透明な依頼 弐

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 味わう余裕もなく昼食を終え、お千代と共に店を出る。  車上、助手席のお千代は、 「あの店、中々美味しかったね。次は仕事でなく、プライベートで行きたいものだ」  と、呑気に言っていた。が、俺は恐らく二度とあの店に行かないだろう。彼処の常連には顔を覚えられてしまった。あんな気まずい昼食はもう二度とご免だ。 「味は置いとくとしても、随分アッサリ無実だって決めたな」  そう言う自分の声に思い掛けず非難の色を見付ける。不機嫌な棘に自分が驚き、俺は取り繕う様に声色を(やわ)らげて、 「辻井が浮気相手じゃない理由が未だ判らないんだけど、俺が何か聞き逃したのかも」  と、苦笑してみせた。 「おや、君は気付いていないのか」  お千代は後部座席に放っていたファイル……男達の名簿……を取り上げ、白い足の上に乗せながら、 「まぁね。普通の聞き込みより簡単に済ませたが、今回に限って言えば、白黒付けるのは早い方が良いと考えての事だ」  そう言うと、お千代はファイルを開き、ファイルの二枚目を指差した。お千代の意図する事はサッパリだが、こう自信満々に告げられると、根拠なく信じてしまう。俺は異議も唱えず、素直にファイルを覗き込んだ。  前原達彦 二十四歳 運送業者ドライバー  名簿に連なる彼……前原(まえはら)……は、此の付近を担当する宅配員らしく、備考欄には「度々椿山邸に荷物を届け夫人とは顔見知り ※恋人有り」と記されていた。 「次は彼の所へ行こう。家に出入りしていたなら、生前の夫人について聞けるやも知らん」 「了解」  俺はキーを差し、ハンドルを握ってから、前原の勤務地を目で追った。住所を黙読する。と、「目的地に設定しました」という声が脳内に返って来る。システムの声だ。後は此の声に従って進めば良い。  国道十五号を北へ走らせ、品川駅を越え十分程の交差点にて、「此の信号を左です」と、案内通り細い道に入れば、直ぐ目的地はあった。  車を路肩に寄せる。  俺とお千代は、車を降り、宅配会社の営業所へ向かった。鉄柵を回り、錆びた門扉を抜け、プレハブ小屋に近付く。 「済みません」  小屋の入口にある受付カウンターに声を掛ける。と、間もなく白髪の警備員が顔を出した。警備員は最初、不審そうに俺達を眺めたが、探偵免許証を示し、事情を説明すれば、意外にも快く立入を許可してくれた。 「御苦労様。美男美女の探偵たぁ、絵になるね。にしても、若い子の間ではそういうのが流行ってるの?」  警備員がお千代の髪と瞳の色を物珍しそうに眺める。 「いいえ、流行ってはいないですよ。これは私だけです」  お千代は得意気にそう応えていた。  営業所の中に入ると、受付カウンターには、警備員とは別の、中年らしい受付嬢が待ち構えていた。俺達は改めて探偵免許を示し、前原達彦(たつひこ)に会いに来た旨を伝えた。受付嬢は俯き、資料らしき物を眺め、「前原は丁度宅配に出ていますが、もう少ししたら帰って来ますから、暫しお待ち頂けますか」と、俺達を建物奥へ通した。応接間は他の来客で埋まっていた為、休憩室に案内される。受付嬢に「畏れ入ります」と謝られたけれど、急に押し掛けた此方が悪い。  休憩室は十畳程の広さだった。中央に長机が据えられ、右の壁際にハンガーラックと雑誌ホルダーが並ぶ。正面には大きな窓、右側の壁には貼り付け型のテレビがあった。受付嬢は、机の上に放置された週刊誌を手際よく雑誌ホルダーに仕舞うと、俺達に着席を促し、自身は茶を淹れに部屋を出た。  俺とお千代はパイプ椅子に並んで座り、出された番茶を啜った。