透明な依頼 壱

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 大体こんな内容を、椿山はたっぷり時間を掛け告白した。其の悲痛な声音と、尋常ならざる居住まいに、俺はスッカリ圧倒されてしまったが、お千代は冷静を保ち、足を組んだ儘に椿山を見据えていた。 「成程、承知しました。私達でお力になれるのであれば、喜んで承りましょう」 「本当ですか……!」  椿山が顔を上げる。其の目は潤み、藁にも縋る思いで溢れていた。 「えぇ、勿論」  お千代が頷けば、椿山の目から一条の涙が零れ出で、 「有り難う御座います。有り難う御座います」  と、何度も繰り返すのだった。  一体、此の男の胸中にどれ程切迫した悲痛があるのか。当然、俺には推し量る事も出来ない。が、同じ男として、愛する女の死という現実は、最早言葉にするのも怖ろしい事であるのは間違いない。  俺はチラと、お千代の横顔を盗み見た。  ……きっと、お千代が死んでしまったら、俺はこれ以上に嘆くだろう……。  そんな想像をすると同時、我に返る。縁起でもない。俺は即座に頭を振って、思考を掻き消した。  隣に座るお千代は、憐れみを残しつつも仕事の話を始めた。 「では椿山さん、お辛いとは思いますが、其の、自殺の根拠とやらを、お聞かせ願えますでしょうか?」 「えぇ、はい……実は……いえ、此処迄醜態を晒した上、更にお恥ずかしい限りなのですが……妻は、浮気していたみたいでして」 「浮気?」  声を上げたのは俺だ。其の単語は取り扱いが難しい。特に此の御時世、浮気という言葉の持つ意味は甚大だ。 「あの、済みません」  堪らず、俺は横から口を挟む。 「失礼ですが、其の、浮気というのは本当なんですか?探偵に調べさせたりとかは」 「一度、別の探偵に依頼しましたが、間男の正体は掴めませんでした。しかし、何しろ妻本人の口から聞き出した真実ですから」 「奥さん本人が……」  浮気を自白するとは大胆な(ひと)だ。俺の呟きは驚嘆で染まり切っていた。其れを聞き取ったのだろう、椿山は歯切れ悪くも委細を説明し始めた。 「驚かれるのも無理はありません。ですが……自分の妻を自慢するのもどうかとは思いますが……妻はあの通り美人ですから、結婚したくらいで世間が放っておく訳もなく、兆候は前々からあったのです」  そう言うと、椿山はアトリエに飾られた油絵を無雑作に指差した。俺は壁に掛かった大きな裸婦画を見、頷く。夫の色眼鏡を勘定に入れてもお釣りの方が多いくらい、彼の妻は美しかった。女性的な曲線美を保った身体と、女優然と際だった美貌。長い黒髪と白い肌、赤い唇が好ましい対照をなし、画の中で巧妙に纏まっている。何よりあの表情……意志の強い瞳は挑戦する様に此方を見詰め、唇の端を少し上げて嘲る様な微笑みを浮かべ、女は裸の身体を横たえている。 「(おっ)(しゃ)る通りですね」  俺は吐息と共にそう呟いた。  椿山は陶酔した表情で、自分の画を眺め、かと思えば悲嘆に目を沈ませ、 「判り切っていた事です。結婚当初から、私には勿体ない妻でした。私は情けない男なんです。体力もありません。妻はきっと不満を募らせていたのでしょう、外に男を作って、日頃の鬱憤を晴らしていました」  椿山は感情の起伏に翻弄されつつ、上擦った声で言い継ぎ、 「茶番ですよ。御存知でしょうが、私の妻は結婚前、女優業を営んでおりまして、演技はお手の物なものですから、私も最初は彼女の良妻振りにスッカリ騙されていたのです。女は女優と言いますが、本当ですね。浮気をまんまと隠蔽されて、私は安穏と結婚生活を続けていたのです」  女は女優。椿山がそう口にした時、俺は咄嗟にお千代の横顔を窺った。が、俺の心配も余所に、お千代は神妙な顔で口を挟んだ。 「済みません。