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狼に姿を変え、全力疾走するイサークの背に跨って、振り落とされないようしがみついていた間は、周りの景色を眺めている余裕なんかなかった。
「着いたぞ。大丈夫か?」
「あ、ありがとう、ございます」
トンッ、と足を着けたイサークが振り返り、声を掛けてくれたけれど、礼を言って地面に滑り落ちるように背から降りるくらいしか出来なかった。しがみついていた手も足もガクガクしてる。
「無理をさせて悪かった」
「いえ、早く離れないといけないですし」
ある程度はルカが時間稼ぎをしてくれるが、湊の足に合わせていてはすぐに追いつかれてしまう。イサークの申し出で、狼になった姿の背に乗せてもらっての移動になった。
つい、ふう、と安堵の溜息が出てしまった。
「ケガはないな?」
「はい」
人の姿に戻ったイサークが湊の背中からリュックを降ろしてくれる。
地面に滑り落ちたのに痛くなかったのは、敷き詰めた草の上だからだった。
「軽く掃除はしておいた」
湊を連れて来る前に何度か下見に来てこの場所を見つけ、掃除をしたり草を敷き詰めたりしておいてくれたとのことだった。
「ありがとうございます。わあ……星空みたいですね!」
かなり広そうな洞窟の所々、洞窟の入り口から差す日の光りを受けて輝いているのは小さな水晶の欠片らしい。グナリ達がいた山ほどではないが、魔界の山はほとんどが水晶を多少なりとも含んだ層で形成されているそうで、中度の魔法なら弾き返すため、魔力の弱い魔物や人型になれない動物系の魔物が子育ての間、山の洞窟に棲みつく。
ここも何かの動物系の魔物が子育て期間中に使用していたんだろう。子育てが終わったのか、別の良い場所を見つけたのか、何者も出入りしてなかったのを確かめた上で準備してくれたと言う。
「俺がいるから安心していい」
もし、空いている洞窟を見つけて横取りしようとする動物系の魔物がいたとしても、人狼族は『狩る側』でも頂点に君臨しているため、『狩られる側』の魔物は人狼族の気配と匂いがするだけで近づけないのだそうだ。
「外を見てみるか?」
差し出された手を掴んで立ち上がり、ついて行く。
「すごっ!」
切り立った崖の中腹に洞窟はあった。眼下には深い森に澄んだ青い湖が、空には羽根のある魔物が通り過ぎていく。
「あちら方向に夕日が沈み、こちら方向から朝日が昇る様も絶景なんだ」
夕日が沈む方向は広く続く森の果て、朝日が昇る方向は山脈の間。その山脈にも水晶が含まれていて、朝日を受けて山がほんのりと輝くという。想像しただけでワクワクしてきた。明日の朝が楽しみだ。
シルシュスタイン家の領地からは外れているが、比較的まだ人間界に近い場所で、瘴気も少ない。床になる地面に敷き詰められている草は乾燥してしまっていても柔らかく、踏みしめたり押し潰したりするたびに良い匂いがする。
「見たことがない形の葉です」
足元の葉を一枚手に取った。硬さは椿に、色は桜に、柔らかさは蓬に、けれどもどれでもない不思議な形をしている。
「この植物は、ここの森特有の植物だ。絞った汁には鎮痛効果があり、乾燥させれば浄化効果がある。昔から重宝されている植物だ」
「魔界特有ではなく、この森特有なんですか?」
「そうだ。他の森には生えていない。魔界の森はそれぞれ、自生する植物や生息している動物系の魔物の生態系が違う。人間界のように棲む場所に適応することがない」
森の一つ一つ、構成されている生態系が違い、共有するものがないのだそうだ。
「そのために領土争いが頻繁に起こっていたらしい」
深い森を眺め、目を細めるイサークが語ってくれたのは、子供の頃に習った魔界の歴史。
その昔、まだ魔王が魔界に君臨していた当時は、魔王城、有力魔族の棲む城、魔力の弱い魔物が作った集落以外は全て森だった。魔王が有力魔族に割り振った領土だけでは満足できず、他の森が生み出す利益を求めてあちこちで争いが勃発していた。
