運命のアルファは金色に輝く

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 人里離れた森の奥深く、周辺の木々に囲まれ、隠されたように建つ古びた洋館の一室で、動かなくなった母の身体が横たわるベッドの枕元に立ち尽くしていた。  静かな夜だ。  哀しい、淋しい、怖い―――色んな感情が湧き出してくる。  目頭が熱くて痛いのに、どこか空虚だ。感情が消えてしまったみたい。  小さく細い母の身体。  あなたが大きくなったから、私が小さくなったと感じるのよと笑っていたのは昨日のことなのに。  いつものように父との思い出話を聞かせ、覚えてしまうくらい繰り返されたラブストーリーに、最後に必ず付け加えられる「お父様そっくりになってきたわね」まで、昨日までは何ら変わることない日常だった。  実際は父に全く似てないのに、最愛の伴侶に先立たれた淋しさから、そう思いたかったのかもしれない。今となっては、本心を聞くことはできないけれども。  ドアがノックされ、入って来る気配がしても、母の顔を眺めていた。 「―――坊ちゃま」  母子を長年支え続けてくれているルカだ。  今朝、母を起こしに来たルカが訃報を届けてくれた。あれから何時間、こうしていただろうか。年々弱っていく母を見ながら、いつかは今日という日が来る覚悟していたつもりだったのに、あくまで『つもり』であって、本当の覚悟はできていなかった自分を嫌というほど思い知らされている。  一人になる覚悟が全くできていないけれども、こういう日がきたら伝えなければ、と思っていた。  ゆっくり顔を上げ、ルカに視線を合わせる。 「ルカ。ずっと一緒にいてくれてありがとう」 「何を仰います」  とんでもない、と恐縮するルカに、いつまでも甘えていられない。声を振り絞った。 「母さまが亡くなられたいま、いつまでもルカを縛っておけない」  緩くウェーブを描く長い黒髪、白い小さな顔、細くて小さな身体。ベッドに眠る母は、息子である自分とさほど年齢が変わらないように見える。  母は本物の魔女だった。  魔女は自らの手で作り上げた秘薬で不老を保つのだが、父が亡くなると同時に服用を止めたと聞く。しかし、魔女の血の成せる業か、外見は若さを保ちながらも秘薬を断った内面は徐々に老い衰えていき、眠ったまま亡くなった。老衰だ。  人の姿をしているけれど、ルカは魔女である母の使い魔で、本性は黒猫。魔女である母との契約により、息子である湊の世話もしてくれていた。しかし、主人である母が亡くなったいま、魔力がない湊には新しい契約を結ぶ力がなかった。 「本当にルカには感謝してる。俺たちと一緒にいてくれてありがとう。母さまと俺だけだったら、ここまで生きていられなかった」 「坊ちゃま……」  父が亡くなってからというもの、何事にも無気力だった母の代わりに湊を育ててくれたのもルカだった。食事を与え、学びの場を用意し、生きていく上で必要なことをたった一人で担ってくれたのだ。感謝してもしつくせない。 「感謝の気持ちを形にできたらいいんだけど」  湊に残されているのはこの古びた洋館だけで、魔物が好きなキラキラ光る物といった類を持ち合わせていなかった。 「好きな物を持って行ってくれて構わないから。古いけど、この館で良かったら、この館でも」  長い年月、ルカが暮らした場所であり、ルカの大好きなご主人様の気配もまだ微かに残る物を好きなだけ持って行ってほしい。それで湊が住むところがなくなったとしても、ルカの恩義に報うに足りるかどうか。 「そのことですが」  もう主人の息子と使い魔の関係ではなくなったのだから、砕けた口調になってもいいのに律儀にも丁寧な言葉遣いで折り目正しく頭を下げる。 「ご主人様の一族に連絡を取り、リモートでお話しました」  魔女の使い魔でありながら、ルカは湊にテレビもネットも提供してくれただけあって、本人も上手く使いこなしているらしい。食材等の調達もネットでして、街の私製ポストに取りに行っていたように記憶している。 「母さまの一族?」 「はい。ご主人様は旦那様と恋に堕ちられてから、一族とは連絡を断っておられたのですが、私の兄弟がご主人様の一族の方の使い魔をやっております関係で、ずっと連絡を取り合ってました」 「そう、なんだ?」  知ってか知らずか、母はルカから連絡手段を取り上げようとはしなかったそうだ。もしかしたら、将来一人になってしまうかもしれない湊を秘かに案じていたのかもしれない。  するりと足音も立てずに隣りに立つ。一瞬、ベッドの中の母を見て、哀しみに顔を歪ませたが、すぐに元の表情も戻した。 「坊ちゃまには、お母様の一族であるシルシュスタイン家へ行っていただきます」 「え?」  父との結婚に猛反対され、関係を断ったと聞かされている。魔女の血を引いておらず、ましてや父の血が入っている湊を、母の一族が受け入れてくれるとは思えない。 「戸惑われるのは当然です。ですから、私が坊ちゃま―――湊さまのお供をします」  キラリと光る黒い目が真っ直ぐ見据えてくる。母と同じ、少し癖のある黒髪は短く切り揃えられていて、猫に戻るとクルクル短い巻き毛が可愛い。そんなルカも、ストレートの短髪がトレードマークな自分の一族と見た目が違うせいで能力は変わらないのに中々契約を結んでもらえず、落ち込んでいたところを「巻き毛が可愛い!」と母に抱き上げられ、頬ずりされながら「まだ誰とも契約を結んでないのなら、私と契約を結んでもらえないかしら?」の言葉に、選んでもらえた嬉しさと意志を尊重してくれる母に泣きながら頷いたと照れ臭そうに話してくれたことがある。  兄であり、父であり、先生であるルカが傍にいてくれるなら、どこででも生きていけるとは思うが、やはり迷いと戸惑いはある。 「旦那様は一族最期の一人でしたし、頼れる相手もいません。黙っていましたが、旦那様が残された遺産はいざというときのための切り札として手つかずで置いておくように遺言されてます関係で、これまでお母様の一族が援助してくださったおかげで現在の生活を維持できておりました。しかし、お母様が亡くなられた以上、この先の援助は見込めません」  知らなかった。いや、現代では何をするにも先立つものが必要になるのはネットで学習してはいても、自分達の食すもの、着るものの代金がどこから出ているのか、深く考えていなかった。 「飲まず食わずでいられませんし、明かりにしてもシャワーにしても、です。光熱費や生活費のことだけでなく、私は湊さまに他の世界も知っていただきたいと願っておりました」 「他の世界……」 「はい。このお館以外の世界です。他の世界には善意も悪意もあります。どちらかというと、嫌なことの方が多いでしょう。喜びは僅かかもしれません。それでも、他者と交流することは湊さまの為になると思うのです。勿論、ここで過ごされた日々を忘れて、ということではありません。穏やかで幸せな想いを一緒に連れて行ってください」  頭を下げるルカに迷い、母へ視線を戻した。それは母も望んでくれることなんだろうか。母をここへ置いていっていいと思えない。一人にしたくない。と思うのは、この森の外へ出たことがない世間知らずの恐怖心からくるものなのか。答えが出ない。 「今すぐ、というわけではございませんので、暫くお考えになってください」  言いながら、主人である母の傍に跪き、そっとベッドに頭を載せる姿を見て、湊の前では泣かないと決めているらしい雰囲気を察し、適当な理由をつけて自分の部屋に戻った。  扉を閉める瞬間、「ご主人様……」とルカの頼りなげな声が聞こえた。  