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蛹化
ドアが開き、混みあった電車の中から少しずつ人が押し出されていく。まるで排泄物のようだ。
降りる人間が済むと、新しく乗り込む客と一緒に元通りに車内へと戻ってくる。糞が出た後にまた入ってくるなんて気色悪いことこの上ない。
長い十両編成の列車は、不健康に成長した芋虫のようにも見える。外装も緑色でぴったりだ。どうにか糞どもを内部へ押し込んだ芋虫は、のったりと移動を始めた。
郊外へ向かう路線の駅間は長い。老若男女が区別なく狭い室内に閉じ込められてみっしりと息をひそめている様子は、排泄物よりも細胞に似ているかもしれない。自分の意思など持たず、ただ機能を果たすだけの器官だ。
車窓が闇に包まれ、耳の奥が詰まったような感覚が訪れる。どうやらトンネルに入ったらしい。ごとんごとんと遠く聞こえる芋虫の鼓動がだんだんと失速していき、ゆっくりと止まった。
人身事故か、時間調整だろうか。車内アナウンスは流れない。乗客は不安を見せることもせず、ただ静かに待っている。このまま残りの生をここで過ごせと言われても、一切反抗しなさそうな従順さだ。
満員電車に順応するためには、その種の無関心さが必要なのだ。周囲の人間が全て意思を持って思考していることを忘れなければ、それと過剰に密着している状態に耐えきれないのだろう。
やはり前触れはなく、再び芋虫は動き始めた。車内に僅かな安堵の気配が共有される。
「次は、ようか。ようか」
先ほどの一時停止などなかったように次の駅がアナウンスされる。だが、何かおかしい。
ようか?次の駅は裏和だったはずだ。それに「ようか」なんて駅はこの高裂線にはない。
不審に思って辺りを見回すが、彼らは一様に下を向いて振動に合わせて小さく体を揺らすだけで、疑問を持つようなそぶりは見せない。
では、電車を乗り間違えたのだろうか。どうにか路線図を見ようと首を伸ばしてみるが、限界まで圧迫された状態では身動きするのも困難だ。自分の携帯電話を取り出すのなんてとても不可能だし、トンネルの中では電波がつながるはずもない。つまり、次の駅まで待つしかないということだ。
芋虫は暗闇を走り続ける。急な加速によって進行方向の反対に圧力がかかり、姿勢が不自然に傾いた。前の誰かに思いきりもたれかかられ、全身に感じる温度と湿度がぐっと増した。
それでも加速は終わらない。このままでは潰されて体の中身が出てしまいそうだ。誰かを押し返して空間を作ろうと必死にもがいてみても、それはむしろ密着度合いを強めるばかりだった。
暑い。指の先まで汗がにじんで溶けていくほどだ。その時、首筋に生ぬるい液体が滴るのを感じた。誰かの汗だろうか。それとも、こもった水蒸気が天井から落ちたのだろうか。どちらにせよ、最悪な気分だ。だったら原因について考えるのをやめた方がいい。
目を閉じて暗闇に身をゆだねると、不快感はだんだん鈍くなっていった。全身の感覚が遠く離れていく。がたん、と一つ音がして、どうやら芋虫は動きを止めたらしい。だが、景色は暗闇のままで、全身にかかる圧力もそのままだ。
目を開いた覚えもないのに、前に立つ誰かの鼻先がとろりと溶けていくのが見えた。きっと私のまぶたもとろけて落ちたのだろう。芋虫は蛹を作るときに、中身を一度どろどろに溶かして作り変えるらしい。
トンネルはまだ続く。羽化するまでには、あとどのくらいかかるのだろうか。
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