透明な依頼 壱

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 品川駅を通り過ぎ、少し南へ行った場所に其の家は建っていた。  道中、お千代に聞いた話だと、椿山は古い美術館を買い取り、アトリエ兼自宅として改築したらしい。流石は稀代の芸術家、到着し実物を目の当たりにすると、成程確かに、大小幾つもの正立方体を規則的にくっ付けた様な外観の家は、佇まいからも芸術的な趣が滲み出ていた。  が、折角の芸術性も今は形無しになっている。警察の物々しい出入りと、「立入禁止」を示す無粋な黄色いテープが玄関に張り巡らせてあるからだ。  俺はハンドルを切り、道端に連なるパトカーの車列の最後尾に車を停めた。住宅街特有の狭い車道を塞ぐのは心苦しいが、エンジンを止め、キーを抜き出す。と、お千代はもう車を降りていて、スタスタと現場に歩を進めている。  非常線の出入口に立つ門番代わりの警官に、お千代が探偵免許証を示す。俺も慌てて車を降り、お千代の隣に立って、同様に探偵免許証を見せる。 「探偵だ。椿山氏から依頼の電話を受けて来た」  お千代がそう言うと、制服警官は驚いた様に目を見張った。無理もない。銀髪金瞳の美女など、一般には珍しい以上に奇異である筈。更に、其の奇妙な色合いを物ともしないお千代の造形が、却って奇怪な印象に輪を掛けている。きっと門番の目には精巧な人形が動いて喋っている様に映っている事だろう。  突然現れた幻想的な女に面喰らいながらも、警官は何とか「どうぞ」と非常線の黄色いテープを捲り上げてくれた。  ……テープを潜る際、意図せずお千代の銀髪が頬を掠め、俺は少し動揺する……。  非常線の中は、玄関迄の前庭にすら、制服、私服の警官入り乱れ、銘々、(せわ)しなく捜査に当たっていた。鑑識官の姿もチラホラ見える。警官達が立話する横をお千代は我が物顔で突っ切り、戸口のインターホンを押した。  ……ピンポーン……。  場違いに平和な呼び出し音。警官達の何人かが此方を振り返る。唯でさえ目立つお千代は平気な顔、萎縮したのは寧ろ俺の方で、居た堪れず方々に「どうも」と会釈してしまう。  然う斯うしている間に、ガチャリと音を立てて玄関戸が開き、中から男が一人、顔を出した。 「はい……」  血色の悪い其の男を見、俺は直ぐ椿山だと確信した。椿山と面識がある訳ではない。どころか、顔写真を見た事もないが、男のこけた頬や、落ち窪んだ双眸は、明らかに絶望の賜物である。髪を短く刈り込み、肩幅はあるが肉の付いていない不安定な身体の、ある意味芸術家らしい男は、此の場にいる誰よりも失意の底にいて、暗澹たる影に身を沈ませ、ともすれば「此の男こそ死人ではないか?」と思わせる程。(まさ)しく、妻に先立たれた夫の風体だ。  そんな、生気を失った男を前にしても、お千代はお得意の営業スマイルを浮かべ、改めて探偵免許証を示した。 「椿山さんですね?どうも初めまして。御連絡頂いた『蓼喰探偵事務所』の所長、蓼喰千代です」 「と、助手です」  俺も免許証を見せる。と、椿山の青ざめた顔に少し血の気が戻り、 「貴女方が……どうぞ、お待ちしておりました」  と、お千代の髪や瞳にも頓着しない様子で、急かす様に俺達を家に招いた。 「失礼」 「失礼します」  定型通りの挨拶を済まし、俺達は玄関を上がった。何人かの鑑識官が屈んでいる合間を縫い、靴を脱ぐ。  玄関を上がると正面に硝子窓に区切られた中庭が臨めた。人の死んだ朝だというのに、中庭に面した窓から差し込む陽光は美しく、小綺麗でモダンな内装を白く浮き上がらせる。家主である椿山の案内の下、無垢フローリングの廊下にスリッパを滑らせ、中庭を迂回する様に進む。初めて訪ねる家が(其れも、元が美術館という事もあって)珍しく、つい辺りを観察してしまう。と、廊下の壁に飾られた小さな油絵が目に入り、そう言えば、此の男は有名な絵描きなのだと、今更ながら思い出す。  飾られた油絵は風景画だった。山間に湛えられた湖畔の様子が、幻想的に描かれている。画の中の輪郭は全て朧気に、全て優しいかたちを持っている。霧漂う森の中、湖畔の水面は夕日を照り返し、水辺には女が一人、裸身を洗っている。女の輪郭線、特に腰周りは真紅で描かれ、其れが作品の印象を一段と官能的に仕立てていた。  素晴らしい()だ。が、俺は其の画の素晴らしさを賞賛するより先に「一体、此の画には幾らの値が付くのだろう」なんて俗物的な物の見方をした。前を行くお千代も此の画を見、溜息を漏らしている。対して、俺は此の油絵に触れないようビクビクしていた。万が一傷でも付けたら、賠償金はどれ程か、其ればかりが気掛かりだった。  と言うのも、廊下を進む間に、何人もの警察官とすれ違ったからだ。身体を避けた拍子に転びでもしたら事だ。