お話の途中ですが、一つ、お伺いしたい事が……貴方は普段、此のアトリエで画を描かれている、つまり御仕事されている筈ですね?其れで、奥様も銀幕を退かれてからは、専業主婦としてズットお家におられたと聞き及んでおります。そんな状況下で、奥様は不貞を働かれていたのですか?」  お千代の疑問を受けた椿山は目を伏せて、 「情けない限りですが、どうもそうらしいのです。鈍感な亭主だと呆れられるでしょう?私も、まさか自分が此処迄愚鈍な男だとは、思ってもみませんでした。まったく、私は、画に向かっている時などは、周りが見えなくなる()()なものですから……」  椿山の嘆きは続く。 「しかし、あんまり私が愚鈍だから妻も侮ったのでしょうが、次第に綻びが見え出しました。努力する必要がないと判ると、演技も手を抜くようになったのです。驕れる者久しからずとは、本当ですね。鈍い私ですら妻の態度が妙な事に気が付き、そうして一度気が付いてしまうと其ればかりが気掛かりになって、仕事も手に付かず、不安が高じた近頃などは散々問い質したものです。お前は浮気しているだろう。私は知っているのだぞ、と……妻は最初こそ否定しました。『証拠はあるの?』と。事実、何の証拠もありませんでした。しかし、段々観念する気になったのでしょう、先日、私が詰め寄ると、開き直る様な態度でしたが、やっと浮気を自白しまして」  椿山は頭を抱え、声を湿らせた。 「其れはもう悩みました。妻が浮気を告白した。私はこんなに妻を愛しているのに、妻は間男と肌を重ねている。悩んで悩んで、気が狂うかと思いましたよ。そんな折です。妻が死んでしまったのは」 「其れが今朝、という訳ですか」  と、お千代が訊けば、椿山は「はい……」と弱々しく頷いた。 「成程、御事情は把握しました」  お千代は足を組み替えて、 「其れで、椿山さん、御依頼の詳しい内容をお教え願えますか?先程、浮気の根拠を裏付けて欲しいと伺いましたが」  と、本題に入った。 「えぇ……お二人には、妻の浮気相手を捜して頂きたいのです」  項垂れる椿山は、悲哀の代わりに怒気で声を震わせているらしかった。膝に置いた握り拳も戦慄いている。 「妻は浮気を告白しましたが、間男の名前は終に白状しませんでした。恐らく庇っているのでしょう。其の男に迷惑が掛からないように……自殺も犯人の一つの告白なりと申しますが、()しかしたら、自殺を決意した本当の理由は、永遠に口を噤む為だったのかも知れません。死人に口無し……其れ程間男を愛していたのでしょう。私は其奴がどうしても許せません。正直に申せば、嫉妬しているのです。妻が死んでしまう程愛していた其の男が、殺したい程憎らしい……いえ、本当に殺す積もりはありません。唯、一矢報いたい。今更手遅れですが、せめて裁判にくらい掛けてやりたい……其の為に、間男の正体を掴む必要があるのです」  椿山は我を忘れていた。が、其れも仕方ない。愛していた分、裏切られた時の落差は大きい。其れだけの高さから突き落とされたら、理性だって破裂する。  ……しかし腑に落ちない点がある……。  俺は怖ず怖ず手を挙げ「あのぉ」と怒れる椿山に声を掛けた。 「えっと……今の御説明で、奥さんが浮気されていた事は充分判ったのですが、しかし椿山さん、貴方は其れを知った時、どうして警察に連絡しなかったのでしょう?貴方と奥さんは御結婚されていたのだから、警察も無下にはしなかったでしょうに」  そう。此処迄我を忘れて怒り狂う椿山が、何故妻の不貞を公的に弾劾しなかったのか、不思議で堪らなかったのだ。  不貞行為を本人が自白したならば、不貞防止法(通称「不防法」)に則り、少なくとも警察に通報出来る。そうすれば警察も大々的に捜査し、間男は見付かる。奥さんも捕まるだろうが、自殺という結末は回避出来た筈だ。  