第1話 一日一本のリコリス その1

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第1話 一日一本のリコリス その1

 昼間は暖かかったのに、日が落ちると急激に気温が下がる。秋も終わりかけとなると寒暖差が激しい。  明るいネオンに照らされ、緩い坂道を上りながら、防寒のために片手をジャケットに突っ込んだ俺はため息をついた。 「この人ごみ、どうにかならないのか」  急な坂道も階段も、迷路のようだと言われる裏路地も、この神楽坂で生まれ育った俺にとっては慣れたものだが、人並みには辟易してしまう。とはいえ、飯田橋駅から家に帰るには、メインストリートである神楽坂通りを使うのが一番早い。 「きゃっ、ご、ご、ごめんなさいっ」  歩きスマホをしていた女性が俺にぶつかってきた。俺を見上げると、涙目になって走り去る。その様子を見て、俺は思わず舌打ちをした。  これが嫌なんだ。一方的にぶつかってきておいて、それはないだろう。慌てて逃げ出すほど俺の人相は悪いのか。何度されても気がめいる。 「バイトも首になるし、散々だ」  愚痴がこぼれてしまうのは、心に余裕がないせいか。  肩を落として坂道を上っていると、印刷された貼り紙が目に入って、足を止めた。 「アルバイト募集」  紙が貼られたレンガ造りの外壁を隠すように背の高い植物が並べられ、その前には階段状に色鮮やかな切り花が配置されている。  以前から気になっていた店だった。  なぜなら、そこが花屋だから。 「アルバイト希望?」 「っ!」  突然後ろから声をかけられて、驚いて振り返った。そして、もう一度驚いた。その人が、あまりにも綺麗だったから。 “綺麗”という形容はおかしいだろうか。二重ではっきりとした瞳は長い睫毛がかぶさっていて、通った鼻梁の下の唇は色づいている。街灯に照らされて紅茶色に光沢を放つ黒髪は襟足で揃えられていて、白い首を際立たせているようだ。  黒いソムリエエプロンを巻いている腰は掴めそうなほど細い。華奢ではあるが、百八十七センチの俺より十センチほど低いだけだから、長身の部類に入るだろう。 つまり目の前の人は、中性的ではあるが、間違いようもなく男性だ。 「車の運転免許、持ってる?」  柔らかな声音と表情で俺に問いかけてきた。 「はい。いや、あの」  普通に話しを続けられて戸惑った。俺を初めて見る人は、不本意ながら、さっきぶつかってきた女性のような反応を大概するものなのだ。 「持ってないの?」 「持ってはいますけど……」  その人は俺を見上げながら小首を傾げて、黙って続きの言葉を待っていた。頬に届くほど長い前髪がサラリと流れて、その髪を細い指先でかき上げる。そんなさりげない仕草にも色気があり、同性だと分っていてもドキリとしてしまった。  俺の歯切れが悪い理由は、この美しい店員の態度のほかにもある。 「実は俺、花が、苦手なんです」  そう言うと、綺麗な人は目を丸くして、パチパチと瞬きをした。 「なぜ?」  なぜか。理由は山ほどあるが、全て話すと長くなるし、初対面の人に語れるものでもなかった。      だから俺は、分りやすい理由を、ひとつだけ話すことにした。 「俺の名前、マツユキなんです。“雪を待つ”と書いて、待雪(まつゆき)」 「ああ、スノードロップ。もしかして、一月か二月生まれ?」  俺は頷いた。さすが花屋、話が早い。  待雪草はスノードロップの別名だ。そしてスノードロップは、一月と二月の複数の日の誕生花とされている。誕生花とは、生まれた月日にちなんだ花のことだ。 「誕生花から名付けられたんだね。親が花好きだと、そうなったりするよね」  背筋がひやりとする。確かに母親は、花が好きだった。 「僕の両親は植物関係の仕事なんだけど、『名前を考えるのが面倒だから、誕生花の薊(あざみ)にした』って面と向かって言われたよ。友達に『薊って漢字は読めない』って言われるし、よく女の子だと間違われたし、子供の頃は自分の名前があまり好きじゃなかったな」  店員は眉を下げて苦笑した。女の子と間違われていたのは、名前のせいばかりではないのでは。 「兄も同じ理由で、満作(まんさく)って名前なんだけど、適当につけすぎだって文句を言ってた」  思い出したのか、口元に指の背を当ててクスリと笑う。 「薊さん……、いえ、すみません。名字の方教えてください」 「薊でいいよ、誕生花同士。ね、待雪クン」  そのいたずらっぽい微笑みは、またも心臓に直接衝撃を与える様な破壊力があった。
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