其れ程に廊下の往来は激しかった。  途中、開け放された扉があり、中を覗けば其処は大部屋、多くの私服警官と鑑識官がひしめき合っていた。故に「あぁ、此処が現場なのか」と勘付く。 「どうぞ此方へ」  先頭を歩く椿山は、しかし、現場の部屋から離れ、廊下の突き当たりにある別室に俺達を通した。 「済みません、こんな部屋にお通しして。此処以外は何処も警察ばかりで、どうにも落ち着いて話せないものですから」  恐縮する椿山に、お千代は手を振った。 「いえ、お気になさらず。寧ろ私としましては、こんなかたちでも、貴方の大切なお部屋を拝見する機会を得られて、光栄に思っているのですから」  お千代の声が弾んでいる。反対に、俺は緊張から一歩も動けずにいた。 「まさか、椿山朔太郎のアトリエを見られるなんて」  心底嬉しそうにお千代が手を合わせる。矢張りそうなのか。俺は部屋を眺めながら、勝手に冷や汗が吹き出るのを感じた。  其処は絵の具の匂いの充満した、雑然とした部屋だった。北向きの大きな窓の傍に立つイーゼルには、下絵(エスキース)の途中らしいキャンバスが掛かり、又、部屋の壁一面には、大小様々な完成品が、押し合いへし合い、飾られていた。  壁に飾られた画の主題は多種多様、風景画もあれば、静物画、裸婦の画もある。が、其の描き方、筆のタッチは全て同じ、同一の作者による油絵だと直ぐ判る。此処の画全て、椿山朔太郎の作品に相違ない。  此の部屋にある絵画だけで総額はどれ位になる?  芸術を解さない俺には、美術品は金額でしか計れない。が、其れでも、此の空間の神聖さくらいは理解出来る。俺は一歩一歩に恐怖しつつ、部屋の中央に据えられた長ソファにやっと腰を下ろした。  少し遅れて、お千代も俺の隣に座る。お千代はショートパンツから伸びる白くしなやかな足を組みながら、依然として周りの油絵を観賞していた。 「……奥様を深く愛してらしたのですね」  出し抜けにお千代はそんな事を言った後、徐に視線を動かし、憐憫の瞳で以て椿山を捉えた。 「廊下にあった画もそうでしたが、椿山さん、貴方の画は実に様々だ。習作、大作……色々あるけれど、しかし其れら全ての画に描かれている人物は唯一人。丁度、あの裸婦画などは顕著ですね。奥様を描かれた画だ。其れにしても初めて見るなぁ……貴方の個展には必ず足を運んでいますが、あれは未発表ですね?こんな折に新作にお目に掛かれるとは」  金色の瞳が動き、うっとりと画を眺める。お千代が見惚れているのは臙脂色を背景にした丸テーブルの画だろう。厚手の白いテーブルクロスが掛けられた卓上には、砥部焼らしい太った花瓶が置かれ、花瓶の口からは緑の茎が多数伸び、赤や青の花が大きく咲いている。花々の向こう、即ち画面奥に裸婦が一人座っている。あれが奥さんか。裸婦はテーブルに肘を付き、そっぽを向いていた。 「……よく気付かれましたね」  椿山は力なく微笑み、俺達の目の前、一人掛けのソファに腰掛けながら、重た気に口を開いた。 「貴女の言う通り、あれ全て妻を描いたものです。私は妻を愛していた。心から。だから、人物は彼女しか描きたくなかった……だからこそ、貴女方をお呼びしたのです」  項垂れる椿山。  お千代はロングジャケットの裾を直すと、本題を切り出した。 「此の度は本当に御不幸で……お悔やみ申し上げます。其れで、早速で申し訳ないのですが、依頼内容を御説明頂けますでしょうか?」 「えぇ、はい……」  憔悴の淵に立つ椿山は、荒む前髪の合間から目線だけを上げた。アトリエの大きな窓から差す光は、椿山の背に掛かり、此の男の背負う影を一際強調している。新鮮な悲哀の中、椿山は訥々と、俺達を呼び出した経緯について語り始めた。  お電話差し上げた際、事情は簡単にお話ししたと思いますが、今朝、妻が死にました。ダイニングの梁に縄を掛け、首を吊ったのです。妻の死を目撃した私は、這々の体で警察に通報しました。間もなくパトカーが駆け付け、捜査が始まったのです。  やって来た警察の判断に因れば、妻は自殺という事でした。  争った形跡はなく、死んだとされる今朝、此の家には私と妻しかおりませんでしたし、家の鍵は何処も掛かった儘だったのです。  つい先程迄、私も警察に散々事情聴取されました。警察の関心事は矢張り自殺の動機らしいのですが、私には妻が自殺する心当たりが一つだけあるのです。  私は唯の世捨て人、しがない絵描きでしかありません。が、殊に妻に関しましては、誰よりも詳しいと自負しております。他ならぬ、愛する妻の事ですから。何よりも大切な、妻の事でしたから……。  ……失礼。其れで、妻の自殺の根拠を貴女方に裏付けて頂きたく、お呼び立てした次第で……どうか、御助力願えませんでしょうか?
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