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第1話 一日一本のリコリス その3
――なし崩し的にアルバイトをすることになった俺は、薊さんに簡単に今後の仕事内容について話を聞いてから店を出た。
俺には配達をメインに働いてほしいそうだ。それから花の整理や水替え作業。これが地味に大変らしい。花の名前を覚えたりラッピング作業をするのは大変だと思っていたが、それ以前の雑用が山ほどあるようだ。最も、客の前に出る仕事より裏方の方がいい。きっと客にとっても。
店の裏の駐車場に停めてある、“フラワーショップ陽だまり”と書かれた指定の白いミニバンに乗り込んだ。配達先が近い順に花を届けると、最後に気になっていたリコリスが残った。
「金持ちだな」
届け先は高級マンションだった。エントランスのオートロックを家主に解除してもらってマンションに入ると、一階がホテルのロビーのようになっていて無駄に広く、管理人というよりもコンシェルジュという言葉が似合う制服の男性二人がフロントに待機していた。「庶民は入らないでください」と言われているようで、居心地が悪い。
毛足の長いカーペットが敷かれた、これまた無駄に長い廊下を大きな絵画を横目に通ってエレベーターホールへ。依頼主の部屋の前まで辿り着くのに、優に五分はかかった。
「どんだけ広いんだ」
呼び鈴を鳴らすと、エントランスのセキュリティーでも聞いた、品の良さそうな年配女性の声が「はい」と応えてドアのロックが解除された。しばらくして内側からドアが開らくと、声の通りに品のいい白髪の女性が現れた。七十代半ばくらいか、深い皺を刻んだ頬には、薄化粧が施されている。
「どうも、フラワーショップ陽だまりです。花を届けに来ました」
俺が頭を下げる位置よりはるかに下にある婦人の顔は、初めて巨人を見たとでもいうような顔をしていた。これが俺を初めて見る人の普通の反応だろう。さっきの二軒もそうだった。やっぱり薊さんが飄々としすぎなだけだ。
「ありがとう、いつもの人と違うのね」
緊張したような手つきで、婦人は俺からリコリスを受け取った。左手の薬指にはシルバーリングがはまっている。
「これから俺が来る機会が増えると思います。木下待雪です」
よろしくお願いしますと、もう一度頭を下げた。せめて礼儀正しくしておかなければ。怖いからよこさないでくれとクレームにでもなったら、また首になってしまう。
「ひとつ、聞いていいですか?」
婦人がドアを閉めようとしているところを止めた。
「なぜ、毎日一本なんですか?」
婦人の目が一瞬泳いだように見えた。しかし、すぐに笑みを浮かべる。
「花は新鮮な方がいいでしょ。また明日もお願いね」
ドアが静かに閉まった。
「そりゃそうだけど」
納得のいく答えではなかった。
喉に小骨が刺さったような違和感を抱えたままマンションを後にした。お言葉に甘えて車で自宅に帰り、ガレージに入れる。車から降りると、一人暮らしの戸建ての我が家から光が漏れているのに気づき、俺は額に手を当てた。
「またあいつか……」
植木鉢の下から家の鍵を取って、ドアを開けた。
「お帰り、マッツー!」
甲高い声で俺を出迎えたのは、福笑いで失敗したようなお面だった。
「どう、力作でしょ。笑えない?」
隣に住む幼なじみの碓井マリアがお面を手で動かした。
因みに、マリアの名には漢字があるのだが覚えていない。そしてマリアは俺をマッツーと呼ぶ。こんな呼び方をするのはマリアだけだ。
「笑えない。変な面を被るのはやめろ」
「無表情なマッツーに笑ってもらいたくてやってるのに」
マリアが面を外すと、今時っぽいメイクをした顔が現れた。拗ねたように唇を尖らせている。
クリッとした大きな瞳と、小ぶりで整った鼻と唇が小さな顔にバランス良く納まっている。明るい茶色に染めた巻き髪はあざといほどフェミニンで、マリアによく似合っていた。モテ人生を歩んでいるだけあって可愛らしい容姿だが、お互いオネショをしている時代からの知り合いなので、今更見た目でトキメクことはない。
「不法侵入もやめろ。いい加減、警察に突き出すぞ」