部屋に戻り、一人きりになると、胸にぽっかり空いた大きな穴に落ちていくような感覚が襲ってくる。浮かんでくるのは、毎日のように母から聞かされた父との馴れ初めだ。  ヨーロッパを拠点に権勢を誇っている、古くから続く魔法使いの血族の一員として生まれ、何不自由なく、何の疑問も持たずに身の内から溢れ出る魔力を存分に奮っていた母は、血族の中でも突出した魔法の才能と魔力を持っていたらしい。  ゆくゆくは一族の当主に、とも望まれていたのだが、当時、ヨーロッパで流行っていたシノワズリに魅せられ、実物の侍を見てみたい!との願望を隠し、修行と称して当時の当主の反対を押し切り、ルカ一人を共に連れ、一瞬で移動できる魔法で巡るのではなく、わざわざ時間のかかる船で世界一周の旅へ出発した。一族の者に修行と言った手前、各地の魔物や人間とも交流しながらの長旅になったが、知らなかった土地、知らなかった人達とも出逢えて楽しかった、と言っていた。  あの頃は、当時の当主を凌ぐ魔力、魔術を操れたから押し切れってやったと笑ってもいた。  ようやく目的地の日本に到着し、昼間は外国船の旅行者として逗留地を周遊、夜間は夜空を飛んで羽根を伸ばしていた。ある月の綺麗な夜、ふと眼下にあった泉が清涼な気に包まれているのを発見し、降り立ってみた。  そこには先客がいた。  泉の傍に佇む、長身の男性。風に靡く髪は月の光りを浴びて輝く泉よりも銀色に光り輝き、長い銀の髪の間には更に輝く角が二本。  鬼だ。  日本の鬼は狂暴で乱暴だと伝え聞く。しかし、泉を見つめる目は涼やかで、一枚の絵画のような光景に目を奪われた。自分以外の存在に気づき、振り向く鬼から逃げなければ、と理性は訴えるものの、彼のことを知りたいと願う感情が母の足を鬼へと向かわせた。  近づいて来る気配に驚いた鬼が逆に逃げそうになったので、引き留めるために足元の花を光らせる魔法を使い、驚く鬼に笑顔で「こんばんは」と声を掛けた。  人間ではなく魔法使いなこと、外国から来たこと、お供は小脇に抱えている黒猫だけなことを正直に話すと、警戒しながらも傍に近寄ることを許してくれた。  その、銀色の鬼が湊の父だ。  泉の傍で逢うようになってから何度目かの夜、ぽつりぽつりと身の上話をしてくれたのが嬉しかったと母は少女のように微笑んでいた。 父の一族は吉凶を占う陰陽師を生業としていた。そのために人間よりは力があっても、鬼としての力や武術は持ち合わせていなかったため、奪うことが生きがいの、血気盛んな他の鬼の一族に滅ぼされてしまった。代々、正体を隠して宮廷に召し抱えられ、生業を持たない同族を卑下し、一族の財を増やすことしか頭になかったから恨まれて当然だと自嘲していたそうだ。  まだ歳若かった父は、両親に逃げて生き延びろと諭され、追手から逃れて生き延びることは出来たけれど、糧を失い、親兄弟を失い、生まれ育った土地を奪われ、無為に生きるだけの日々に疲れきっていた。一目惚れに近い勢いで父に惹かれていた母の説得で、というよりも強引過ぎて断れない状況に持ち込まれて、とはルカの談。一緒に暮らすうちに愛情が育まれていき、湊が生まれた。  日本に永住し、父と添い遂げる覚悟を一族に伝えたところ、どこのどんな生まれとも知らない、辺境の地に棲む鬼なんて等の罵倒、叱責を受けた。元から当主の座や権力、財力といったものに興味がなかった母は、あっさり捨てたのだと言う。  何もかもを捨てても後悔しないくらい、お父様はステキだったのよ、と目をキラキラさせる母の隣りで、ルカは呆れた重たい溜息をつき、確かに旦那様はステキな方でした、ご主人様のことはよく知ってるつもりでいましたが、あそこまで情熱的な方だとは思ってもみませんでしたと苦笑しながらも、晴れやかな表情をしていたのが印象的だ。  湊は本当にお父様に似てる。髪は切ってはダメよ?こんなストレートでキレイな髪を切るなんて勿体ない。  毎日のように聞かされていたけれども、写真に残された父とは似てなかった。  辛うじて似てると言えるところは、冷たくみえる鋭い目つきだけ。記憶に在る父は、鬼らしく長身のがっしりした体形で、鬼としては弱い方だと言うが、怪力の持ち主だった。くっきり切れ長の目も銀色、細い鼻に薄い唇は桜色、彫りの浅いすっきり整った美形で、銀色に光る髪から伸びる二つの角は月の光りのように輝き、子供心に綺麗な人だと見惚れていたくらい。  成長した結果、体格は細身で小柄が特徴の、魔女である母に似た。  やたらと湊の黒髪を愛でてくれた母が切らせようとしなかったため、今では長い髪にも慣れてしまって、背中の中ほどまで伸ばしたままだ。腫れぼったい一重の、細くて黒い目は三白眼。こじんまりと低い鼻、ああ、薄い唇も父に似てるといえば似てる。しかし、浮世絵に出てくる人物の方が似てると思う。  魔女の一族として古から権威を誇っている母の家系のように魔力があるわけでもなく、鬼らしい怪力や陰陽師としての力があるわけでもない。人間よりは長寿だが、それしか魔物としての特徴は持ち合わせていない。  魔女の血は引いていても魔力を持たない湊はルカと契約が結べず、自由の身なので新たな主人を捜すも、生まれ育った地に帰って自由を満喫するも、どんな道でも選べるのだ。  それを思い出すと、母が亡くなったことと、ルカがいなくなるかもしれないことに胸が塞ぐ。  母の一族の下へ行くのなら、ルカは一緒について来てくれる。  迷う理由なんかないのかもしれないが、やはり父と母が出逢った地であり、生まれ育った場所でもあるところから離れるのは辛い。  母に相談しよう。無意識に思い立ち、部屋から出ると、ルカも母の部屋から出てきたところだった。  目許を薄い赤に染めた泣いた様子に、声をかけるかどうか躊躇った。 「湊さま。お腹は空いてませんか?」  躊躇う湊とは逆に、いつもの調子で声をかけてきた。 「減ってないよ」  起きてから食事どころか水一口も口にしてないのに、不思議と空腹や渇きを感じない。今更、本当の魔物になったみたいだと思った。  両親やルカにとっての食事は、嗜好品だ。摂っても摂らなくても生命維持に支障はない。母やルカはワインがあれば生きていけるが、湊にとっての飲食は生命を維持するために必要不可欠なもので、睡眠にしても、両親やルカは短時間で充分なのに、湊は数時間寝ないと疲れがとれない。ほぼ人間と同じ。 「では、お茶を煎れましょう」  充分過ぎるほど湊の状態について理解しているルカに促され、後ろをついて行った。  母の部屋に行けば、今にも起き出しそうな母がベッドに横たわっている。話しかけ、髪を梳き、ルカと顔を合わせれば食事や飲み物を勧められ、要らないと断っても用意されて口にするだけの日が続いた。  何日くらいそうしていたのか。 「お別れの時間がきました」 「―――え?」 「お母様とのお別れです」  ルカは何を言ってるんだろう。母は眠っているだけだ。だって、頬や唇の赤みはないけれど、髪は艶々してるし、爪だってピカピカのままだ。 「魔女は、亡くなれば塵に帰します。その日が今日です」 「だって……!」  思わず母に手を伸ばした。 「触るな!!」  声を荒げたルカに驚き、固まった。 「誰かが魔女の遺骸に手を触れたら、砕け散ってしまうんです。砕け散れば遺灰を集められない」 「そんな……だって……」  立ち竦む湊を、ルカがぎゅっと抱き締めた。 「―――ほら」  ゆっくりと、端から砂のように母の輪郭が崩れていく。 「や―――っ!」  叫んだのか、息を飲んだのか、全く覚えていない。  サラサラと、薄灰色の砂になっていく母を、瞬きも忘れて見つめていた。見つめるしかなかった。ルカの腕が、痛いほど湊を締め付けていたからだ。