透明な依頼 弐

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透明な依頼 弐

 事件のあった家を一歩出れば、空気は一入(ひとしお)新鮮に感じられ、肺一杯に吸い込めば気管も澄み渡る様だった。  辺りは相変わらず警官達の雑踏で騒がしいが、俺達は人集りの合間を縫って非常線の外に出、自分達の車に戻った。 「最近は、警察に頼らないで、探偵を呼ぶ金持ちも増えたよな」  運転席の扉をバタンと閉じつつ俺が言う。と、お千代も助手席に収まりつつ応えた。 「まぁね。警察は、兎角、秘密主義だから、信用しない人も多い。其の点、自ら探偵を雇えば、捜査の進捗も逐一報告させられるし、安心出来るんだろう。お陰で探偵の需要も伸びる。有り難いね。秘密万歳だ」 「そうだな。で、これからどうする?」  俺が訊く。と、お千代は腕時計……細い革バンドの時計……をチラと見やり、 「昼時だから昼食(ランチ)にしよう」 「そんな時間か」  俺は空を仰いだ。突き抜ける様な青、昇った太陽も黄味掛かっている。 「お千代は此処ら辺で良い店知ってるか?」  ポケットから車のキーを取り出しつつ又訊けば、 「ふむ。私は此の付近に詳しい訳ではないけど、都合良く、此処に紹介がある」  と、お千代はファイルを開いた。先程椿山に渡されたファイルである。お千代は其の中の一人、とある男の顔写真を指差していた。  俺は覗き込むようにして、お千代の指先を眺める。お千代の身体は一々美しい。白く細い指、丸い爪と共に透けてしまいそうな指先は、ファイルに収められた一枚目の上に置かれていた。  辻井湊 二十六歳 ウェイター  成程、お千代の言う通り、都合良く、対象は近所にある喫茶店でウェイターをしている。 「事情聴取がてら、彼の店に行こう」 「了解」  車にキーを差し込む。ハンドルを握り、アクセルを踏めば、赤色テントウムシは白黒パトカーの列を外れ、ノロノロ発進した。  昼時、住宅街を走る車は他になく、俺達を乗せたアンティークカーは順調に走った。喫茶店は椿山邸から車で五分と離れておらず、直ぐ見付かった。三台分しかない狭い駐車場は、運良く真ん中の一台分が空いていたので、其処に車を停める。  俺とお千代は車外に降り、店を仰ぎ見た。  ダークブラウンの木造二階建て。オープンテラスも付いている。植木に取り囲まれている様子から林の中にひっそり建つ小屋を思わせる店は、其れなりに繁盛しているらしく、入口の硝子戸から中を覗けば、店内は主婦らしき女性客で賑わっていた。  昼食と共に気儘なお喋りに興じる主婦達は、身なり良く、今時の有閑階級らしいファッション、即ちシルクのワイシャツにカシミアの緑カーディガンや、高級ブランドのスカーフを首から垂らした様な服装に身を包み、ガレットやケーキを(つつ)いている。  上品な囁きと微笑に包まれた空間は、秋晴れの昼間、優雅な奥様方の為にこそあり、故に俺は一瞬躊躇した。が、お千代は店の玄関を開けてしまう。ドアベルが乾いた音を立て客入りの合図を鳴らすものだから、俺も入店せざるを得なくなった。  途端、店中の注目が此方に集まった。片や場に似付かわしくない男、片や銀髪金瞳の美女。此の取り合わせに、一瞬、店内は色めき立つ……しかし主婦達は、お召し物と同じく、覗き見迄も上品に、強いて何事もなかった様に談笑を続けながら、チラチラと、偶然を装った好奇の視線を向けるだけに留めていた。 「君、注目されているね」  そんな視線を愉しむ様に、お千代が言ってのける。 「いや、俺じゃなくて、お千代だろう」  言下に否定してみるも、お千代は何処か誇らし気に、 「いいや、君の方が注目されている。君は容姿だけは優れているからね。其れが私の自慢でもあるんだ」 「……其れ、褒めてるか?」 「一応」  クスクスと笑うお千代。俺は頬を掻いた。俺の容姿云々は置いとくにしても、満更嫌な気はしない。まぁ、お千代が愉しそうだから、良いか。 「いらっしゃいませ」  と、俺達が話している間に店員が現れ、 「二名様で宜しいでしょうか?」  型に嵌まった挨拶を丁寧に述べた。