第1話 一日一本のリコリス その5

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第1話 一日一本のリコリス その5

 翌日。フラワーショップ駐車場に車を停めて学校に行き、授業を終えて真っ直ぐバイトに向かった。  接客で忙しそうにしている薊さんから説明を受けて、まずは昼間の花の配達に出た。考えてみれば当たり前だが、時間指定の花もあるので、一日に何度も配達に出なければならない。  この神楽坂に限らず東京二十三区は入り組んだ路地や一通が多いのだが、神楽坂通りは“逆転式一方通行”といって、午前と午後で一方通行の方向が変わる。日本唯一とも言われている珍しい方式なので、神楽坂に慣れていないドライバーが逆走しているのを時々見かけた。  配達から戻ると、薊さんのサポートをしながら、店の掃除や花の整理、水替え作業をする。土や水が入ったバケツを持ち運ぶので、腰に負担がかかった。  花屋は体力勝負だと言っていた薊さんの言葉がやっと理解できた。水に触れる機会が多いので、手も冷えっぱなしだ。昨日、薊さんの手が冷たかった理由もこれで分った。  店にいると客がひっきりなしに来て、繁盛店だと分った。俺が来る前は一人でこの量をこなしていたのだろうか。薊さんは細身なのに、かなりタフなようだ。  客が途絶えて雑談が出来るようになったのは、日が落ちた後だった。薊さんと違って半日しか働いていないのに、くたくただった。 「お疲れ待雪クン。閉店まであと二時間だから、最後の配達が終わったらあがってね。大変だったでしょ」 「いえ、配達以外はあまり役に立ってないので」 「そんなことないよ。お客さんが触ったあとの花を見栄え良く整えたり、バケツと茎を洗って水をきれいに保つのも、大切な仕事なんだよ。水替えをしないと細菌が繁殖して、花の導管が詰まって枯れてしまうんだ」  とはいえ、俺が出来る仕事が増えれば、薊さんの負担が減るだろう。早く仕事を覚えなければ。  本日三回目の配達準備をして顧客リストを見ると、遠藤さんの名前があった。リコリスの人だ。 「薊さん、リコリスって彼岸花のことなんですね。“彼岸花”とか“曼珠沙華”って書いた方が分りやすいんじゃないですか?」  店にも切り花で売っているが、プライスカードには“リコリス”と書いてある。 「そうだね。でも市場では“リコリス”として流通しているんだ。日本では彼岸花は、不吉だと思う人がいるみたい。残念だね、こんなに美しいのに」  ねえ、と薊さんはリコリスに話しかける。 「どうして不吉なんですか?」 「それはね」  薊さんの瞳がキラリと光ったような気がした。 「彼岸花は千以上の別名があるんだ。その中には、不吉な名前も多い。“家焼き花”“疫病花“とかね。持って帰ると家が焼けるぞ、疫病が流行るぞ、って。それは昔の人の知恵で、有毒な彼岸花に子供たちを近づかせないため、あえて縁起の悪い名をつけて遠ざけた、とも言われているんだ。こういう伝承って、日本にはたくさんあるよね」 「確かに」 “夜爪を切ると親の死に目に会えない”という言い伝えも、照明が不十分な頃、薄暗い夜に刃物を使わせないようにする子供の躾だったという説を聞いたことがある。 「土葬の時代には、ネズミやモグラなどに遺体を荒らされないよう、墓地には彼岸花が植えられたそうだよ。それが彼岸花=墓地のイメージになってしまって、“幽霊花”“死人花”“地獄花”という名がついたりして、ますます不吉だと言われてしまうことに繋がるんだ。まだまだ、その所以はたくさんあるんだけど……」  悲しそうな表情の薊さんが、「でもね」と気を取り直したように顔を上げた。まだ話が続きそうだ。長い。俺は薊さんの何かのスイッチを押してしまったようだ。 「千以上名前がついているということは、それだけ生活に密着して愛されている証でもあるよね。悪い意味の名ばかりじゃないよ。“曼珠沙華”はサンスクリット語で“赤い花・天上の花”の意味で、おめでたい事が起こる兆しに赤い花が天から降ってくる、という仏教の経典から来ているんだ。縁起がいいよね。それに“リコリス”は、ギリシャ神話に出てくるブロンドの長い髪を持つ美しい海の精“リコリアス”から名付けられ……」 「アーザーミーン!」  店の外から大きな声が聞こえてきた。ハスキーがかった甘やかな声だ。入り口に目を向けると、すらっと背の高いロングスカートのシルエットが目に入った。逆光で相貌まで見えない。  その人物は背中まである長い金髪を揺らし、カツカツとブーツを鳴らして入ってくると、薊さんにハグをした。 「来ちゃった! 今日も可愛いねアザミン」 「えっ、兄さん」 この人が噂の、イケメン兄弟の兄の方か。  