震えていたのは湊だったのか、ルカだったのか。  気が付いたときにはルカの腕から解放されていて、床の上で腰が抜けたように座り込んでいた。  丁寧にベッドカバーを外し、一粒も零さないように慎重に、母の遺灰を包んでいくルカの背中が甲斐甲斐しく動いている。夢の中の出来事のようだ。どうにも現実感が伴わないが、シーツを纏めて端を括ったルカが振り返る。 「では、お母様をお父様のところへ連れて行ってあげましょう。ね?」  軽く首を傾げて問いかけられ、コクリ頷いた。  シーツを半分持った方がいいのか聞こうとしたけれど、大事そうに両腕で抱えてる様子に無粋な言葉を挟むのは止めた。洋館を出て近くの泉まで無言で歩く。  父の遺骨が眠る泉は、両親が初めて出逢った場所だ。ルカは墓を建てようとしてくれたのだが、母が人の手も目も届かない泉で眠らせてあげたいと言い、三人で散骨したのを覚えているかと問われたけど、そのときの湊はまだ幼く、はっきりとは覚えていない。朧気に、蒼い泉の色と青々とした梢から降り注ぐ太陽の日差しといった光景のみが残っているだけだ。  泉のほとりに到着すると、括った部分を解き始めた。 「こちらをお持ちください」  シーツの端を互いに持ち、泉に向かって思いっきり広げる。  所々、キラキラ光る粒が混じった薄灰色の母の遺灰が、泉の底を目指して降りていく。 「ご主人様……ようやく旦那様とまた一緒になれますね」  呟くルカの目許がまた赤く染まっていた。  泣けるルカには泣いてほしい。泣けない、泣いてはいけない湊の目の奥は痛みだけが刺す。 「すいません、湊さま」  どうして泣いてはいけないのだか湊自身は分かっていないのだが、ルカは知っているらしい。零れた涙を必死に袖口で拭っている。遠慮しなくていいのに。と思っても、上手く言葉として伝えられなかった。ただ、力なく首を左右に振るだけ。  パンパンッと勢いよくシーツを叩き、遺灰が一粒も残っていないのを確かめてから洋館に戻る。その道すがら、 「魔女の遺灰には魔力が残っていて、闇で毒薬や秘薬の材料として取り引きされることもあるんです。私はご主人様をそんな材料にしたくない……一粒残らず、旦那様のもとへ送りたかったんです」  あのとき、もし、湊が母の遺骸に手を触れてしまい、遺灰を集めきれなかったとしたら。噂を聞きつけた闇のブローカーに一粒でも母の遺灰を拾われてしまったら。そこを恐れてキツく止めてしまったと謝られてしまった。 「ううん。俺の方こそゴメン。何も知らなくて」  魔女と鬼の子供という自覚はあっても、魔女についても鬼についても知らないことが多過ぎた。ネット検索しても、当然ながら真偽のほどは不明な伝説や伝承が載ってるだけだ。本来の習性、特性については当事者であるルカに教えてもらうしかない。 「色々と教えてほしい。自分の両親のことも知らないなんて薄情だよね」 「そんなことはありません。私達があえてお教えしなかっただけで、湊さまが悪いんじゃありません。ただ、湊さまには下らない争いや諍いを知らないまま、巻き込まれないように生きていただきたかっただけで……」  泣きそうに顔を歪めないでほしい。ルカを苦しませてるのは自分の存在。それは分かっていても、すぐに答えが出せなかった。 「っ、それにしても。湊さまの一人称が『俺』になるとは思ってもみませんでした」 「このくらいの年齢だったら『俺』が普通でしょ」  テレビでも漫画でも湊くらいの年齢の男性の一人称は大抵『俺』になってる。『僕』という年齢は過ぎたし、『私』ほど堅苦しい場所に出るわけでなし、『俺』が一番ふさわしいと思う。 「はあ~、『僕』が似合うと思うんですけどねえ。いや、でも、『俺』くらいがいいのかも」  場を和ませようとしてくれた話題の転換が湊の一人称について、だったのだが、見た目とのギャップがあり過ぎるとルカには不評だったらしい。そういえば、何度か微妙な顔をされていた。まさか『俺』に対する反応だとは思ってもみなかったから、ダメなのかと考え始めたら、「そこは追々考えていきましょう」と切り上げられてしまった。  食料や生活費があとどのくらい保つのか、あえてルカも湊も口にしないまま、これまでと変わらない日々をしばらく過ごした。  だが、いつまでもこうしてはいられないのは理解している。ここで一人淋しく朽ちていくにしても、母の実家に世話になるにしても、ルカに形見分けをしようと思い立ち、というよりは何かしていないとついぼんやりしてしまい、ただ一日を無駄に過ごしているだけになっているので、眠ることもできなくなっていたから身体を動かそうと考えた。  そう多くはない部屋数、一日ずつ各部屋の掃除はルカがしてくれている。まずは地下室から。  階段を下りた手前は食糧庫だ。ここはルカの担当区域なので覗いただけで済ませた。食糧庫の奥に扉があり、昔はここで母が秘薬を生成したり実験をしていたらしい。扉を開けると、母が秘薬を作らなくなってからもルカが手入れをしてくれていたようで、実験道具のような器具や大鍋は埃も被らず、棚に綺麗に並べて置いてあった。けれども、薬草等の材料の類は処分されてしまったらしく、磨かれた器具しかない。もしルカが使えるものがあるなら貰ってもらおう。  地下室の次は一階の応接室。昔は客が来たこともあったんだろうか。湊には来客があった思い出はないが、応接室が作られているのなら、覚えていないだけで誰かの来訪があったのかもしれない。テーブルとソファーしかない部屋の壁には、壁に絵画が一枚かかっているだけだった。名のある画家の作品なのか、単なる複製画なのか美術品に詳しくない湊には分からない。もし名のある画家の作品だったらルカに貰ってもらうか、お金に換えて渡そう。  応接室の次はリビング。暖炉の上に飾られているのはルカも含めた家族写真と、幼い湊が作った粘土細工だ。床に敷かれた絨毯はいい物だと母が自慢していたが、さすがにもうくたびれ過ぎていて、貰ってもらうのは申し訳ない。ルカが写っている写真を半分貰ってもらおう。  リビングの次はキッチン。 「お茶ですか?」  昼食の後片付けをするルカがいた。急に湊が入ってきたから喉が渇いたんだろうと思ったらしい。とりあえず、お茶をもらう。邪魔にならないように端っこの椅子に座り、食器類を確認した。ここが一番、ルカに貰ってもらえる物が多そうだ。カトラリーは銀製品が多いし、カップ類も母の趣味で今では手に入らない一流メーカーのカップとソーサーが一客も欠けることなく揃っている。重たい物ばかりになってしまうので、ある程度はネットオークションに出してもいい。 「ごちそうさま」  飲み終わったカップを洗ってキッチンを出た。  キッチンの奥はルカの部屋だから次は二階。  階段を上がって、右側の手前は客室になっている。とはいえ、誰も泊まる予定がないので物置になって久しい。一瞬、躊躇ったがここもルカが掃除してくれているはず…を頼りに、思い切ってドアを開けた。  想像通り、物は散乱していて多少の埃っぽさはあるが、蜘蛛の巣が張っていたりネズミがいたりすることはなかった。ホッとして電気をつける。  ほとんどは湊が幼い頃に使っていた物で、ベビーベッドや三輪車、子供服といった思い出の品が大半を占めていた。あとは扇風機や暖房器具などの季節家電。ダンボール一つ一つ丁寧に中身が書かれていて、聴かなくなって忘れていたレコードやCDなんかも何十枚か入っていた。ブリキのおもちゃも出てきて、父が帰って来るたびお土産を渡してくれたのを思い出した。仕事で出掛けてると聞いた気がするが、どんな仕事をしていたんだろう。父から貰ったブリキのおもちゃを一つずつ取り出して眺めていたら随分な時間を過ごしていたようで、ルカが夕食だと呼ぶので今日はここまでにした。  