若い男の店員……此の顔は……ファイルで見た写真と全く一致している。  店員をよく観察する。最前に容姿の話題が出たので敢えて取り上げるけれど、店員はかなり整った顔立ちをしていた。線の細い美青年。彼目当てで通っている主婦も相当数いる事だろう。ワイシャツの上に黒ジレを着、黒いネクタイを締め、黒いスラックスの腰に黒いギャルソンエプロンを捲いた、如何にもウェイター然とした衣装がよく似合っている。何より、ジレの胸ポケットに刺さった名札に書かれた「辻井(つじい)」という名前は、ファイルにも記されていた。  若しや、此の店員こそ椿山夫人の間男?  脳裏に疑惑の芽が息吹くとつい厳しい目で見てしまう。が、お千代は普段通りの自然体で、「はい、二人です」と応えた。 「二名様。どうぞ此方へ」  堂に入った笑顔を浮かべ、辻井は俺達を席に案内する。通されたのは、オープンテラスの隅、二人掛けの席だった。正午の陽光が緩やかに降るテラスに、お千代の銀髪が揺らめき、金瞳は色硝子の様に煌めく。周囲の客達は、間近に見るお千代の髪と瞳に、上品振りも忘れ、喰い入る様だ。矢張り視線を集めているのはお千代の方じゃないか、と、そう思うのだが、中には俺を窺う視線もあるらしく、何と無く居心地が悪かった。  お千代は黒いロングジャケットの裾を窘めつつ、優雅な所作で以て腰を下ろし、辻井からメニューを受け取る。と同時、お千代は油断ない動作で以て、探偵免許証を示した……勿論、周りの客には気取られないよう、静かに。 「仕事中申し訳ない。実は、私達はこういった身分の者で、貴方とお話ししたくて此処に来たんだ」  お千代が声音を落とす。と、周りの主婦達が怪訝に此方を睨んでくる。探偵免許証も、話の内容も、気付かれてはいない筈だが。 「えっと」  辻井は探偵と聞くと、流石に表情は崩さなかったが、目に剣呑なものを宿した。 「探偵さんですか……前回の探偵さんとは違う方みたいですが、どんな御用件でしょう?」  前回の探偵とは、「イセ顧問探偵事務所」の者だろう。辻井はファイルに載っていたのだから、当然、「イセ」の事情聴取を受けている。 「済まないね。私も仕事の邪魔はしたくない。手短に済ませよう……訊きたい事というのは、椿山の奥さんの事なんだが」  お千代がそう切り出す時、俺は相手の顔をじっと見ていた。辻井は別段取り乱す様子もなく、困った様に微笑んで、 「椿山さんですか」 「御存知かな?」 「えぇ、勿論。常連様ですし、前回も椿山さんについて訊かれましたから」  見る限り、辻井は「椿山」という名を平気で口にしている。まるで世間話程度といった顔だ。が、だからといって無実とは限らない。白を切っているのでは?疑う事こそ捜査員の仕事。これからが腕の見せ所、此の手の訊問は訊問だと相手に気取られてはいけない。唯でさえ探偵という職業は警戒され易い。其の警戒を解きながら、飽く迄自然に、婉曲的な質問、例えば「実は、其の、椿山さんについて、ある疑惑がありまして」とか、そんな様な質問を根気強く続け、相手がボロを出すよう仕向けるのが定石、其れも微細なボロ、表情や声色、態度の僅かな変化を読み取らねばならない。慎重、繊細な作業だ。  なのに、 「実は、椿山夫人は今朝自殺してしまったんだが、彼女と貴方が浮気していたという嫌疑が掛かっていてね」  いきなりお千代が全て打ち明けてしまった。  一瞬、理解が追い着かなかった。追い着いた時には手遅れだった。直球というか、初手から手の内を開示する、策とも呼べない方法に、俺の方が狼狽えてしまう。  が、当のお千代は不敵な微笑を湛えた儘、辻井の反応を待っていた……いや、金瞳は辻井を見ていない……彼の肩越しに別のものを見ている。 「其れってどういう意味ですか?失礼じゃありません?有り得ないと思うんですけど」  思い掛けず険のある女の声が返ってくる。声の主は近くの席にいた主婦で、眉間に皺を寄せつつ、不機嫌を隠しもせずに会話に割って入った。他にも、同じ席に着く四人の主婦友達も俺達を睨んでいた。丁度デザートの段だったのか、彼女達の席には赤や青の蜜の滴るタルトが並ぶ。 