一度戦い出したら止まれない。利益を求めていたはずが、互いの森を焼き尽くすまで続けてしまうせいで、どんどん焦土化していった。魔力が弱く、無害な動物系の魔物や自生しているだけの植物はただただ失われていく。魔王の側近だった魔物も領土争いを繰り返していた者が多くいたため、現状を報告しなかった。
しかし、長くは続かない。魔界の現状に気づいた魔王の怒りに触れ、領土争いをしていた者へ鉄槌が下る。
自領以外への侵略、略奪を行った魔物の魔力を奪った上で魔界から追放した。割り振られた領土以外の所有を禁じ、従わない者は同じく魔力を奪った上で魔界から追放、そして所有地・略奪地ともに枯渇させ、再生不可能にすると宣言した。
とはいえ、そこは魔物だ。魔物である限り、闘争や騙し、化かし合いゲームを楽しもうとする。派手な争いをするからバレるんだ、ならば密かに奪えばいいという姑息な考えで、罠を仕掛けて相手から領土を奪う魔物は後を絶たなかった。
「どうなったんですか?」
「本人も言ってただろ?魔界で魔王の目が届かない場所はない」
従わなかった魔物の土地は没収された途端、枯渇した。当主や関係者は魔王に魔力を奪われ、消えた。
「それで、魔界はこんな風景になった」
枯渇した土地の一部には草木の生えない岩山が隆起し、土地を分断する急流な川ができた。ある意味、所有する領土を分かり易くした地形になった。隆起した岩山が火山で常にマグマを噴き上げていたり、川の流れが堰き止められて大きな底なし沼になっていたり、魔物を餌とする植物が生えたり、およそ人間が想像する魔界に近い姿になったのは、領土争いの結果だった。
絶対的な魔力を誇る魔王が定めたおかげで無駄な争いが無くなり、豊かな森が保たれている歴史があると教えてもらった。
「魔王城を見ても分かる通り、魔王がいれば魔界は魔界らしく存続できる。俺たち人狼族にとって森は必要不可欠だ。俺たち一族だけじゃない。森に棲む動物系の魔物たちにとっても」
水面下で怪しい動きをしている魔物がいる限り、いつまた森が消滅してしまうかも分からない。それは、ここのように所有者のいない森だけでなく、有力魔族であるガーゲルン家が所有している森にも言えることで、狼になり、森とともに生きているイサークの一族、森に棲んでいる者達にとって重大な問題だ。
森と親密に暮らす魔物の中で最強である人狼族が、森を守り、森に暮らす魔物達を守りたいのは当然の流れで、事が起こる前に潰したいからできるだけ早く魔王に戻って来てもらいたいというイサークの願いは尤もだった。
「尊人に出資されると聞きました。もしかして、何か関連があるんですか?」
森に連れて来たから森の話をしてくれたんじゃない気がして聞いてみた。振り返ったイサークの表情は和らいでいる。
「そうなんだ。住環境を侵害されてる妖怪を保護し、彼らが棲みやすい自然の中で暮らしてもらい、その中で生きていく術を見つけてもらおうというのが尊人の計画なんだ」
岩肌を噴き上げてくる風が強くなってきたので洞窟の出入り口から離れ、敷かれた草の上に向い合せで座った。
「そうなんですね……」
湊には、妖怪を捜し出すためにかかる雑費についての話をしてくれたが、その後、具体案が纏まってきたから、イサークとステファンに出資を持ちかけたようだ。
「魔界のように別空間が作れれば、と尊人は考えていたようだが、亜空間を作れるのは魔物でも限られている。尊人には結界が作れるだろ?人間界の土地に結界を張って守る方法になった」
人間界にあるどこかの島、または人間が入って来れない深い森の奥の土地を買い取り、そこに結界を張って移動させる方が亜空間に慣れていない尊人や日本の妖怪達にもいいだろうというイサークの配慮でもあった。
「尊人の結界に、俺の一族の力が弱い子供を受け入れてもらう話もついた」
「力が弱い子……」
深く頷くイサークの眉間に皺が寄った。
「一族の皆さんで、ではなく、子供だけで、ですか?」
親と子供を離して暮らさせるのは気の毒で、思わず聞いていた。
「俺達は魔物だ。本来なら、瘴気に当たっていないと寿命を縮めてしまう」
「えっ?!」
逆じゃないんだろうか?尊人の張る結界は、悪意や邪気といったものを弾いてしまう。瘴気も勿論。そんな中でイサークの一族の力が弱い子供を育てるのは危険じゃないのか。