植木鉢の下に鍵を隠していることを知っているマリアは、勝手に家に入り込むのだ。
「ええっ。こんなにマッツーのために頑張ってるのに!」
細い眉をつり上げたマリアは、次の瞬間、半眼になってニタリと笑い、玄関を上がった俺に迫ってきた。
「ねえマッツー、お風呂にする? ご飯にする? それとも、ワ・タ・シ?」
「帰れ」
スルーして洗面所に向かうと、マリアが追いかけてきた。
「ちょっと、健全な大学男子なら、迷わずマリアちゃんを選ぶところでしょ!」
毎度のことながら、マリアはうるさい。
手洗いとうがいをすませて居間に入る。十二畳ほどある和室を見上げると、長押を支えにするように、三百六十度ズラリと額に入った花の写真が飾られていた。お歴々のご先祖様か音楽室の作曲家たちの肖像画ような配置だ。この花の写真は、庭に咲いている花を写したものらしい。
らしい、というのは、俺が物心つく前に母が飾ったものだし、庭にどんな花が咲いているのか、きちんと確認したことがないからだ。直射日光が当たらない場所だとはいえ、写真はかなり色あせていた。
この家では、母を含めて三人の葬儀をあげているが、本来ありそうな長押の位置に遺影はない。仏壇もない。苦学生にはそんな実用性のないものを購入する金などないので、別室の背の低い戸棚の上に位牌を三つ並べていた。
「マッツー、お腹すいてるでしょ?」
「ああ」
「じゃ、温めてあげるね。今日は肉じゃがだよ」
「自分でするからいい」
「ついでだから。私も一緒に食べるから」
「お前は家に帰って食えよ」
「一緒に食べたいから待ってたの!」
一人暮らしの俺に気遣って、マリアの母親はよく飯をお裾分けしてくれる。今日のメニューは肉じゃが、シーザーサラダ、ホウレンソウのお浸し、そしてご飯と味噌汁だ。自炊が面倒なのと金がないのとで、袋麺と白飯で終わるような食生活だから本当に助かる。俺は手を合わせてから箸を持った。
「じゃがいも、芯まで味が染みていて美味い。おばさんにお礼言っておいて」
「私にも言って。ママと一緒に作ったんだから」
「感謝感謝」
「心がこもってない!」
向かいに座るマリアの傍には、大学の教科書とノートが置かれていた。勉強をしながら俺を待っていたようだ。チャラチャラしているように見えて、マリアは真面目なのだ。
「バイトで帰りが何時になるか分からねえから、これからマジで来なくていい」
時計を見ると九時近かった。
「コンビニって、シフト決まってるんじゃないの?」
「コンビニは今日、首になった」
「えっ、二日目でしょ? 早っ!」
「それで、花屋で働くことになった」
「花屋」
マリアは箸を止めた。俺が花を避けていたことを、マリアは知っている。気を取り直すようにマリアは笑顔を作った。
「花屋って、もしかして、駅の近くの“フラワーショップ陽だまり”?」
「よく知ってるな」
「あのイケメン兄弟の店は有名だよ。私も目の保養に時々行くんだ」
「冷やかすな」
「ちゃんと買ってるってば。マッツーの庭の肥料とか」
俺が触らないのを見かねたのか、うちの庭はマリアが手入れをしている。
「そういえば薊さん、兄がいるとか言ってたかな」
薊さんの兄弟なら、確かにイケメンだろう。
「店長さんは癒し系イケメンだけど、お兄さんもビジュアル系でカッコイイんだ! あのお店の雑貨を仕入れているのが、お兄さんのはずだよ」
「詳しいな」
「だから、神楽坂じゃ有名なんだってば。マッツーは人に関心がなさすぎ」
ご飯のお代わりいる? と聞かれて、俺はマリアに茶碗を差し出した。うるさいだけじゃなく、甲斐甲斐しい。
「なあマリア。花屋のバイトで、気になることがあったんだけど」
「えっ、珍しいね、マッツーが何かに興味を持つなんて」
「俺にだって好奇心はある」
言われてみれば、確かにそうだ。といっても、あまり人と関わっていなかったので、気になる対象がなかっただけかもしれない。
俺はマリアに、毎日一本ずつリコリスを購入している遠藤さんの話をした。
「なぜだと思う?」
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