パーマかかった長い髪と足首まであるロングスカートとブーツ、濃いアイメークに付け睫毛でしっかり化粧をしている。しかし華奢な薊さんと違って、骨格がしっかりしていて程よい筋肉も乗っているので、女性に見間違えることはない。マリアがビジュアル系に例えていたが、確かにそんな雰囲気がある。  それにしても、弟のことをアザミンと呼ぶのか。明らかに猫なで声だし、弟を溺愛しているようだ。まだ抱きしめてるし。 「兄さん、待雪クンが呆れてるよ。離して」 「いいじゃない。久しぶりなんだから」 「毎日LINEしてるでしょ」  俺は一人っ子だから分らないが、兄弟で毎日LINEをするのは普通なのだろうか。  薊さんは兄から抜け出そうとモゾモゾと動いていたが、諦めたように兄を見上げた。 「兄さん、彼が昨日から働いてくれている、木下待雪クンだよ。待雪クン、こんな格好でごめんね。僕の兄さんなんだけど、スキンシップが激しくて」 「どうも、兄の満作です」  俺に笑顔を向ける。瞳が青いのはカラーコンタクトだろう。目鼻立ちがはっきりしているので、欧米人のように見えなくもない。独創的な服装も相まって、国も性別も超越している感じがする。何等身あるんだろう、モデルみたいな体形だ。  イケメン兄弟と噂になるだけある。兄も相当な美形だった。 「兄さんは雑貨屋を経営していて、うちに置いている雑貨は兄さんの店の商品なんだ。デザイナーとバイヤーを兼ねているから、国内外を飛び回って忙しい人なんだよ。ねえ兄さん、今日は海外に行くんじゃなかったの?」 「これから行く。でもアザミンがアルバイトを雇ったって言うから、チェックしないと安心して旅立てないよ」  兄が弟の額に頬をつけたまま、視線だけ動かして俺を見た。チェックってなんだ。 「そんなことで来なくても……あ、いらっしゃいませ」  女性客が入ってきた。抱き合っている兄弟を見て、まあ、と頬を染めている。 「アザミンは仕事してて。そこのあなた、こっちに来て」  やっと薊さんを解放すると、兄は指先でフロアの端に俺を呼んだ。薊さんと話す時とは声のトーンが違う。 「人相が悪い」  壁を背にした俺を真っ直ぐ見ながら、仁王立ちになって腕を組んだ兄が言った。  第一声がそれか。随分態度が変わったじゃないか。いっそ清々しいわ。  兄とは視線の高さが同じだった。ヒールのあるブーツをはいているとはいえ、兄の身長は百八十センチくらいありそうだ。 「どうしてこの店を選んだの?」  美人が睨むと迫力がある。多くの人は竦みあがるかもしれない。しかし俺は睨まれることには耐性があるので、それほど心に響かなかった。 「アルバイト募集の貼り紙を見ていたら、薊さんが声をかけてくれたので」 「なんで名前で呼んでるの。店長と言いなさい」 「はあ」  これは面接か。兄チェックに落ちたらバイトを首になるのだろうか。 「アザミンのことを、どう思っているの?」  なんだ、その質問は。 「俺と正反対の人です」 「正反対?」  兄は意味が分からないというように眉を寄せ、「それだけ?」と続けた。 「あとは……、見たことがないくらい綺麗な人なんで、びっくりしました」  兄は、ふうんと言って腕を組む。 「あなた、表情が変わらなすぎて、何考えてるのか分からないね」  よく言われる。 「アザミンに手を出す気はないでしょうね?」 「……は?」  なにを言い出すんだこの人は。  驚いて兄を凝視する。たぶん、表情は変わっていないのだろうが。 「アザミンは天使みたいに優しくて可愛いから、男女問わず虫が寄ってくるの。兄としては心配なわけ」 「はあ」  分らなくもないのだが、成人した男に対して兄がする心配なのだろうか。過保護か。 「だから」  ドンと、顔の横に拳が叩きつけられた。兄の端正な顔が近づく。 「薊に何かあったら、ただじゃおかねえぞ」  地を這うような低い声だった。俺を至近距離で鋭く睨んでから、すっと兄は離れた。 「じゃ、そういうことで」  兄は艶やかに笑うとクルリと踵を返し、「アザミーン」と甘い声を出しながら薊さんに駆け寄った。 「……」  俺は棒立ちでその後ろ姿をしばらく眺めた後、力が抜けて壁に背中を預けた。そして深く息を吐く。  面接なんかじゃなかった。弟には手を出すなと、釘を刺しに来たんだ。 「なるほど、バイトが続かないわけだ」  後ろめたいことがあれば逃げ出したくなるだろうし、なくても兄から嫌なアプローチがありそうで面倒だ。  せっかく雇ってくれたのだから、俺は続けるけど。  それから兄は、雑貨の在庫の話を薊さんとして、店を後にした。俺をひと睨みするのを忘れずに。  なんというか、世の中にはいろんな人がいるものだ。
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