「だが、魔物でありながら、瘴気に当たっていると生きられない子供がいる」
魔物なのに魔界にいるだけで寿命を縮めてしまうため、今は人間界と魔界とを行き来させているが、出来れば人間界で育てたいと常々考えていたそうだ。しかし、人間界では元気に育ってくれていても、魔物は魔物。成長スピードや身体能力が人間とは違い過ぎて、長くは逗留できない。そして、子供に付き添っている成体の魔物は、瘴気に当たれずに弱ってしまうので、こちらも長期滞在はできない。
人間界の空気で満たされつつ、人間が暮らす社会とは隔絶を保証されている尊人の結界内なら元気に伸び伸びと育てようと、落ち着いたら一族を集めて相談しに戻るという。
「結界の内側は子供達が、外側は一族の者が警備すれば、いつでも逢いたいときに逢える」
心配しなくてもちゃんと子供と親のことを考えて組み込まれていた。ホッとする湊を見て、目と口の端を緩めている。
「一族の親と子の心配をしてくれるんだな。不思議な子だ」
子、と言われてしまい、恥ずかしかった。イサークが考えていないわけがないのに、頭が回っていなかったのが、身体だけは成体になっていても、思考が子供だったなと反省する。
「普通、同族の心配はしても、他族の心配なんかしない。仲間という存在はいいものだな」
しみじみと噛みしめるように言うイサークに頷く。
「仲間や友達がいなかったので、イサークさん達に出逢えて、輪に入れてもらえて、色々問題はありますけど、毎日が楽しいです」
「そう思ってもらえてるなら良かった。俺も同じだ。だから、尊人のプロジェクトを成功させたい」
一番の本音はそこだろう。ステファンが賛同したのも、イサークと同じ理由だと聞かなくても分かる。尊人が協力を願い出たのなら、内容も聞かずに協力してくれただろうが、あえて交換条件を出したのは、仲間に遠慮されたくなかったからだと思う。
もし、湊がイサークやステファンと同じ立場だったなら、そうしていたからだ。
「ステファンさんも何か条件を出されたんですか?」
「ああ。ステファンは魔王城に棲んでいる妖精系の魔物を保護してくれと頼んでいた」
「―――妙案だな」
声が聞こえた途端、肌が泡立ち、無意識に身構えてしまった。
「魔王?!」
真横に魔王が立っていた。
いつ入って来たのか、声を出されるまで全然気配を感じなかった。
「気配を辿って来た」
すっと指差されたのはイサークだ。
「俺の?」
こくり頷く。
「突然どうされたんですか?」
座ってもらうよう、少し位置をずれた。音もなく二人の間に座る。
「隠していた本がラドゥに見つかった」
以前渡した魔王と魔王城について書いた本をエドアルトと相談して、暫くはラドゥに見せないでおくことになっていたのだが、目敏く見つけられてしまい、父上だけ魔界に行ってズルイ!と責められたのだそうだ。
「友達に逢いたいとすねている」
それで仕方なく、気配が分かるイサークの所へお伺いを立てに来たところ、二人の話を聞いたとのことだった。
「姪と甥が喜ぶ。早速と言いたいところだが」
「こんなところにいる理由が原因か?」
シルシュスタイン家の部屋ではなく、洞窟を見回す。イサークと目を見合わせた。ステファンがいない今、どこまで魔王に話していいのか悩んでしまった湊に、イサークが頷いたので判断は任せることにした。
「俺達はシルシュスタイン家の当主に直談判するために動いている」
湊とステファン、イサーク、尊人の三人と番わせようとしているベスニクが現在、別の場所にいて不在にしているので、直接の話し合いの場を設けるためにわざと問題行動を起こしている最中であることを説明した。
「魔王と魔王城についての本を出版したのも、水面下で不穏な動きをしている魔族を牽制するためでもあり、湊という魔界で唯一の魔物のオメガを守る一環だ」
表情を変えずに聞いていた魔王は何を思うのか。
「強制されるのではなく、湊には湊が想う者と一緒になってほしい。当たり前のことだが、当たり前が通じない相手だ。俺達の意思が固いことは、顔を突き合わせて直接話さなければ伝わらないだろう」
沈黙する魔王に、イサークの声は届いているのか。