翌日、朝食後は庭の手入れを手伝い、昼食後、昨日の続きに取り掛かる。  ブリキのおもちゃは何個か手元に残そう。子供の頃に使っていた物は古すぎるので処分することにした。あとは本人も忘れている子供の頃に描いた絵だとか、造ったらしい物だとかの湊に関する物ばかりで、ほとんど捨てるしかないガラクタだ。こんなものを大事に取っておいてくれたことに感謝してドアを閉める。  隣りは湊の部屋で、何があるのかは把握済だから何もしない。  向かい側が夫婦の部屋。二間続きになっている。ドアを入ってすぐの部屋には机や本棚がある書斎で、奥の部屋は寝室とクローゼットがある。ガラス扉のついた本棚には魔術書と天体に関する本がずらり並んでいる。ガラス扉を開け、魔術書を手に取った。パラパラ捲ってみても、中身は真っ白だ。ある程度の魔力を持った者にしか中身が読めないようになっているので、湊には真っ白いページが続いてるとしか見えない。  天体に関する本というよりは、星図といった方が正しいだろうか。宇宙の成り立ちとかではなく、星の動きや星座について書かれていた。こちらは本屋にも並んでいるような、普通の本だ。何冊か捲っていると、中身と外身が異なってる本が出てきた。  上製本の中身をくり抜き、和綴じの本が挟まっている。しかし、別の意味で湊には読めなかった。全てが草書で書かれてあり、読み解けないのだ。加工された上製本に隠されていた和綴じ本は全部で三冊。父の手によるものか、父に関するものだろう。中身だけ取り出して外身は元に戻した。  あとは普通の美術書や鉱石に関する書籍と、アルバム。アルバムも残しておこうと取り出しておいた。  机には昔懐かしい羽根ペンとインク、封蝋用の印がきちんと揃えてあった。長いこと、母が机で書き物をしているところを見ていなかったが、ルカの手により、インクは新しい物に替えられていた。  机の平たい大きな引き出しには使いさしの便せんと封筒。右側についてる三段の引き出しの一番上は文房具類、二段目には雑多な小物、三段目には小さな金庫が入っていた。金庫は鍵がかかっておらず、中に古めかしい鍵が一本だけ入っていた。 「どこの鍵だろ?」  書斎には他に鍵で開けるような場所や物は見当たらない。となると、寝室か。鍵をポケットに入れ、寝室のドアを開いた。  完璧にベッドメイクされているベッドのシーツは真新しい物に換わっている。古いシーツは火にくべ、残った灰は花壇に埋めた。開け放たれたカーテンからは暖かな日差しが室内に降り注ぎ、部屋の住人を待っているかのようだった。そっとベッドに腰かけ、ふっと吐息をつく。微かに母が好きだった香水の香りもしていて、すぐにでも現れそうな雰囲気のままだ。  起こるわけがないと分かっているのに、暫く、母が帰って来るのを待ってしまった。  重たい腰を上げ、サイドボードに飾られた生き生きとした切り花を眺める。今朝、ルカが摘んだのだろう花弁には朝露が載っている。そういえば、母が亡くなった日、サイドボードの花瓶には花が生けられていなかったと思い出した。毎朝、花が枯れていれば新しい花を摘んできて換えていたルカが、相当なショックを受けていたのだと今更ながら知った。  サイドボードの引き出しには母が好きだった恋愛小説が一冊入っていた。よくある、イケメンでハイスペックな男性と、主人公の平凡な女性が運命的に出逢い、恋に堕ちるストーリーのもの。主人公の人生を、自分の人生と重ね合わせていたんだろう。昨夜も寝る前に読んでいたのかもしれない。何度も読み返された本は、所々擦り切れている。その下の段には子供向けのファンタジー小説が何冊か入っていた。童話の類も入っており、どうやら今も読んでるのを見つかるのが恥ずかしくて隠していたらしい。  ざっと目を通した限り、一人の主人公から始まる連作のようだった。主人公の生い立ちから始まり、様々な冒険を経て伴侶を得、主人公の子孫へと物語は続いていく。華やかな描写に混じる、戦闘や苦難の人生が描かれていた。 「母さまらしいラインナップだと思うだけなのにな」  本人自身がファンタジー小説や童話に出てきてもおかしくない立場なのに、映画も恋愛物よりファンタジーやアクションが好きだったからだ。でも、本人は隠せてるつもりだったらしいから、見なかったことにしておこう。  ここでルカに夕食だと呼ばれたのでリビングで一緒に食事をした。  残すは両親の部屋のクローゼット。夕食後に扉を開いてみたら、ウォークインクローゼットになっていた。  手前の方には母の洋服。昭和レトロなスタイルのワンピースや、近年気に入って着ていたジーンズやトレーナー、奥には着ているのを見たことがないドレスも何着かつるされていた。父が着ていたスーツも残されている。奥の方に桐のタンスが色褪せることなく鎮座していた。  男物の着物から、優雅な柄の振袖、帯や草履といった一式も納められている。端切れもたくさん入っていた。着用していたものを解いたときのものなのか、柄が気に入って端切れを貰っただけなのかは分からない。  浴衣も数枚あった。子供用の浴衣もあったので、おそらく湊が着ていたのだろう。アルバムを見ればこの柄の浴衣を着た自分がいるのかもしれない。丁寧に畳み直し、引き出しを締め、立ち上がったところで桐ダンスの正面、母のドレスに隠れた部分に小さな扉があるのを見つけた。  埋め込み式の、腰の高さまでしかない扉だ。部屋の中のどの引き出し、どの扉も鍵がかかっていなかったのに、ここだけ鍵がかかっている。ということは、書斎の机の引き出しで見つけた鍵はここの鍵だろう。  ドレスを左右に避け、鍵穴に鍵を差し込んでみれば、やはり開いた。  中にはRPGゲームでアイテムが入ってる宝箱として出てきそうな箱と、薄くて小さな箱があり、二つの箱の前には封筒が置いてあった。  同じく書斎の机の引き出しに入っていた封筒と同じ物で、『湊へ』の表書きは母の手によるものだ。  便せんには日本語で書かれたメッセージが入っていた。 『湊へ―――  この手紙を見つけてくれてありがとう。あなたなら見つけてくれると思ってた。  きっと、ルカに返せるものがなくてどうしようと困って捜してくれてる過程で見つけてくれたのでしょう。ごめんね、お母様が先にルカに渡してもらう物を、他の誰でもない湊に見つけてもらうためにここに隠しました。  大きな箱の方をルカに渡してください。そのときに「お母様のお古だけど、ルカに使ってほしい」と伝えてください。ルカなら絶対に大切にしてくれる。って、言わなくても分かるわよね。  小さな箱は湊に。お父様とお母様で作った、湊専用の護符です。身に着けてくれたら嬉しいです。  多分、湊を私の実家に連れて来るように言われてルカが困ってることと思います。いきなりで湊も驚いているでしょうね。私がいなくなったら言ってくるだろうことは分かっていました。ルカが一緒に行ってくれるのなら安心ですが、もし、ついて来てもらえないのなら、湊からついて来てほしいとお願いしてください。  湊には柵や伝統なんてものに縛られない生き方をしてほしくて、お父様とお母様、ルカだけの生活を強要してしまい、結果、外との繋がりを断ってしまうことになっていたのに気づけずにいました。  お母様の我儘で、湊には淋しい想いをさせていたと反省しています。私の実家に行けば、色々と辛い思いもするかもしれませんが、退屈はしないはずです。何より、人間とは違う時間を生きる湊を守ってくれる力はあります。  利用してやるぞ!くらいの心構えでいてください。あの人達には、それくらいがちょうどいいので。とはいえ、湊のことだから遠慮してしまうでしょうが、遠慮なんて無用ですからね!  