「ほう……?」  お千代は好意的とは言い難い主婦達の視線も余裕綽々と受けて、 「失礼、マダム。『有り得ない』とは、どういう意味でしょう?」  ケレン味溢れる言い回し。お千代がニタリと笑う。金瞳はタルトを眺めている。  こうなったお千代は些か厄介だ。 「お話中済みません。でも、(みなと)君が困っていたみたいなので」  察するに、此の主婦も辻井目当ての常連だろう。其れにしても「湊君」とはお安くない。相当な入れ込み具合だ。 「湊君の名誉を守る為に敢えて口出しさせて頂きますが、浮気なんて有り得ません。彼は潔癖なところがあって、不潔な事は出来ないんです。そうよねぇ?」  主婦が周りの友人達に同意を求めると、蜂の巣を突いた様に、皆々口を揃えて、 「そうね」 「其の通り」  と、次々に頷いた。其れは一つのテーブルに収まり切らず、波紋の様に店中に広がり、隣から隣へ、辻井を擁護する声は際限なく、更に「椿山夫人の自殺」という醜聞(ゴシップ)が程良い辛味になり、昼下がりのお喋りは過激な熱を帯びていった。 「湊君は純朴で不器用なんだから、犯罪には向いてないんですよ。況して浮気なんか」 「湊君が可哀相……彼は凄く良い子なんです。きっと何かの間違いです」 「探偵なんて……」 「折角の美味しい食事が……」 「其れに椿山さんが亡くなったって……」 「自殺なんでしょう?何かあったのかしら」 「探偵さんの言う事と関係あるんじゃない?」 「浮気?椿山さんが?」 「確かに彼処の奥さんは美人だから……」 「美人女優は誘惑も多いだろうし……」 「彼処は仲が良さそうだったのに、其れも御芝居だったのかしら」 「役だけじゃなくて、本人も悪女だった訳ね」 「そう言えば、今朝かなり早く、椿山さんの家の前にパトカーが停まってた。其れも沢山」 「何かあったのかしら」 「私も詳しくは知らないけど、尋常じゃないくらい警察の人がいたの」 「怖いわ。大きな事件かしら。其れも何か浮気と関係ある……」 「最近、椿山の奥さん、元気なかったんじゃない?」 「そうね。窶れてた。まさか、本当に浮気していて、旦那さんにばれたとか」 「芸術家は気難しいって聞くし……」 「けど湊君じゃないわ。そんな噂、聞いた事ない」 「やっぱりあれじゃない、女優をやっていた頃に噂されていた」 「俳優の……」 「阿部(あべ)(みつる)?」 「そう其の人」 「阿部も結婚してなかった?」 「嫌だわ。近所でそんな汚らわしい事が進んでいたなんて、今迄全然気付かなかった」 「判らないけど、椿山さんくらいの美人なら、引く手数多でしょう」 「すると、貴方も椿山さんに惹かれていたのかな?」  出し抜けに、ざわめきの間隙を突いて、お千代が辻井に訊く。途端、主婦達はお喋りを止め、一斉に此方を振り返った。其の異様さ、主婦全員が辻井の顔を見詰める緊迫感たるや、視線を針にして、嘘吐いたら針千本呑ますと言わんばかりだ。 「いえ、そんな……皆様の言う通り、僕と椿山さんはそういった関係ではありません。唯のウェイター、唯の常連様、其れだけです。其れ以上の関係は何も」 「そうだろうね。質問を変えるけれど、此の頃の椿山夫人はどんな様子だったかな?」 「様子……椿山さんは、近頃お店にいらっしゃらず、とんと御無沙汰なので、一寸判り兼ねます」 「では、浮気相手の心当たりもない?」 「はい。申し訳ありません」  当惑しているだろうに、辻井は爽やかな笑顔を崩さず、テキパキ応えた。これこそ彼が人気者である所以だろう。大したものだ。俺などはこんな状況が苦手で、針の(むしろ)に座っている心地だ。  対して、全ての元凶たるお千代は嬉しそうに「うんうん」と頷いている。 「君の言う通り、君は間男じゃないみたいだ。いや、要らぬ嫌疑を掛けて申し訳なかった。これだけ証人がいるんだ、君の無実は確かだよ」  其れから、お千代は何事もなかったかの様にメニューを開いた。 「では食事を頂こう。私は此のコースを。デザートはラズベリータルト、食後には温かい紅茶を一つ」
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