いま自分達がしていることを聞いてもらっている間に随分と日が傾いた。ランタンに火を灯す。岩に含まれた水晶がランタンの光りで瞬き、幻想的な空間を描き出す。洞窟の外は真っ暗で、時折、虫や動物の鳴き声が響いてくる。
「―――こうとも考えられる。シルシュスタイン家の当主は魔界で唯一の魔物のオメガな湊を利用し、ウラディスラフ家、中御門家、ガーゲルン家を傘下に置き、新たな魔王になろうとしているのではないか、と」
淡々と経緯を話すイサークの言葉の最後は思いもよらないものだった。
「え……?」
「行き過ぎた想像かもしれない。だが少なくとも、近い将来、水面下で不穏な動きをしている魔族が蜂起したとき、シルシュスタイン家を含めた四家が手を組んで対抗すれば、こちら側につくだろう魔族は多い。そこを湊を盾に脅されれば、俺達は逆らえない」
「イサークさん……」
行き過ぎた考えだと言いながら、何かシルシュスタイン家の動向について、イサークの耳に届いているようで、力強い視線が湊に向けられた。たとえ、ベスニクが妙な考えを持って動いたとしても、湊を信じ、危険が及ばないように動く話がイサーク、ステファン、尊人の間で交わされていると教えてくれる。
「魔族の動きは魔王城にいてもどうとでもできる」
魔界一の権力者の座を巡り、魔族間で闘争が起ころうが、別空間にある魔王城から操作、介入して潰すことは出来ると魔王は言い切った。
「だが―――魔物のオメガが不在となったが故の認識不足、諸問題は由々しきことだ」
微かに眉間に皺を寄せ、考え込んでいる。
「そこまでになっていたとは。私の管理が甘かった」
エドアルトや城にいる者達から、そろそろ魔界に戻っては?と提案されてから、現状把握のためにちょこちょこ魔界を訪れていたそうだ。しかし、地形などの環境を視察していただけで、魔族の動きや種別、個体数についてまでは調査していなかったが、湊達から魔界では長年、魔物のオメガが生まれていないと聞かされてから今日まで、魔界全土の魔物の現状を調べて回っていたと言う。
「確かに魔界に存在している魔物のオメガは湊だけだ」
まさか、だった。魔王に断言されるまでは、どこかに隠れ棲んでる魔物のオメガがいるんじゃないかと思っていた。
まだ魔王が魔界に居た頃、多くの魔物はオメガを知っていたはずだ。魔王城に魔界中のオメガが集められた後、ドラゴンのように、孵化や誕生までに時間を要する魔族にオメガが誕生してもいたはずだが、召し上げられるのを恐れて隠し続けたせいなのか、魔物にも人間同様、環境に適応するための変化が遺伝子単位で起こったのか、生まれてきた子はアルファばかりになっていき、より強く在ろうとしてアルファ同士の婚姻が優先され、オメガはいなくなった―――。
そうして、史実としてではなく、伝説やお伽噺になった魔王とともに魔物のオメガの存在は忘れられていった。
代々各家の限られた者にだけ、かつて魔物にもオメガがいたことは語り継がれてはいるが、書物として残っていないのは、どこかにまだ存在しているかも知れない魔王に、子供を攫われないように用心なのかもしれない。
「この件は一旦、持ち帰る」
魔王本人が望んだのではなく、側近や当時の魔物達が本人の意思を無視して動いた結果、不自然で歪つな現状を生んでしまったのだが、要因である魔王の責任なので、いま魔王城に棲んでいる魔物達に現状と事実を伝え、彼らの意見、意思を踏まえた上で対策と最善策を用意すると請け負ってくれた。
区切りをつけた後は、ルカが用意してくれたお弁当を食べながら雑談になった。ホッとしたのと、お腹がいっぱいになったのとで眠くなってきた。
「急展開で疲れたんだろう。無理せずに休め」
リュックから寝袋を取り出して明かりを小さくしてくれた。一人だけ休むのは…と遠慮していたが、
「俺は夜行性で夜は眠れないだけだ。明日も色々あるだろうからな。休めるときに休んでほしい」
肝心な場面で足を引っ張らないためにも言葉に甘えておいた方が良いようだ。
「すいません、ありがとうございます」
二人に頭を下げると、魔王も頷いていた。寝袋に入って暫くは時折届く二人の話し声が聞こえていたが、内容までは耳に届かない。でも、誰かが傍にいてくれる安堵感からか、すぐに眠りに就けた。