私達が黙っていたことで、湊が知らないこと、教えてもらえなかったことが色々と出てくるでしょう。お母様が教えてあげたいのですが、もう時間がありません。本当にごめんなさい。  この手紙を読んでいるあなたが素直で優しい子に育ってくれたのは、全てルカのおかげです。  湊のことはルカが一番知っています。ネットに載ってないことはルカに教えてもらってください。―――我儘ばかりで、不甲斐ない主人でした。ルカ、本当にごめんなさい。そして、一緒にいてくれてありがとう。お母様の分も含めて湊がルカを大切に想ってくれたら嬉しいです。  あと、書斎の本棚にある魔術書と、お父様が残してくれた崩し字の読めない本と、ベッドのサイドボードの二段目の引き出しに入っている本、全てを実家に持って行ってください。必ず役に立つはずです。湊が取り引きとして使えると思ったときに使うように。私の実家の人達にはあげないでね。  これからの湊の人生が彩り豊かになりますように。  お父様と一緒に見守っています。  二人分の愛をこめて―――                                 〇月×日 お母様より』  手紙の日付は母が亡くなる前日になっていた。 「知ってたんだ……」  母は自分の死期を悟っていたのだ。ぎゅっと便せんを胸に抱きしめる。  我儘だなんて思ってなかった。四人だけ、父が早逝してからは三人だけの生活が窮屈だと感じたことなんてなかった。ずっと、三人でいつもの毎日を繰り返していけるのが嬉しかった。この生活を支え続けてくれたルカには感謝しかない。好きに生きてほしいと思ってる。  これらの想い、願いを叶えるためには、とにかく母の実家に行かなければならない。  震える手で手紙を握り潰してしまわないよう、ポケットに入れ、湊宛だという箱を開けた。  銀色の金属と、黒色の金属がそれぞれ細く編み込まれている二連のブレスレットが入っていた。父と母の髪の色と同じだ。触っても冷たく感じないのは、二人の魔力が宿っているからだろうか。  護符になっているらしいので、左手にブレスレットをつけた。  ルカ宛の箱は両手で抱えるくらいの大きさだ。慎重に取り出して、階下のルカの部屋へと持って行った。 「何ですか、それは?」 「お母様からルカへ残してくれてた物だって。お古だけどルカに使って欲しいって手紙があったんだ」  部屋に招き入れられ、勧められた椅子に座る。いつ来ても整理整頓された、ルカらしいシンプルな部屋だ。机の上に置いた宝箱めいた箱をゆっくり開いたルカが息を飲む。 「これは……」  中に入っていた物を一つずつ取り出して見せてくれた。  肩てに載るくらいの大きさの濁りが一つもない真ん丸の水晶玉、綺麗な装飾が施された小さな本、大小様々な赤や翠や蒼や色とりどりのキラキラ光るカットが施された宝石類、加工されていない真珠、金の懐中時計、真紅のベルベッドのリボン、銀の鈴、何処かの国の女王や国王の横顔が彫り込まれた金貨、銀貨、白金。本当の意味での宝箱だった。  そんな高価な物が並ぶ中で、真紅のベルベッドを大事そうに掌に包み込む。 「これは……私がご主人様に戴いたものと同じです……最初は銀の鈴が通してあったのですが、私の耳には鈴の音が大きく聞こえて嫌がったので外してくださったんですが……鈴まで残してくださってたんですね……」  よく見ると、銀の鈴には引っ掻いたような跡があった。子猫くらいの大きさだったルカが嫌がって取ろうと引っ掻いた傷だそうだ。 「俺たちが幸せに生きてこれたのはルカのおかげ。お母様がね、我儘ばかりで不甲斐ない主人でごめんなさいって。一緒にいてくれてありがとう、って」  手紙を手渡しながら伝えた。 「私の方こそ、湊さまと一緒にいられるのが幸せです。ご主人様がそんなふうに思ってらしたなんて……」  手紙を読み、目に涙を浮かべながら返してくれた。 「でね、ルカにはまだまだ迷惑を掛けて申し訳ないんだけど、母さまの実家に行こうと思うんだ」 「はい。お母様が望んでらっしゃることだと知れて安心しました。やはり、ご主人様は私がご実家と連絡を取ってることをご存知だったんですね」 「うん……ここを離れるのは淋しいけど、ルカを縛っておくわけにはいかない。二人で進みたいんだけど、いいかな?」 「勿論です。契約なんかなくても、私は湊さまと一緒にいたいんですから」 「……ありがとう。嬉しい。だって、ルカは俺の家族だから」 「これからは兄として、育ての親として、魔物に関する知識もガンガン叩き込んでいきますからね!あちらには私から連絡しておきますが、荷造りもありますし、明日からは忙しくなりますよ」  にっこり微笑んでくれるルカに感謝を伝え、握手をしてその日は就寝した。  翌朝、出掛けたルカが戻ってくると、たくさんの梱包グッズを運び入れた。 「そのまま転送することも出来るんですが、あちらに勝手に開けられたくないですからね。ダンボールに詰めて一ヶ所に纏めていきましょう」  各々の部屋から必要な物をダンボールに詰めてリビングに積んでいき、母の実家に到着してから纏めて転送させると言う。母の血族にも形見分けをした方がいいとのルカの助言で、母が使っていた文具やお気に入りのティーカップ等の食器、両親の部屋のウォークインクローゼットの中に入っていた母の服は全て梱包した。父の物は着物だけ持って行くことにする。必ず持って行くように言われていた書籍もダンボールに詰め、一番上に母のお気に入りだった恋愛小説も入れた。  ズームで母の一族と話したと聞いていたので、ネット環境は整っているようだ。使っていたノートパソコンも持って行こう。あとは洋服とアルバムくらいで湊自身の荷物が一番少ない。  客間だったはずの倉庫をルカがガサゴソやっていた。 「レコードやCDは私の兄弟にやってもいいですか?このご時世にクラシカルな生活をしてるのがいるので」  音楽はダウンロードしてパソコンで聴いていてプレイヤーも持っていない湊には不要な物だが、ルカにとって使える物があるのなら使ってもらえればいい。ブリキのおもちゃ数個は父との思い出に湊が自分の荷物に入れ、残りはルカがお土産代わりに使ってくれるようだ。あとは子供の頃の湊の思い出グッズばかりで、ゴミにしかならないと思っていたのだが。 「何を仰います!捨てる物なんかありません。私にとって、大事な思い出ばかりなんですから」  湊本人よりもルカの方が思い入れが強いようで、一つ残らずダンボールに詰めていた姿に、苦笑しか浮かばなかった。  二人でせっせと詰め込んだ荷物はリビングから溢れるほどの大荷物になってしまった。 「こんなにたくさん置ける場所ないよね」 「大丈夫です。シルシュスタイン家には部屋がたくさんありますから」  誰も使ってない部屋に入れれば大丈夫と言うけれど、それを許してもらえるのかどうか。疑問は湧くが、自信満々のルカには言えなかった。シャワーを浴びてさっぱりしたあと、キッチンの片隅でお茶を飲みながら軽く母の実家についてのレクチャーをされた。 「お母様のご実家、シルシュスタイン家の現在の当主は、お母様の一番上のお兄様で大魔法使いのベスニク様になります。湊さまのお母様であるオーフェリア様は五人兄妹の末っ子で、たった一人の女の子でした。ご兄妹の中で一番魔力が強いオーフェリア様が次期当主と定められておりましたが、ご存知の通り、お父様と恋に堕ち、極東の国である日本の鬼との婚姻を認めない一族をお捨てになりました。まあ、この、オーフェリア様が一族で一番魔力が強いってところが嫉妬や羨望を含んでの兄妹間をややこしくしてる部分です」  種別に関係なく、魔族の一族は何百年と生きる存在だからか出生率が低く、僅かな血の繋がりでも子供が生まれれば親子ともども本家へ居候し、子供達は兄妹としてたくさんの大人達に保護され育てられる。