実際、昨今の社会問題として、不貞に走った者が己の行いを隠す為、更に凶悪な犯罪、即ち配偶者や浮気相手の殺害、或いは罪の意識に堪え切れず自殺する、といった泥沼の事件が急増している。俺達探偵は、手の回らない警察に代わり、頻発する浮気を徹底調査し、斯様な悲劇を食い止めるべく捜査権を与えられている……だというのに、自殺されてしまっては後の祭り……以前に別の探偵を雇ったらしいが、探偵が無能だったのか、調査が余程難しかったのか、結局間男は見付けられなかった。ならば、椿山は其の段階で警察へ駆け込むべきだったのだ。  ……(ちな)みに、全くの余談だが、俺は過去に一度、浮気で裁判を起こされた事がある。詳細は省くが、言い訳するなら、あれは職務上の事故だった。ともあれ、婚前だった事もあり、民事裁判の罰金刑で済んだ。とは言え、有罪判決のレッテルは世間体が悪く、判決後、前職を追われ、俺は敢えなく無職に身をやつしたのだが、そんな俺を拾い上げ、探偵に仕立て上げた人物こそ、今隣に座るお千代であった。  ……尤も、俺の浮気の証拠を揃えた探偵も又、お千代なのだが……。  まぁ、俺の身の上話はさて置き……俺は椿山の返答を待った。  椿山は手を組み、暫く指をまごつかせていたが、やがて低い声でこう応えた。 「……通報なんて出来る筈ないじゃありませんか。妻を犯罪者にするなんて……でも、そうですね、妻を牢屋に閉じ込めておけば、或いはこんな事にはならなかったのかも知れません。妻を牢屋に入れておけば、少なくとも、妻は死なずに済んだのですから……」  椿山は悔やむ様に眉間に皺を寄せ、押し黙った。アトリエに沈黙が落ちる。窓の外から小鳥の鳴き声が聞こえてくる。俺も椿山も、何も言えなかった。 「委細承知しました。椿山さん」  と、流石はお千代、重たい沈黙も難なく破り、依頼内容の確認に入った。 「つまり、警察とは別に、生前の奥さんの浮気相手を突き止めて欲しいと、そういう事ですね?」 「えぇ、其の通りです。どうかお願いします。私はせめて、妻の浮気相手の正体を曝きたいのです」 「お任せ下さい。しかし一応確認を。浮気と断言されておりますが、調査対象は素人に間違いありませんか?若し仮に、野郎茶屋の色子などが奥様の相手だった場合、現行法では浮気は成立せず、見付け出してもお咎めなしという決着になりますが」  加えて、相手が奥さんを既婚だと知らない場合、即ち奥さんが自身を独身だと偽っていた場合も、相手を不貞に問えない。どころか、逆に、相手が詐欺罪で訴えてくる可能性すらある。しかし、本件では奥さんが元女優なので、既婚者である事は世間に充分周知されている(俺は知らなかったが)と想定される為、此の条件は適用されないと思われる……こういった「不防法違反の要件」は、探偵免許試験に()ける必修項目なので、俺も昔、嫌という程勉強したなと、頭の中で独りごちる。  其れはそうと、お千代の質問に、椿山はキッパリと頷いた。 「えぇ、素人です。妻とは全財産を共有していますが、其の家計も浪費されていませんでした。他の探偵会社も妻の茶屋通いは否定しています」 「そうでしたか。いや、御気分を害されたなら申し訳ありません。何しろ最近は、色子や花魁に逆上して探偵を呼ぶ依頼人も少なくないものですから……其れでは事務手続きに入らせて頂きます。椿山さんは探偵保険には御加入済みでいらっしゃいますか?」 「はい。以前探偵に依頼した際、普通に頼んだのでは依頼料が高くなると聞かされまして、其の時に入りました」 「料金は、場合にも()りますが、どうしても一つの依頼に係り切りになりますから……今回は私と助手の二人が調査するという事で宜しいでしょうか?一週間毎に、二人分の調査費が発生しますが」 「構いません。是非お二人で、必ず間男を見付けて下さい」 「尽力致します。では其の様に契約を……」  お千代が瞳で合図してくる。