翌朝、イサークに起こされたときには、頭がスッキリしていたくらい、ぐっすり眠れたらしい。
「早い時間に起こしてすまない」
湊が眠っている間に魔王は帰ったようで姿はなかった。イサークに促されるまま、薄明るくなってきている洞窟を歩いて行く。
「うわあ……!」
洞窟の出入り口に着き、外に目を向けると、森の向こう側から朝日が昇ってくるところだった。木々の間に霧が残り、広がる雲海の上を太陽が照らしている様は幻想的だ。
朝日が昇るとともに霧が晴れていき、濡れた葉や湖の静かな水面を輝かせていく。活動し始めた鹿に似た魔物、馬に似た魔物が湖の水を飲みに集まっているのも見えた。
「すごい……キレイですね」
「これを湊に見せたかった」
人間界の日の出も荘厳だが、魔界の日の出も荘厳で幻想的で、夜行性の魔物と昼行性の魔物が入れ替わる時間でもあり、穏やかな光景が広がる。生まれ故郷としての魔界を大切に思い、紹介してくれたイサークに感謝する。
「あまりルカを森の中に留めておくのも申し訳ないからな。発見しやすいように焚火でもしよう」
偶然を装い、二人をルカに発見してもらう手筈になっている。昨夜のうちに拾っておいた枯れ枝に火をつけ、お湯を沸かす。上がった煙が見えやすいよう、洞窟の出入り口付近で昇っていく太陽を感じながらのお茶は格別だった。
お湯が沸くまでの間に寝袋やリュックを洞窟の奥にかため、敷物にしていた草の下に隠しておく。そのための草でもあったようだ。
「準備万端な物を発見されたら面倒だ。少し塞いでおこう」
言うが早いか、天井や壁になっていた部分の岩を素手で砕き、リュックを隠した草の手前から先へ行けなくした。
「えっ?!ケガしてませんか?!」
手を取って見てみるも、傷一つ負っていない。
「いい運動になった程度だ」
驚く湊を意に介さず、イサークはケロッとしている。はあ~、と感嘆とも衝撃ともとれる溜息を零す。
「こんなのは人狼族にとってはなんでもない―――と、ルカが到着したようだ」
鳥型の魔物が木々をバサバサッと揺らし飛び立つ。近くにいた魔物よりもイサークが先に気づいていた。本当に?と見下ろすと、黒猫が崖を軽々昇ってくるところだった。
「目印をありがとうございます」
洞窟の入り口に辿り着いたルカが人型になり、最初にイサークへ礼を述べる。
「荷物はそこに隠してある。後で回収しよう。とりあえず、踏ん張ってくれ」
いきなり周りの空気にぶわっと圧がかかった。崖のギリギリ、表を背にして立つルカに向かって圧がかかった洞窟内の空気が外へと放出される。
「ルカ?!」
吹き飛ばされてしまったんじゃないかと慌てた湊の前に、にっこり笑うルカが立っていた。
「さすがイサーク様。お見事です」
イサークが放った攻撃は直前でルカを避けており、それでも万全を期して踏ん張れと言ったのだった。見つかったからってすんなり戻るのはおかしいので、さっきのはイサークとルカが衝突したふうにする演出だった。
「もうっ、言っておいてよ!ルカが……ルカが……」
受け身も取れずに落ちたんじゃないかと背筋が冷えた。まだ手も震えている。
「申し訳ございません。この通り、私は大丈夫です。どうか落ち着いてください」
晴れていた空が暗くなっている。
「不意打ちですまなかった。きちんと言っておくべきだった」
まだドキドキする心臓を落ち着かせようと深呼吸していると、イサークにも謝られた。晴れ渡っているべき空を暗くさせているのは湊のせいだ。不穏な雲の動きに崖下からざわめきが届く。
「ごめん、ちょっと待って」
宥められながら呼吸が整うまで自分の力を制御できないなんて、恥ずかしい限りで。
「……不謹慎ですが、嬉しいです。湊さまがそんなに心配してくださるなんて」
手を握りながらルカに言われた。
「当たり前だろっ、ルカに何かあったらこうなるに決まってる!」
声が震えてしまって情けないが、湊にとってルカは大切な存在だから、少しの傷も負ってほしくない。危険な目に遭うのが分かっているのなら、どんな手段を使ってでも止めさせるほどに想っていることを分かってもらえてなかったのが悔しい。
