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俺のレンちゃん
「うわ、本当にこんなに膨らむんだな」
「面白いだろ?触ってみなよ」
「いや、いいよ」
「遠慮するなよ、ほら」
促されるまま、俺は恐る恐る弟の腹へと手を伸ばす。
「…柔らかい」
「な?せっかく筋肉つけてたのに、それも分からなくなっちゃったよ」
肋骨の下、真ん中より少し左に寄った所に、ビール缶くらいの膨らみがある。手のひらで触れるとそれは水風船のように柔らかく、温かな弾力を持っていた。
「…この中に本当にいるんだな」
「ああ、今日も元気に動いてるよ、俺のレンちゃん」
と、ふざけて軽く腹を叩きながら、弟は笑った。
レンちゃんの正式名称、というか学名はもっと長い。だが、その寄生虫の体長は最大でも三十センチほどにしかならない。
卵が産み付けられたある種の果実を口にすると、体内で孵化した幼生が小腸だか十二指腸だかに小さな穴を空け、内臓や筋肉の隙間に移動して住みつく。栄養は穴から伸ばした長い管で奪いながら成長していくらしい。
「三年ぶりの連絡だから結婚でもしたかと思ったら、虫に当たって入院とはな…」
「悪いな、迷惑かけて」
「気にするなよ。むしろ、もっと頼れって。お袋もずっと心配してたんだから」
「お袋なぁ…」
弟は三年前に大学を卒業した途端に家を飛び出し、それから音信不通になった。東南アジアで仕事を見つけたというのも、人づてに聞いた話だ。
要領がいい奴だから心配はしていなかったが、折り合いの悪い母親はともかく、俺にまで事情を言わずに出奔したのは少しショックだった。
俺は患者服から曝け出されたままの腹部をもう一度撫でる。
記憶よりも日に灼けた肌は、内側から押し上げられて丸く突っ張っている。この数センチの壁の向こうに別の生物がいるのだと思うと、なんだか気味が悪かった。
「…手術、早く決まって良かったな。さっさと取っちまえよそんなもん」
「可愛そうだなぁ、俺のレンちゃんも明日までの命か」
「やめろって」
俺は少し語気を強めるが、弟はへらへらと笑っている。
「そんな名前なんかつけるなよ、気持ち悪い」
「なんでだよ、別にいいだろ。子供みたいなもんだよ、俺にとっては」
「…冗談のつもりかもしれないけどな、本気になったら困るだろ」
「困る?何が困るっていうんだ?」
静かに俺の手を払い、弟はその膨らみを両手で覆う。
「別に手術なんかしなくても、ほっとけばその内出てくるんだから。俺はそれでもいいのにな」
「それまでにあと一ヶ月もかかるんだろ?その間にどれだけお前が消耗すると思ってるんだ」
「出産は命懸けじゃないか、兄貴はよく知ってるだろ?義姉さんも結婚式の頃からやつれて大変そうだったよな」
「おい」
「そうだ、二人は元気なのか?生まれたのは女の子だっけ?」
「…元気だよ。ミカは来月三歳になる」
「そりゃあ何より。俺はミカちゃんの顔も知らないけどね」
と、窓に視線を向けて弟は目を細める。
「…とにかく、寄生虫と妊娠は別物だろ。一緒にするなよ」
「そうだな。虫には養育費なんていらないだろうし、結婚相手の心配だってしなくていい」
「お前なあ!」
「冗談だよ」
しかし、弟の声は奇妙なまでに無表情だった。
白いカーテンの向こうからは西陽が照りつけている。オレンジ色に染まった弟の顔は、まるで知らない他人のように思えた。
なんでここまで放っておいたんだ。なんで日本を出てタイになんか行ったんだ。なんで今まで連絡しなかったんだ。
聞きたいことは沢山あるはずなのに、それらはどれも言葉にならなかった。
三年間の断絶によって、俺とこの男は分かり合えなくなったのか。いや、もっと前から分かっていなかったのだろうか。
黙りこくる病室の中で、夕陽を受けた腹の膨らみだけが、場違いなほどに生き生きと輝いていた。
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