俺は懐から自分の携帯を取り出した。一見したところは黒い板だが、此の中に一通りの書類データが入っている。俺は頭の中で携帯を操作し、契約書の立体映像をローテーブルの上に投影した。椿山は鉛筆で黒く汚れた指先で其の契約書に署名し、拇印を()した。  事務手続が片付き、俺とお千代は「有り難う御座います」と、正式に雇い主となった椿山に頭を下げた。隣で銀髪が細い肩から滑り落ちる気配がする。俺達は揃って顔を上げ、俺が契約書の映像を保存している間に、お千代は早速調査に取り掛かっていた。 「恐縮ですが、椿山さんは、何か、間男について御心当たりは御座いますか?証拠や手掛かりになりそうな物などがあれば、助かるのですが」 「申し訳ありません。私も家中を捜したのですが、証拠の類は見付けられず終いでして。多分、妻が自殺する前に全て処分してしまったのでしょう。相手は名前も素性も掴めない、まるで姿の見えない透明人間みたいな奴なんです。しかし手掛かりは……少しお待ち下さい」  そう断りを入ると、椿山はソファを立った。そうしてアトリエの窓際に近付くと、書類ファイルを手に戻って来た。  椿山は真剣な面持ちでファイルをお千代に手渡した。 「どうぞこれを」 「拝見します」  お千代がファイルの表紙を開く。俺も横から覗き込む。  ファイルには数十枚程度の透明な紙が収められていた。 「あぁ、済みません。認証していませんでしたね」  椿山は慌ててファイルを取り戻し、表紙を撫でた。 「済みません。これで大丈夫です」  お千代がもう一度受け取る。椿山が撫でたファイルの表紙には「イセ顧問探偵事務所」と印字されていた。業界では知られた、敏腕探偵のいる事務所の名だ。其の表紙をお千代が開く。と、今度は透明な紙でなく、キチンと文字の書かれた白い紙が収められていた。どれも顔写真の載った履歴書の様な物で、其の顔写真は全て男のものだ。 「これは以前に雇った探偵が纏めた資料です。妻は女優業を引退してから極端に男の付き合いが減りました。なので、今でも繋がりのある男全員を調べ上げて貰ったのです。心当たりという程ではありませんが、御参考にはなるかと」  以前に雇った探偵とは「イセ顧問探偵事務所」の者だったのか。あの事務所の探偵が終に間男を見付けられなかったとは意外だが、こんな置き土産を残してくれていて助かった。依頼を達成出来なかった一流探偵の、苦し紛れの産物かも知れないが、取っ掛かりには充分、これは有り難く使わせて貰うとしよう。  お千代がパラパラと捲る男達の名簿を、俺も興味深く目で追っていった。  一.辻井(つじい)(みなと) 二十六歳 ウェイター  二.前原(まえはら)達彦(たつひこ) 二十ニ歳 運送業者ドライバー  三.羽生(はぶ)幸之助(こうのすけ) 三十八歳 美容師  四.東海林(しょうじ)正信(まさのぶ) 五十五歳 呉服屋店員  五.蝋山(ろうやま)辰巳(たつみ) 四十歳 元マネージャー  …………  お千代は最初の数枚を捲ると、何故か眉根を少し上げ、ファイルを閉じた。 「貴重な資料を御提供下さり、感謝します。直ぐにも取り掛かりますので、本日はこれで失礼致します……ほら君、呆けてないで、サッサと行くよ」  お千代に急かされた俺は、椿山に頭を下げつつソファを立った。  ファイルを抱えたお千代と共にアトリエを去る間際、椿山に「どうか宜しくお願いします」と念押しされる。其の声には、妻の不貞を知ろうとする夫の、焦りと恐怖と高揚が、複雑に織り込まれていた。  廊下の警官達は依然として忙しない。すれ違う警察官の肩越しに、廊下に飾られた湖畔の風景画を見る。其の画の中の女……腰周りを赤く縁取られた水浴の女が、俺には先程より妖しく見えた。
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