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シャッターの音
「だから、私は何も知らないって言ってるじゃないですか!」
「そうは言ってもね、これだけしっかり顔が映っちゃってるからね……」
「捏造ですよ、こんなもの!」
私は怒りに任せて机の上に写真を叩きつける。
数日前に事務所に送りつけられたそれは、私らしき人物を隠し撮りしたものだった。
私だ、と断言できないのは、その写真の場面にちっとも心当たりがないからである。
薄暗い酒場でガラの悪い男たちに微笑み、カメラに見せつけるように煙草をふかす。どれも日頃の私ならば、決してしない行動である。
売り出し中の若手俳優は評判が命だというのは嫌というほど聞かされたし、特にお茶の間に顔が売れ始めた今は尚更である。事務所から言われるまでもなく、後ろ指を刺されかねない行為は控えていた。
「社長だって分かってるでしょう、私がこんなことするはずないって!」
「だけどね君、この商売はイメージが何より大切だっていつも言ってるでしょ?」
写真の中から一枚を取り上げ、社長はため息をつく。それこそが最も悪質なものだった。
映っているのは、やはり私だ。下から見上げるようなアングルで撮られている上、夕焼けのような逆光のせいで表情は見えづらい。
にも関わらず、その私は歯を剥き出しにし、目を嗜虐的に歪ませた恐ろしい表情をしているのが分かる。何よりも目を引くのは、どす黒く顔の半分以上を染めている液体だ。写真には、今まさに振り下ろされようとしているかのように高々と掲げられた酒瓶も写っている。きっと滴っているのは、写真を撮った人物の返り血だろう。
引き延ばして駅に飾れば、暴力防止に一役買いそうなほどの凶悪さだった。
「こんなの載せる週刊誌も問題だけどね……これが出回っちゃった時点で君はめちゃくちゃ評判落としてるわけよ。分かるでしょ?」
「で、でも、場所も被害者すらも分からないこんな写真くらいで……!」
「そうなんだよね……芸能人のスキャンダルなんて過激なストーリーこそが売り物なのに、こんな写真一枚だけが話題になるなんて聞いたこともないよ。本当に心当たりはないの?」
「だから、何度も言ってるじゃないですか!」
「残念。これだけの写真家ならすぐにでも仕事を依頼するのに」
と、社長はまんざらでもなさそうに写真を机に置く。
「とにかく、週刊誌相手の訴訟は進めてるから安心してよ。肝心の被害者が出てこなければ騒動はその内収まるから、君はゆっくり休んでて」
「……結局は謹慎処分というわけですか」
「まあまあ、ちょっと早めの夏休みだと思ってさ……空白があると人間は勝手に話を作るからね、君に嫉妬した故の捏造だの、ストーリーを作って想像の余地を埋めちゃえばこっちのものだよ」
黙り込む私に構わず、話は終わったとばかりに社長は席を立った。
「そうそう、これを渡しておかないと」
「……慰謝料か何かのつもりですか?」
「家から出られないとはいえ、何かと入用にはなるだろう。ま、とっといてくれ」
と、社長は膨らんだ封筒を押し付ける。この期に及んで断るのも何だか馬鹿らしくなり、私は金を受け取って事務所を後にした。
*
正当な理由もなく自宅に閉じ込められる日々は、緩慢な自殺のようだった。
インターネットがあるから買い物には困ることはないと思っていたが、配達員は私の顔を見るだけで、まるで狂犬にでも遭遇したように怯え、中には不躾にもスマートホンのカメラを向ける者さえいた。それについて少し強い調子で拒めば、あっという間に噂は広がる。
その日のうちに事務所から厳重注意の電話がきた。
「家の中で大人しくしていることは、そんなに難しいか?」
「…………」
「謹慎期間は延長だ。少し反省してくれ」
「分かってください、私は何もしてないのに……!」
「ふん、人殺しのくせにいい気なもんだな」
驚きに息を飲んだ瞬間、電話は切れた。
今のは誰の声だろう。いたずら電話ばかりの固定電話はとうに電話線を引っこ抜いているが、ついに携帯電話まで番号が漏れたのだろうか。それとも、事務所の人間も本音はあんなものだということか。
私は悩んだ末、携帯電話の電源を切って部屋の隅に放り投げた。
*
いつまでたっても謹慎解除の連絡は来ない。
携帯電話が通じないなら、自宅に様子を見に来るのが普通じゃないか?
この部屋のチャイムを鳴らすのは配達員だけだ。最近は荷物の受け渡しもせず、玄関前に放置されていることが多い。ご丁寧に私の名前に「殺人犯!」や「犯罪者!」などの落書きや泥のついた足跡まで付け加えてくれる始末だ。
社長が最後に渡した金は、手切れ金のつもりだったのだろうか?ネットバンクを通じて確認する貯蓄は、緩やかに減り続けている。
私が出るはずだった夏の連続ドラマは、聞いたこともないような新人が当たり前のような顔をして出演している。あいつの演技なんてお遊戯会じゃないか。そう書きこんでやろうかと思ったが、万が一私の発言だと知れたら復帰は絶望的だろうと思ってやめた。
しかし、そんなことにどれだけの意味があるんだ?相変わらず事務所からの連絡は来ない。来ないのに。
*
自宅に閉じ込められてから、どのくらいの時間がたったかもわからない。髪の毛がずいぶん伸びた。これでは人前に出ることもできない。
しかし、ある時私は気づいた。逆に言えば、この格好なら私だと気づく人間もいないのではないだろうか?その考えは乾ききった舌の上に落とされた蜜のように甘く、私の脳を刺激した。そうだ、こんなにみすぼらしく、薄汚く、不摂生によってやつれた姿を、誰が人気俳優だと思うだろう?
