第1話 一日一本のリコリス その7

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第1話 一日一本のリコリス その7

「飲み物をお持ちしますね」  そう言って出ていった遠藤さんは、緑茶と羊羹をお盆に乗せて戻ってきた。羊羹は薊さんの手土産だろう。並んでいる俺と薊さんの向かいに遠藤さんは座った。 「リコリスを、彼岸花を配達していただいているのには、いくつか理由があるんです」  今日も薄化粧をして身なりを整えている遠藤さんは、旦那さんを見た。 「私と夫は香川県で生まれて、夫は三歳年上の幼なじみでした。通学路には田んぼが広がっていて、秋になると真っ赤な彼岸花が咲きました」  遠藤さんは懐かしそうに遠くを見つめ、笑みを浮かべる。 「今のように遊ぶところなんてない時代です。いつか付き合うようになった私たちは、登下校中がデートのようなものでした。彼岸花のある光景が、私と夫の、大切な思い出のひとつです。夫はアルツハイマーですから、思い出の花を飾って、少しでも調子が良くなればと考えました」  二人にとって大切な花であることは分かった。しかし、一日一本とは関係ない。 「早く核心に入ってほしい、と思っていますね」  遠藤さんはクスリと笑って立ち上がった。俺は思わず顔を押さえた。表情は変わらないはずなのに、顏に出ていたのだろうか。それとも表情が変わらな過ぎて、憮然としているように見えたのか。 「危険はないはずですけど、そこから見ていてくださいね」  俺が持ってきた彼岸花を手にすると、遠藤さんはベッドサイドのテーブルに移動した。  慣れた手つきでビニール手袋をはめて、ハサミで適当な長さに茎を切り、花を花瓶に挿した。根の部分の茶色い皮を剥ぐと、小さい玉ねぎのようになった。それをおろし金で擦ってすり鉢に入れる。  全て、サイドテーブルの上にあったものだ。この作業のために用意しているものだったのだろう。  それから、一センチくらいの茶色い楕円ものが入った袋を取り出した。よく見ると、びわの種のように見えなくもない。 「これはトウゴマの種です。ひまし油が取れることで知られていますね」  知られているのか。  遠藤さんは殻を剥いたトウゴマの種を二十個ほどすり鉢に入れた。そして彼岸花の根と一緒に、すりこぎ棒で潰しながら混ぜる。山芋のようだというと大げさだが、粘り気が出てきた。 「これをガーゼで包んで、足の裏に貼り付けます」  遠藤さんはすり鉢の白いものを包んだガーゼを、夫の足の裏全体に貼ってからラップを巻いて固定し、更にタオルを巻いた。 「これで、むくみが取れるんです。夫は歩けないほどパンパンに足がむくんでしまって、痛い痛いと言っていました。腹水も溜まり、顔の皺もなくなるほど腫れていました。主治医に相談しても、腹水は抜いてもすぐに溜まるから体力を消耗するだけだし、利尿剤では限界があると言われました。そこで思い出したのが、彼岸花だったのです」  彼岸花の根は生薬名で石蒜(せきさん)とも呼ばれ、民間療法として用いられているという。 「すぐに効果があって、夫のむくみが取れました」  遠藤さんは、もう一方の足にもガーゼを貼っていく。 「私の住んでいた香川の村では、彼岸花はよく活用されました。去痰や解毒、小児麻痺の治療にも使いました。彼岸花は食料が不足した時の救荒植物でもあったので、たくさん植えられていたんですね。薬にもなるし、いざという時の食糧にもなるため、重宝されていたんです」 「彼岸花って、食べられるんですか?」 「私は食べたことがないけれど、祖母は食べたことがあると言っていましたよ。この鱗茎の部分から毒素を抜いて、でんぷん質だけ取り出すんです。お団子のようにして食べたそうです」 「へえ……」  遠藤さんの話に聞きいってしまった。  毒にもなれば、薬にもなる。  毒で命を落とす事もあれば、救荒植物として命を救う事もある。  不吉な名前もあれば、縁起のいい名前もある。  彼岸花というのは不思議な花だ。 「この生薬を作るには、生の彼岸花の鱗茎が必要ですから、毎日届けてもらっていたのです。それに、これは比較的新しく分ったことのようですが、彼岸花に含まれるガラタミンという成分は、認知症の症状の進行を遅らせる、もしくは回復させる効果もあるそうです。その期待もしています」  遠藤さんは手袋を外し、旦那さんの両足を丁寧に布団の中にしまってから、こちらのテーブルに戻ってきた。 「お花屋さん、納得していただけました?」 「すみません。彼岸花の毒を使って、何かしているのかと思っていました」  俺は立ち上がって、深く頭を下げた。 「いいんですよ。そんなことだと思いましたから」  笑って許してくれた。こんなにいい人を疑うなんて、俺はなんて無礼だったのだろう。  安心した俺は、羊羹にかぶりついた。甘すぎないこし餡だ。甘いものは苦手だけど、これはいける。 「遠藤さん、介護が長く続いていますね。大変ではないですか?」  黙って聞いていた薊さんが口を開いた。近藤さんを憂うような表情だ。 「だいぶ楽になりましたよ。夫は一年くらい前から寝たきりになりましたし、言葉もほとんど忘れてしまいました。自由に動ける頃は大変でしたけどね。認知症の症状は全て通りました」  同じものを大量に購入する。コンロの火を消し忘れて火事を起こしかける。暴力的になったり、夜中に叫ぶ……。 「ずっとここで、一人で介護をしているんですよね」 「夫は施設が嫌いなんです。私がいないと暴れるので、デイサービスも使えません。でもこのマンションは、家の掃除やクリーニング、買い物のサポートもしてくれるから、なんとかなります」  さすが高級マンションだ。 「まだ、アルツハイマーだと診断されたばかりの頃のことです。部屋から出ないようにと伝えていたのに、勝手に外に出てしまったんです。まだ誰にも、夫の病気を伝えていませんでした」  コンシェルジュに伝えていれば、マンションから出ることはなかっただろう。 「夫は行方不明になってしまいました。警察にも連絡して、夫を探しました。どこかで怪我でもしているのではないかと、心配でたまりませんでした」  遠藤さんは手元に視線を落とした。よく見ると、左手の薬指には二本の指輪がはまっていた。 「捜索から六時間ほど経って、やっと夫は見つかりました。銀座で立ち往生していたんです。私は夫を叱りました。人様にご迷惑をおかけして、なんてことをするのだと。認知症の徘徊から行方不明になり、そのまま戻ってこないケースを知っていましたから、心配が怒りに変わってしまったんですね。夫は悲しそうに、ただ黙っていました。後から夫の鞄の中を見ると、綺麗に包装された小さな箱が入っていました。それは、私へのプレゼントでした。その日は私の誕生日だったのです」  遠藤さんはうなだれた。今でも後悔しているのだろう。 「私を喜ばせようとした夫を、私は叱ってしまいました。その頃です、夫の症状が一気に進んでしまったのは。私のせいです。私は一生、夫の介護をしようと決めました」  愛情のすれ違いだ。お互いを思っていたからこそ、起こってしまった。
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