そうして集まってきた子供達の中で一番力の強い者が当主を継ぎ、一族を守っていく。  魔力も大きく、長子として次期当主となるべく徹底して教育されてきたのに、歳の離れた末っ子になる妹が自身は勿論、当時の当主をも凌ぐ絶大な魔力を持って生まれた途端、周囲の関心は妹に移った。長子で厳しく躾けられ縛られていた自分と違い、末っ子ということで案外甘やかされ自由に育った妹に対する複雑な思いが、一族からの追放を宣言しても湊の父が亡くなった後、金銭的な援助をしてくれたことに繋がる。 「シルシュスタイン家の方々につきましては、実際お逢いしてから追々覚えていきましょう」  持っていたカップを作業台に置き、スッと目を細め、強く見つめられた。 「湊さまのお母様の一族は、古くから優秀な魔法使いを多く輩出する家系として、世界各地の魔法使いから一目を置かれる伝統と権威ある一族です。そのために他の血筋を軽んじる傾向がございます。平たく言えば、無駄にプライドが高くてうざいってとこですかね。湊さまのお父様はご自身について多くは語られませんでしたが、シルシュスタイン家の方々に劣るところなど何一つとしてない、ご立派なお方です。このことだけは絶対に忘れないでください」  両手でぎゅっと手を握られ、しっかり頷いた。  大きな手で抱き締められたこと、笑顔が優しかったことを憶えてる。幼い頃に亡くなったので、あまり話はできなかったけれど、人里離れた場所に洋館を建て、湊やルカや母を守ってきてくれたのだ。 「憶えてるよ」  嬉しそうににっこり笑ったルカと暫く、お互いのぬくもりを分け合っていた。  翌朝、部屋の掃除の途中でルカは諸々の処理があるとかで、街へ出掛けて行った。自分が生まれ育った土地が含まれている街というものを見てみたいとも思うけど、世間知らずの湊がついて行って足手纏いになってもルカの手間を取らせるだけなので、玄関で見送るに止めた。  ほとんどをダンボールに詰めてしまった部屋はガランとしている。常にルカが掃除をしてくれていたから、想像していたよりは汚れていないため、掃除は楽だった。 「また帰って来れるのかな……」  置いていく家具に白い布を被せていく。  翌日も、翌々日も忙しそうにルカは出掛けて行った。出掛けるたびにリビングのダンボールが増えてる気がしなくもないけれど、ダンボールはどれも同じに見えて、元からこれだけあったのを目の錯覚で増えてるように見えるだけなのか、聞いてみようと思いながら掃除に夢中になってしまい、聞けずじまいで数日が過ぎた頃。 「明日の朝食がこの家でいただく最後の食事になります」  リビングにダンボールを積み上げ出してからというもの、キッチンの片隅で二人肩を寄せ合って食べていた。晩ご飯の前にルカがそう切り出した。最初から、買い溜めしていた食料を使い切った日の翌日に引っ越すと考えていたようだ。 「何時くらいに出る予定してる?」 「時間は決めておりません」 「明日、二人で母さまと父さまに挨拶しに行きたいんだけど、いいかな?」 「勿論です。私も行きたいと思っておりましたので」  ゆっくり、この家とご両親に挨拶してからにしましょうと言ってくれた。  とうとう明日。  そう思うと、部屋に帰っても中々寝付けず、カーテンを開けて窓から覗く夜空を見上げた。  上辺が欠けた、青白い月。さやさやと揺れる木の葉。夜に活動する鳥の鳴き声。慣れ親しんだ情景ともお別れだ。  忙しくなるだろう明日を見越し、早く寝なければならない。のは分かっていても、この景色、この音を自分の中に焼き付けておきたくて、長い時間、心を傾けていた。  開け放していたカーテンから降り注ぐ太陽の光りで起こされ、あらかじめルカから渡されていた服に着替え、身支度を整えてキッチンに向かうと、朝の挨拶をして二人で朝食を食べた。  ルカの格好はいつもと変わらない黒いテールコートに白いスタンドシャツだが、リボンタイは母がルカに残した宝箱に入っていた真紅のリボンに変わっていて、胸元には金のチェーンが覗いていた。 「お母様から戴いた懐中時計です」  そっと胸ポケット部分に手を添え、誇らしげに胸を張る。これまでは黒革の腕時計をしていたのが、懐中時計に変わっていた。 「リボンタイも懐中時計も似合ってる」 「お気づきでしたか」  湊がルカの変化に気づいたことが嬉しそうだった。二人で並んで食べたあと、二人で並んで食器を洗い、庭の花壇に行って摘んだ花をそれぞれ両手いっぱいに抱えて泉へと歩いて行く。 「多過ぎましたかね?」 「手入れ出来なくなるから。キレイに咲いたのを見てもらいたいしね」 「……そうですね」  本当はルカも行きたくないのかもしれない。たった一人の主人のために、ずっとここで暮らしたいのかもしれないけど、母は湊について行って欲しいと願った。いや、母の最期の手紙を見る前から、ルカは母の望みを知っていたのだ。そして母は母で、ルカに次の道を選んで欲しいとも願っていたからこそ、この家から遠ざけようとしたんだろう。  泉のほとりで膝をつき、視線が届かない底を見つめる。  様々な想いも、色々な願いも、包み込み湛えているような泉の静かで澄んだ水。 「父さま、母さま。今日、母さまの実家、シルシュスタインに行きます」  両手を泉の水に浸し、抱えていた花を捧げた。 「また、と約束出来るのかは分かりませんが、俺とルカを見守っていてください」  ちゃぷん、と返事のように泉の水が跳ねた。 「ご主人様、旦那様。坊ちゃまは……湊さまは私が必ずお守りします」  一束ずつ泉に捧げていくルカの言葉にも、泉はちゃぷんと返事をした。 「綺麗だね」 「綺麗ですね」  木漏れ日を受け、光る蒼い水面に色とりどりの花が広がっていく。沈まず、浮かんでいる様は両親からの激励にも受け取れた。  水面一面に広がる花を眺めている間も、元気な小鳥の囀りは絶えず響き、木々の作る爽やかな空気はざわめきそうになる心を落ち着かせてくれた。凪いだ胸に吹く、乾いた風を捩じ伏せ、腰を上げる。 「もうよろしいのですか?」  名残惜しさが消えることはない。 「ちゃんと憶えたから」 「そうですね、二人でちゃんと憶えましたね。あ、ちょっと待ってください」  背後に回ったルカが下ろしていただけの長い髪の中ほどで括ってくれた。 「最初が肝心ですからね。うん、完璧です」  湊の周りを一周して身だしなみチェックしたようだ。 「では行きましょう」  ルカに両手で手首を掴まれたと同時に、ぶわり強い風が吹き抜けた。いつの間に描かれたのか、足元に魔法陣が出現し、眩しいほど光りだす。 「しっかり掴まっててください」  髪や服だけでなく、身体も浮いた感覚によろめきそうになる湊を支えるルカの身体も発光している。目の前にあった泉や傍にあった木々が魔法陣から発する光りで薄れていき、全身を光りに包まれたと思った途端、急に足先から圧がかかったように地面に崩れ落ちそうになった。 「お疲れ様です。到着しました」 「―――え?」  ハッと見回すと、そこはもう見慣れた景色ではなく、同じく森の奥深くだとは分かるのだが、立っている木々の葉が違った。泉ではなく噴水があり、咲いてる花は色とりどりではあるけれども、薔薇ばかりだ。しかもさっきまでは朝だったのに、日が暮れかかっていた。 「ここがシルシュスタイン邸です」  指示された手の先にあるのは、お城そのもので。  更に驚いたのは、この城が建っている場所だ。  今まで湊が住んでいた人間が主に住まいする人間界ではなく、魔物が主に住まいする魔界なのだと言う。  