それもこれも、これまで湊がルカに甘え過ぎてたせいだ。感謝の気持ち、どれだけルカが大事かを伝えてきたつもりだったが、こんなことで嬉しいなんて言われないよう、もっと伝えていかなければ。
ルカの手を握り返し、滲む視界で目を見据える。
「危ないことはしないで。ルカに何かあったら、俺は堪えられない」
握った手にぎゅっと力を込めると、ルカが目を見開いた。
「―――はい」
頷き、俯くルカの前髪が震える。こつん、と額を当てて、本当だからねと呟くと小さく頷いていた。
「驚かせてすまなかった。俺が勝手にやったことだ。これからも咄嗟の判断で、湊に伝える前に行動してしまうかもしれない。ただ、絶対にルカを傷つけはしないと誓う。信じてくれないか?」
二人の横に膝をつき、胸に手を当てて宣言するイサークの潔い謝罪と言動に胸を打たれると同時に恥ずかしくなった。
「ごめんなさい……。イサークさんがルカを傷つけるわけがないって分かってるのに」
心のどこかで欠片でもイサークを信じていなかったかと責められても仕方のない揺れをしてしまった。謝罪するのは湊の方だ。
「俺が軽率だった。湊が怒って当然だ。申し訳ない」
頭まで下げられてしまった。
「イサークさんは悪くありません!俺が弱いだけなんです。ルカに甘えっぱなしで、頼ってばかりだから……」
慌てて頭を上げてもらって、湊が頭を下げた。
「甘えられて、頼れる相手がいるのはいいことだ。俺も湊にとって、そういう相手の一人に加わらせてもらいたいと思っている」
下げた頭を軽く撫でられて、自分の情けなさに打ちのめされながら、掌から伝わってくるイサークの温かさに胸が震えた。
「俺も、イサークさんが頼りにしてくださったり、楽しいと思っていただける相手になりたいです。今はまだまだ力不足ですが……」
頭を上げて真っ直ぐ目を合わせると、ふっと微笑んだ。
「充分、頼りにしてる。魔界で隠遁生活で時間を持て余すところだったのが、湊と出逢えたおかげで充実した日々を過ごせてる。まだ始まったばかりだ」
出逢いも、ベスニクとのことも始まったばかりで、互いのことを知るのも、これからどう交渉していくのかも、慌てず焦らずに続けていけばいい―――そう言ってもらえた気がして、心が凪いでいくとともに、広がっていた暗雲が晴れていった。
崖下でのざわめきが大きくなっていっている。先ほどの突風で激突があった様子なのと、交渉に行ったルカが中々戻って来ないのと、急に曇らないはずの空が曇ったのにまた急に晴れたのとで捜索隊の者達が騒ぎ始めていた。
「他の捜索隊と合流されても厄介ですね」
「そろそろ降りるか」
「うわっ……!」
ひょいっと片手でイサークに持ち上げられて、バランスを崩しそうになった。
「しっかり摑まれ」
右腕に座る形で抱き留められ、首に手を回して摑まった。
「先にルカが飛び降りたら、すぐに俺も飛び降りる」
足を支えてくれる手に力がこもり、頷いた。
「では、お先にまいります」
昇って来るときは黒猫姿で足場を確かめながら慎重だったのに、降りるときは足場を蹴って飛び降りて行く。え?と思う間もなく、湊を抱えたイサークがそのまま飛び降りた。声を出す余裕もない。しがみつくので必死だ。地に足が着く瞬間、かなりな衝撃があるんだろうと身構えてたのに、ふわりとした着地だったので、地面に着いたのが分からず、しがみついていた。
「湊さまとイサーク様を見つけた。他の捜索隊にも発見の一報と帰還の連絡をしてくれ。我々も屋敷に戻るが、くれぐれもお二人に手出ししないように」
珍しい口調のルカの声が聞こえて目を開ける。
「―――このままで屋敷に帰る。乗り心地悪いだろうが、我慢してくれ」
耳元でイサークに囁かれて戸惑った。このまま、ということは、イサークが湊を抱えたままということだ。重たいだろうし、歩き辛いだろう。自分で歩くと言おうとしたら、緩く首を左右に振られた。
これも何かの交渉の一環かもしれないと気づく。すいません…とイサークだけに聞こえる声で返事をしたら、大丈夫だと返ってきたので、この答えで間違っていないようだ。