私はふらふらと立ち上がり、マンションの廊下へと続く扉に向かった。
恐る恐る扉を開けると、途端に飛び込んできた針の様な光に思わず目を閉じてしまう。すっかり時間の感覚を忘れていたが、今はどうやら昼間らしい。
改めて力を込め、扉に体重をかけて押し開ける。毎日開け閉めしていたこの扉をこんなに重く感じるなんて、復帰の前に体づくりをしなくちゃな。
眩しい光に照らされて、私は久々に前向きな気持ちを取り戻していた。使い古しのサンダルに足を突っ込み、恋人に会いに行くように高鳴る気持ちを抑えて私はいよいよ廊下へ踏みだした。
突然あびせられるフラッシュや、人々からの罵声。想像していたようなことは何も起こらなかった。階段を下ってマンションのエントランスを出ると、衰えてしまった足はすぐに痛みを訴えだしたが、そんなことも気にならないくらいに開放感で一杯だった。
午後の柔らかな空気を胸いっぱいに吸い込んだ時、私は香ばしい匂いに気が付いた。
そうだ、この近くには小さなパン屋があった。そこで焼き立てのパンを買い、公園にでも座って食べたらどんなに気持ちがいいだろう。
その考えはしかし、すぐに沸き上がってきた不安に塗りつぶされる。もし、店員が私に気づいたら。もし、こうして外出しているところを写真にとられたら。
小鳥のさえずりのようなベルに迎えられた瞬間、私は間違った場所にきてしまったような不安に襲われる。前に風呂に入ったのがいつかも覚えてない。今の私は、きっとひどく臭うだろう。
だが、どんな暗い想像も、バターと小麦の切ないほどに甘く狂おしい誘いに勝てはしなかった。
私は一刻も早く店を出ようと急いでトレイを手に取り、目についたパンを取ってレジへ進んだ。
「一点でよろしいですか?」
「……はい」
「お買い上げありがとうございます!」
若い店員は私の容貌を気にする様子もなく、てきぱきとパンを紙袋に詰める。私は目を合わせないように小銭を取り出し、震える手で支払いを済ませる。
紙袋を受け取って店員に背を向け、ようやく一息ついた。上手くいった。私はやり遂げたんだ。
しかし、木製のドアに手をかけたときに背後から声をかけられた。
「あの!」
「……!」
振り返るか、それとも走って逃げるべきだろうか?思わず身がすくみ、足が震える。
「ポイントカード、作りますか?」
「……いや、結構」
どうにか小声で返答し、今度こそ私は店から脱出した。
*
パン屋のすぐ近くに、遊具などはほとんどないが広い芝生のある公園がある。
私が無我夢中で購入したのはクロワッサンだった。芝生の隅に腰を下ろして紙袋から小さな三日月を取り出し、かぶりつく。
焼き立てのパンの食感は、通販生活では決して得られない悦楽だ。目を閉じて香ばしい層が崩れていくのを、ただ味わう。
「やだ、何あれ」
「うわキモ、ってか野人?」
遠くで誰かが話しているのが聞こえる。心配するな。私はやり遂げたのだから、何も恐れる必要はない。
「あれさ……じゃない?」
「マジで?……あー、確かにそれっぽい」
手のひらに嫌な汗が出てくる。大丈夫だ。だってここまで誰も気づかなかったじゃないか。私がここにいることに、何の問題があるって言うんだ?
それでも、声はだんだんと近づいてくる。
「なんか食ってるし」「え、どこどこ?」「ほら、あれ」「お、本当だ」「俺も見たいんだけど」「いや、近寄らないほうがいいって」「終わってるよね、あれ」
ざわめきが大きくなる。早く逃げなければ。
そうは思うが、私はどうしてもクロワッサンを、自分の手でつかみ取った幸福を、最後まで味わいたかった。
急いで残りを詰め込もうとした瞬間、側頭部に殴られたような衝撃を受けた。
「お、命中!」
続いて笑い声が蝉の音のように響く。投げつけられたのは、ビールの空き瓶だ。こめかみから生暖かい液体が流れだし、土に落ちた私のクロワッサンをゆっくりと汚した。
いったい私が何をしたというのだろう?どうしてこんな目に合わなければならないのだろう?
笑い声はやまない。輪唱のように重なり合い、とめどなく頭の中へ染みこんでくる。
私は何を手に持っているかも考えず、彼らのもとへ歩き出した。この笑い声がやめば、きっと自由になれる。そうなったら、どんなに幸せだろうか。私はそれを想像し、思わず微笑みを浮かべてしまう。
生ぬるく濡れる耳のすぐそばで、嘲笑うようなシャッターの音が聞こえた気がした。
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