魔界の中でも人間界に一番近い端の方だと説明されても、よく分からない。母の一族はヨーロッパを拠点にしてると聞いていた。ヨーロッパにあるのは別宅で、人間界で活動する際の拠点になっていて、本宅になるこの城は魔界に建っているそうだ。  見回してみても、あまり人間界と違いはない。けれども、魔界の中心地に近づけば近づくほど様相は人間のイメージする魔界そのものになっているらしい。 「邸内は明日にでもご案内しましょう。まずはご挨拶から」  掴んでいた手首を離し、歩き出したルカの行く先に視線を移すと、大きく開け放たれた重厚な扉の脇にルカと同じ格好をした、白髪で白い口髭を生やした初老の男性が待ち構えていた。 「ご当主様がお待ちです」  挨拶する前にそれだけ口にして、歩き出した。ルカは頷いただけで、茫然とする湊を促すだけ。広いエントランスには臙脂色の絨毯が敷き詰められ、大きな花瓶や石膏像が並ぶ。大きなシャンデリアが客を迎え入れ、続く大きな階段を上がっていく途中には大きな絵画も飾られていた。映画やテレビでお城を見たことはあったが、本当に実在するんだ…と、あまり現実感もなくただ二人について歩く。  廊下にある窓の外は、高い塀で囲まれた庭と、高い塀の外のどこまでも続いている木々の頭、暮れかかっている空しか見えない。  やがて二階の廊下の突き当りで白髪の男性が歩みを止める。大きな扉をノックし、二人が到着した旨を伝えてから開けた。扉を開けたまま頭を下げる男性の前をルカが通り過ぎて行くので、一緒に扉の中に入った。  臙脂色の絨毯が続く広い部屋の先に、数段高い場所に置かれた背もたれの高い猫足の椅子に座るグレーの髪を後ろに撫でつけたグレーの口髭と顎髭を生やした男性と、椅子の後ろに立っている肩までの真っ直ぐな黒髪をしたテールコートの男性がいた。  二人の傍近くまで歩いて行き、ルカが立ち止まった。 「……湊さまはそのまま立っていてください」  ぼそり小声で囁いたルカは、片膝を臙脂色の絨毯に着けた。 「湊さまをお連れしました」  頭を下げ、壇上の男性に告げる。 「お前がオーフェリアの子か」 「はい。湊と申します」 「ミナト?随分な名をつけたものだ」  随分な名前とはどういう意味だろう。分からなくて困った。ルカに訪ねてみようとしても、足元に跪いてるのでは聞けなかった。 「オーフェリアに似ているのは髪色だけか。本当に血を引いているのか?」 「湊さまはお父様似でございます」 「ふん。鬼などという得体の知れん輩なんぞと添い遂げた結果が、魔力も持たぬ子供とは嘆かわしい」  随分な言われ様に思わず言い返しそうになった瞬間、ルカの言葉が踏み止まらせた。 『お父様はご自身について多くは語られませんでしたが、シルシュスタイン家の方々に劣るところなど何一つとしてない、ご立派なお方です。このことだけは絶対に忘れないでください』  ムキになって言い返しただけ、こちらの心が削られ、相手の自尊心を満足させるだけだ。何一つ恥じることなんかない。胸を張っていればいい。 「失礼ですが―――」  頭を下げたままのルカが言葉を挟む。 「単にシルシュスタイン家に鬼に関する知識を有する者がいなかっただけの話でございます。オーフェリア様と世界各地を訪問する機会をいただき、我々が知らなかった優秀で高貴な魔物が世界にはこんなにも存在するのだと感嘆いたしました」  目の前の男性の眉間に僅かに皺が寄った。 「それがシルシュスタイン家ご当主、ベスニク様に対する口の利き方か!」  途端、後ろに控えていた黒髪の男性が一喝する。 「事実を申し上げたまで。オーフェリア様からベスニク様へご報告されていたはずです。実際、オーフェリア様は我々が交流を持つことさえできなかった、各地の魔物との橋渡しをされました」 「っ、……」  尚もルカを一喝しようとした男性をベスニクが手で制す。 「よい。そこを言い争っても不毛なだけだ。よほど良い思いをしたのだろう」 「はい。お二人に守られ、大切な湊さまを託され、幸せな日々を過ごしました」  嫌味だっただろう言葉に、素直で真摯な答えが返ったことにベスニクの方が黙ってしまったくらい、ルカは強く湊を守ろうとしてくれている。 「ご援助くださっていたこと、ルカから聞きました。ありがとうございます」  だから、湊も素直に感謝を述べ、頭を下げることが出来た。ルカを守るために。 「勘当も同然の身とはいえ、シルシュスタイン家の者に惨めな生活はさせられんからな」  対面を慮ったと言外に含まれていたが、それだけでない苦悩も垣間見えた気がした。 「ご当主様……」  後ろの男性が耳打ちをし、ベスニクが頷く。 「真にシルシュスタインの血を受け継ぐ者ならば、オーフェリアの分まで役に立つことを証明してもらおう」  立ち上がったベスニクに、跪いていたルカも思わず顔を上げていた。 「客人がお待ちかねだ。ついて来るがいい」 「ご当主様、それはどういうことでしょうか」  歩き出したベスニクにルカが問うが、後ろをついて歩き出していた黒髪の男性が遮った。 「使い魔ごときが主家の意向に口を挟む権利などない。立場をわきまえろ。お前らは黙ってご当主様について行けばいいのだ」 「ロイス兄さん……っ!」 「兄などと呼ぶな。主家に逆らう弟など私にはいない」  黒髪の男性はルカの兄だったのか。ベスニクの使い魔で黒猫ということだろう。黒い髪と大きな目は似ているが、雰囲気が違うせいか兄弟だとは気づけなかった。唇を噛み締めたルカが仕方なく立ち上がる。 「仕方ありませんね。行きましょう」  ルカと共に二人の後をついて行った。長い廊下を過ぎ、上った階段を降り、玄関ホールを通ってすぐの扉を開けて入って行く。 「待たせたな」  ボールルームになっているそこには、ビリヤードに興じる三人の男がいた。  ベスニクの姿を見とめ、ゲームの手を止めて集まって来たところで、 「これがオーフェリアの子、ミナトだ」  視線だけで湊を三人に紹介され、慌てて頭を下げた。 「こちらはステファン。ヴァンパイアだ」 「よろしく。ヴァンパイアといっても、太陽に弱かったり、ニンニクが苦手だったりってのは人間が作り出した幻想だよ」  軽口を叩きながら、肩を過ぎた辺りまで伸ばしたウェーブを描く豪奢な金髪に深い森のような碧色の瞳をした豪華な美形は、優雅なお辞儀をしてみせた。  ヴァンパイア、およそ映画や物語に登場する吸血鬼とはかけ離れた、陽気な印象を持つ。 「こちらはイサーク。人狼だ」 「待ってたよ、湊。ああ、俺も満月に狼男に変身して美女を襲うなんてしねえかんな。せいぜい、狼になって獲物を狩るくらいだ」  短い銀髪を立たせ、氷のような薄い水色の瞳をした精悍な男前はニヤリと笑ってみせた。人狼らしいワイルドさが覗く。 「そしてこちらはタケト。妖狐だ」 「尊人だ。一応、同じ日本人ってことになんのかな」  二人に比べれば華奢に映る。真っ直ぐな黒髪をアシンメトリーにカットされていて、右目が隠れているが、隠れていない左目は日本人らしい黒い瞳だ。いまどきの日本人らしいイケメン。 「湊です。ずっと日本の山奥で両親とルカの四人で暮らしていました。人と接したことがないので、色々と教えてください」  これまで湊の世界は母とルカで完結していた。ところが、今日になって一気にこれだけの人と逢い、話すことになって戸惑いよりも名前と顔を覚えなければいけない混乱の方が強い。しかもまだ先ほど案内してくれた白髭の男性の名前と顔も聞いてないし、まだまだ序の口なのかもしれないと思うと眩暈がしそうだ。 「ステファン、イサーク、タケト。お前の伴侶候補だ」 「え―――?」  三人とも男性で、湊も男性だ。