周りをシルシュスタイン家の使用人達に囲まれている状況で、普通にあれこれ話せないからというだけでなく、無茶な拘束をされないように抱きかかえたままでの移動を選んだのだろう。慌てず、焦らず、周りに目を配り、状況を的確に把握できるようになれば、皆に迷惑をかけないで済む。そうなれるようにならなければと胸に刻み、俯く視線を上げた。
それでいい、と湊を支える手が軽く合図してくれる。
拓けた場所へ辿り着くと、使用人の一人が魔法陣を組み、屋敷の玄関ホールへと転送された。
湊を抱きかかえたイサークが無言で階段を上がって行き、湊に与えられた部屋のドアを開き、追って来たルカが入室してドアを閉めたところで降ろしてくれた。
「ありがとうございました」
「魔界にも見応えがある場所が色々ある。今度は皆でピクニックに行こう」
「ぜひ!」
光りの加減で真っ青な湖、全てが氷でできている山、毒々しい色合いの花で埋め尽くされた草原など、人間界では見られない魔界独特の観光地がそこかしこにあるらしい。勿論、観光地化していない、森を熟知しているイサークだからこそ知っている穴場もあると言う。ルカも知っている場所らしく、あそこのこれがよかったとか、ここもいいですよねとかで盛り上がった。ピクニックは棲んでいた山の森の中で何度かしたことがあるが、観光はしたことがないので楽しみだ。
ベスニクへの報告前にイサークと話し合っていた時間があると見せかけるために暫く雑談してから自分の部屋へ戻って行った。
「これから、ベスニク様にはどなたも引いてくれないと話に行きます。無いとは思うんですけど、ベスニク様から聞かれることがあったときのために口裏を合わせておきましょう」
三人がそれぞれ不穏な動きをしているとルカが忠告してくれて、警戒していたが、ベスニクから三人と番えと言われていたので無下にできなかった。魔力が無いので抵抗できなかった。父は幼い頃に亡くなったので、鬼については何も聞いていない。
この点を踏まえ、それ以外の質問には俯いてやり過ごすこと。湊が俯いてる代わりにルカか他の三人が答える。
「お三方を責められず、標的を湊さまにしてあちらの都合の良いように持っていくでしょうからね。そうさせないために、間を作っていただきたいんです」
「分かった」
でも、動揺したりして力が暴走しそうになったら…が心配だった。
「それでもし、雨雲や雷が発生したら、お三方の力が合わさって起こったものにしたいのです」
三人それぞれが力を発揮したら、魔界の天候でさえ変えられるんだと思わせたいとのことだった。一人一人には勝てるが、三人相手だと敵わないと印象づけるために効果的だと言われれば、断る理由はなかった。
ただ、もし、湊が黙ってることで皆に被害が及ぶ事態になりそうなときは、きちんと話そう。両親のこと、鬼の力を引き継いでいること。魔界からオメガがいなくなって長い年月が経ち、魔物にはアルファしかいない状況の中で、母は湊がオメガだと判っていた。どこでその知識を得たのか。そして、ベスニクも扱いの差はあれど、湊をオメガと認識し、受け入れている。受け入れた根拠は何か。
代々、当主だけが魔物のオメガについて語り継がれていると魔王が言っていた。では、ベスニクも引き継いでいるのではないか。湊にアルファ性が無いのを不審に思った母がベスニクに相談した?―――いや。不思議な旋律の母の声が響く。
『秘密を知られてしまった』
『あなたを利用しようとする人が出てくる』
これはベスニクを指していたんだろう。ということは、母は誰に相談したんだろうか。
「―――とりあえず、事態は回収されたという報告をしてきますね」
ルカの声でハッと思考の淵から浮上する。
「あ、うん。気をつけて」
はい、と返事して立ち上がり、一礼して部屋を出て行った。
ルカの報告を受け、ベスニクがどう動くか。
ラドゥが友達に逢える機会を早くに作れるよう、こちらの問題を、解決とまではいかなくても保留くらいに持っていけるように最善を尽くされなけば。
密かに決意を固めている間に、少しずつ思いと時間が動き始めていた。
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