入ったまま放置された子供靴はもう映らない。
ようやくたどり着いた廊下の果ては隣の家とは反対方向だ。ここを開ければ、優しい夜の空気が肺を満たしてくれる。必死に手を伸ばして窓を開けようとするが、うまく力が入らないのか、窓は動かない。
「くそっ!」
がむしゃらにがたがたと窓枠を揺らすと、小指ほどの隙間があいた。息苦しさで窒息しそうになりながら、両手を使って揺さぶり、少しずつ隙間を広げていく。
あと少し、もう少しだけで頭が通るほどの隙間が空く。そうしたら思う存分に空気を吸うんだ。
渾身の力を込めた瞬間、ふっと手ごたえがなくなった。窓枠が外れたのだと気が付いた時には、体が宙を舞っていた。
呼吸をする間もなく、全身が硬いアスファルトに叩きつけられる。薄れゆく意識の中で必死に見上げると、外れたはずの窓枠がからからと音を立てて閉まっていくのが見えた。
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