伴侶といえば、母と父の関係を言う。 「ご当主様!一体どういうことですか?!聞いてません!」  ルカが前に出て湊を庇うように立ち塞がった。 「役に立ってもらうと言っただろう?魔力も持たないながら、オメガとして生まれたのだ。三人と番い、子を成せ」  オメガ。  しかし、それは人間だけのものじゃなかったのか。 「どういう意味ですか?俺がオメガって……」  小説や映画、漫画によく出てくる単語だったのでネットで調べたことがあった。  外見上の性別の他にアルファ、ベータ、オメガと呼ばれる第二の性別がある。その違いがよく分からなかったところ、生物学の一環として三タイプの特徴とともに、魔物はアルファばかりの社会だと教えられた。なので、魔物を両親として生まれた湊もアルファなんだと理解しただけで終わっていた。  兄であり、当主となったベスニクの言う通りにしなかった自分達への意趣返しとして投げただけで、事実ではないのではないか。人間のようにアルファ、ベータ、オメガの三タイプで形成されている社会ではなく、魔物はアルファばかりの社会なのだから、単純に聞き間違えたんだろうか。  混乱する湊の様子に、眉間に皺を寄せているのは、ベスニクだけでなく、ロイスもだった。 「言葉の通りだ。それ以外の何がある?お前がオメガだからこそ、早く連れて来いと再三通達してたのだ」  聞き間違いじゃなかった。  魔物には存在しないはずのオメガ。それが自分だという。 「―――なんだ?お前は自分の性別も知らなかったのか。己のことくらい把握しておけ」  呆然とする湊を冷たく突き放すベスニクと、気の毒そうにしていたり、呆れていたり、驚いていたりと三者三様の反応があった。 「三人ともシルシュスタインと遜色ない家柄の者達だ。粗相のないようにな」 「そんなこと、承知しません!」 「使い魔ごときの承認が要るわけがないだろ。いい加減にしろ」  睥睨するロイスにルカが怒りで身体を奮わせているのも、遠い夢の出来事のようだ。 「一族の晩餐までに己の立場を理解らせておけ」  バタンと閉まる扉の音に、湊の思考も閉じた。  あれからどうやって湊の部屋として与えられた場所まで辿り着いたのか。気が付けば一人、ベッドの上に座っていた。 「己の立場、か……」  零れた溜息が思いの外、重たく沈んだ。 「あんなのは横暴です!いくら当主といえども許せません!」  憤るルカが説明とともに何度も口にした言葉が過っていく。  厳しい環境の中に生きていく上で特化した能力を持ち、人間よりも優れた能力の持ち主となった魔物は、アルファだけの社会だ。アルファ性の強い、弱いの違いがあるだけで、ベータでさえも存在しない。  己の能力を過信するあまり、自分こそが魔界を統べる魔王だと名乗る者だらけで、攻撃性の強いアルファ同士がそこかしこでぶつかり合い、魔界のほとんどを破壊してしまった。棲むには適さなくなっていく魔界を捨て、新天地を求めて人間界に進出していった。  人口の大多数を人間が占める世界で生きるならば、人間社会との接触は避けて通れない。その昔、人間界を支配しようとした魔物もいたのだが、数で勝る人間の抵抗と蜂起により、駆逐されていった。たかが人間と侮った結果が、生息数の激減を招いた。辛うじて生き残った魔物達は、ひっそりと共存する道を選んだ。長い生を持つこと、魔物特有の能力があることを隠し、あるときは政治家として、あるときは経営者として、あるいは芸術家として、優れた能力を人間に示し、一定期間の後に姿を消したり替え玉を仕立てたりして徐々に融け込んでいく。  巨大なコングロマリットの経営者一族、過去の統治から続く王族や貴族、著名な研究者、政治の黒幕、表舞台からも裏社会からも巧みに人間に混じり、脈々と受け継がれていき、仲間を守っている。  そこまで財力も権力も有しながら、なぜ魔物ばかりの世界にならないのか。  やはり、人間と比べて圧倒的に数が少ないからだ。  ではなぜ、魔物の数は増えないのか。  男女といった外見上の性別の他に、アルファ、ベータ、オメガと呼ばれる第二の性が発見されたのは、魔物の数を増やす研究をしていた、魔物の研究者の手に因ってだった。  魔物にはアルファしか存在せず、人間にはアルファもベータもオメガも存在する。どちらの区別なく、アルファ同士では子を成し難い。苦肉の策で人間との交わりを持ってみても、二代目は微かな能力しか引き継げず、三代目になった時点で魔物としての能力は皆無になる。つまりは人間の血が魔物の血を凌駕してしまうのだ。  しかし、稀ではあるが、魔物でもオメガとして生まれてきた者はいた。  子供を一人授かれれば良い方、どんなに望んでも子供を授かれないアルファ同士の魔物の夫婦が多い中、アルファとオメガで番った二人には子供が何人も授かったとの記述が過去の文献にあったらしい。  とはいえ、数百年に一人、数千年に一人とも言われるほど少ない割合で、ほぼ記録にも残ってないほどだ。数多の文献を読み解き、魔物にもオメガが存在したのではないか、という仮説に過ぎないくらいの確証を得られないものだった。  過去の文献に記述はあっても、存在を確認できない魔物のオメガは、人間のように子孫を増やしたい魔物の間での夢物語、伝説に過ぎないのではない、という説を唱える学者もいた。  それが、湊という魔物でありながらオメガの性を持つ者が生まれた。  シルシュスタイン家との関係を断って久しかった母のもとに、ある日突然シルシュスタイン家からオメガの子を連れて来るのなら許すと連絡が入った。  何を『許す』のか、許してもらう必要などない、自分達の手で子供は育てると母は激怒していたそうだ。勿論、何をしでかすか分からないほど激怒していた母を宥めたのは父で、オロオロするルカを慰めてくれた姿に感動し、感謝として洋館に張る結界をより強化する方法を研究しまくったそうだ。  元々、滅多に子供が授からないのもあって、魔物の親は恐ろしいほど子供を溺愛する。本家で子供を育てる際に両親も一緒に移ってくるのも、魔物の本性を考慮した結果だ。当然、湊の両親もそうだったので、魔物とも人間とも交流を断って湊を育てたほど過度な過保護になったのも、湊が魔物には珍しくオメガに生まれたせいだったと、今になって理解できた。  不自由なく、大切に大事に育ててもらったことに感謝しかない。  けど、どうせ知るのなら、知らない人から教えられるより、両親やルカに教えてほしかったと贅沢にも思ってしまう。 それよりもショックなのは、自分自身のことでさえ知ろうとしてなかった事実だ。知らなくても生きていける、与えられるものだけでいいと怠けていた結果が、ただの世間知らずで無知な自分を作った。 知っていることといえば、ネット社会の中の人間のことだけ。家にある書物を紐解いたり、すぐ傍にいた大人達に聞こうともしてなかった。 全ては己の愚かさ。 「……疲れた」  初めてたくさんの他者と交流した緊張で疲れ、知らなかった事実に驚いて疲れ、この先、考えなければならないことがいっぱいあることに疲れた。なにより、己の愚かさに一番疲れた。  我が家の価値観、ネットで仕入れた人間の価値観が湊の価値観として定着している。  伴侶として一人に絞るのではなく、三人ともと番えと言われたのは、魔物の価値観として普通のことなんだろうか。  魔物としては普通であったとしても、そんなこと出来るわけがない。  頭と心が拒否をする。 「もう無理……っ」  キャパオーバー。頭が考えることを拒否して、身体が睡眠を求めてくるのに任せ、落ちるように眠りについた。
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