第1話 一日一本のリコリス その8

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第1話 一日一本のリコリス その8

 遠藤さんはうなだれた。今でも後悔しているのだろう。 「私を喜ばせようとした夫を、私は叱ってしまいました。その頃です、夫の症状が一気に進んでしまったのは。私のせいです。私は一生、夫の介護をしようと決めました」  愛情のすれ違いだ。お互いを思っていたからこそ、起こってしまった。 「今、つらいことはありますか?」  薊さんが優しく尋ねた。 「夫はほとんど話せませんが、痛い時だけ、痛い、つらいと呻くんです。もらっている鎮痛剤ではあまり効果がないようですし、在宅医療の先生を呼べば強い薬を打ってくれますが、すぐに駆けつけてくれるわけではありません。夫に痛い思いをさせていることが、一番つらいですね」 「在宅医を見直してもいいかもしれない」  俺は母を思いだしながら言った。母も病院が嫌だと言って、在宅医療を選んだ。 「緩和ケアに力を入れている医者なら、自宅にいながら痛みを取る方法を提案してくれるはずです。病院のナースコールみたいに、ボタン一つで家まで駆けつけてくれる介護サービスがある施設もあります」 「待雪クン、詳しいね」 「……少しだけ」 母を看取っているので、と言うと空気が重くなりそうだから、口には出さない。 「一人で介護をしていたら、思いつめてしまうこともあるでしょう。これも何かのご縁ですから、なにかあったら相談してくださいね」  薊さんは、血管の浮いた皺だらけの遠藤さんの手を両手で握った。 「ありがとう、店長さん。頼りにさせていただくわね」  遠藤さんは、そっと目元をぬぐっている。その表情を見て、薊さんはゆっくり立ち上がった。 「そろそろ、おいとましようか、待雪クン」  促されて、俺も立ち上がった。 「遠藤さん。あれ、もういらないんじゃないですか?」  薊さんはサイドテーブルを指さした。その指先は、白い粉の入ったプラスティック容器を示しているようだ。  そういえば、あのテーブルに乗っているもので遠藤さんがさっき使わなかったのは、プラスティック容器と布だけだ。 「ええ、そうね。捨ててしまいましょう」  遠藤さんは容器を手にすると、軽やかな足取りでキッチンに向かい、シンクで白い粉を全て水に流してしまった。 「あの粉、何ですか?」 「後で説明するよ」  俺が尋ねると、薊さんが小声で答えた。 「お邪魔しました。明日もリコリスをお届けしますね」 「ええ、お願いするわ」  遠藤さんは、憑き物が落ちたような晴れやかな笑顔だった。  俺たちは遠藤さん宅を後にした。 「さっき捨てた粉、なんですか? 小麦粉とか片栗粉みたいに見えましたけど」  車に乗り込んだ俺は、薊さんに聞いた。 「リコリスの鱗茎だよ」 「彼岸花の根ですか? それは毎日、旦那さんの足の裏に使ってるんじゃ」 「僕たちがベッドの部屋に入った時、遠藤さんが慌てて布を折ったのを覚えてる?」  そういえば、そんなこともあった。布の上には、ピンポン玉くらいの白いものがいくつか乗っていた。 「ぼくはあまり目が良くないからはっきりとは見えなかったけど、布の上にあった白い塊は、おそらく鱗茎だよ。干していたんだね」 「どういうことですか?」 「鱗茎を乾かしてすり潰して粉にして、容器に溜めていたんだ」 「それって……いえ、彼岸花って食べられるんですよね。団子にして食べようと思っていたとか」  あんな旦那さんを思っている人が、毒を盛ろうとしていたはずがない。 「その可能性はゼロではないけどね。リコリスの毒は水溶性だから、何度も洗ってでんぷんを残せばいいのだけど、手間の割に量は取れない。この飽食時代に食べるようなものではないよ。容器にはかなりの粉が入っていたから、乾かした鱗茎を、そのまますり潰したものだと思う」  あの容器に入っていたのは、毒入りの粉ということか。 「つまり、やっぱり遠藤さんは旦那さんを殺そうとしていた、ってことですか?」 「実際に行動するかは別として、手元に毒を置きたかったんじゃないかな。自殺願望のある人が、致死量の毒を身に着けるって話、聞いたことない? いつでも死ねるという安心感から、逆に自殺の抑止になることもあるって。そういう心境だったのかもしれない」  旦那さんが苦しむのを見るのがつらいと言っていた遠藤さん。旦那さんを楽にしてあげたいと思いながら、彼岸花の毒を集めていたのだろうか。 「僕のところにリコリスを探しに来た頃は、純粋に生薬のためだったと思うよ。根付きで一本ずつ購入すれば、思い出の花を飾れるし、鱗茎に利尿効果と認知症の回復効果もあるなら、一石三鳥だからね。毒のためなら、待雪クンが言っていたように、鱗茎だけ購入した方が手っ取り早い」  介護をしているうちに、考えが変わったのかもしれない。介護疲れで自殺をする人がいるくらいだ。肉体的、精神的に追い詰められていったのかもしれない。  いつまで介護を続けるのだろうという不安や、今後生きていても夫はつらいだけかもしれないという思いから、彼岸花の目的は、生薬から毒になった。 「実は、遠藤さんの様子が変わったな、と感じることはあったんだ。介護のことも心配だったし、リコリスの用途についても聞きたかったけど、それは花屋の仕事じゃないと思って、あえて触れていなかった。遠藤さんから話してくれたらいくらでも協力をしたけど、こちらから踏み込んじゃいけないことかと思っていたんだ」 「俺、ずかずか土足で入ったんですね。すみません」 「ううん、これで良かったんだよ。遠藤さん、いい笑顔になってたじゃない。待雪クンのおかげだよ。ありがとう」 「そんな」  ただの好奇心が、たまたま上手く行っただけだ。それも、俺一人じゃ真相まで辿りつけなかった。 「九時すぎちゃったね。何か食べて帰ろうか。奢るよ」 「申し訳ないです。飯は食いに行きたいけど、割り勘で」 「今日の待雪クンは功労賞だからね。素直に奢られなさい。何を食べたい?」  薊さんの笑顔を見ていると、心が温かくなるようだ。  昨日今日は、いろんな人に会って、いろんなことがあって、今まで使っていなかった感情が動いた気がする。  これまで俺は、何かをしようにも相手から避けられていたし、避けられるのが嫌でこちらからも近づかなかった。だから何も始まらなかった。  だけど、急に薊さんが飛び込んできた。パーツが足りずに止まっていた歯車が、薊さんが入ることで稼働し始めたかのようだ。 「お礼を言うのはこっちです、薊さん」 「なにか言った?」 「はい。俺、ラーメン食いたいです」 「了解。と言いつつ、僕、飲食店をあまり知らないんだよね。ネットで美味しい店を調べよう。検索するの、あまり得意じゃないんだけどね」  スマートフォンを不器用に操作する薊さんの横顔を見ながら、俺はこの出会いに感謝した。
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