白い壁には宅配会社の宣伝ポスターも貼ってあり、俺はポスターの上を軽快に動く猫らしきキャラクターをぼんやり眺めた。段ボールを担いだ猫が決められた動きを繰り返す。  チラと隣を窺えば、お千代は雑誌ホルダーを見ていた。猫の挙動に飽きた俺も其方を見やる。  黄と黒、攻撃的な配色の表紙に躍る見出しが、世の悪事を殊更惨く知らしめている。政治家の汚職、アイドルの不貞、教師の淫行、いつの世も取り沙汰される事件の数々。其の幾つかには探偵も関わってきた筈。椿山夫人の自殺も其の一つに加わる。一体何処から嗅ぎ付けて来るのやら。記者こそ探偵に相応しい。  ……高名な芸術家の妻、自殺!浮気が原因か?元女優、背徳の演技生活……。  そんな見出しを俺が空想していると、男が一人、休憩室に入って来た。 「お待たせしました」  これ又爽やかな青年である。日に焼けた肌、締まった身体と、白い歯が、如何にも健康的だ。人相は顔写真と一致する。紛う事なき前原達彦は、しかし、部屋に入って来るなり扉の前で突っ立ってしまった。お千代の銀髪や金瞳に驚いたらしい。 「どうも、お忙しいところ済みません」  そう言って、呆然とする前原に椅子を勧める。 「いえ……其れで、探偵さんが自分にどんな用でしょう?又椿山さんの事でしょうか?」  前原が椅子に腰掛けながら訊く。笑顔こそ浮かべているものの、内心の不安が引きつる口角に滲んでいる。受付辺りで探偵が訪ねて来た事を知らされたのだろう。 「そんなに身構えないで下さい。大した用件ではありませんので」  相手の緊張を解くよう、俺は慎重に言葉を選んだ。哀しい事実だが、二枚目は浮気を疑われ易い。実際は、二枚目だろうがなかろうが、不誠実な者が不貞に走るのだが……先程の辻井同様、前原も相当に整った顔立ちだ。彼こそ間男と告げられても俺は驚かない。後は、前原が不誠実な男かどうか見極めるだけだ。  事情聴取なんてものは、先ず疑うことから始まる。何とも業の深い作業である。  ……とは言え、さて、どんな切り口から始めたものか、俺が思案している間に、又してもお千代が先に口を開いた。 「前原さん、貴方には恋人がいるね?」  お千代がファイルから顔を上げ、訊く。 「えぇ、はい」  はにかみながらも、前原は素直に頷いた。恋人がいるという情報は、名簿の備考欄に書かれていた。  お千代が淡々と質問を続ける。 「失礼だが、其れは正式な恋人?つまり恋姻届を提出した?」 「はい。届は一年くらい前に出しました」  一年。口の中で呟く。しかもキチンと届を提出しているなら、お千代の言うところの、正式な恋人、という事になる。  恋姻届。嫌な響きだ。これで俺は過去、訴えられた。婚前だったから慰謝料だけで済んだが……今はそんな事どうでも良い……重要なのは、此の青年に政府公認の恋人がいるという事実だ。 「成程。すると……大変プライベートな事を訊いて申し訳ないが……貴方は恋人を大事に想っているだろうと、私は推察するのだが、どうかな?」 「そうですね……口五月蠅いし、よく喧嘩もしますけど、大切だと想ってます」 「結婚の予定は?あるのかな?」 「えぇっと……」  前原は言い淀みつつも、顔を赤らめ、低い声で応えた。 「未だですが、近々、プロポーズしようかな、なんて……指輪だけは買ってあるんですけど、言い出す機会が掴めなくて」 「そうかい、そうかい。うんうん」  お千代が何度も頷く。矢鱈と上機嫌だ。お千代は一頻り頷き終えると、今度は俺の方を見詰めてきた。が、俺は強いて視線に気付かないフリを決め込み、宅配員から聞いた証言を頭の中で反芻した。  前原には恋人がいて、話を聞く限り関係は良好。プロポーズに関しては、是非、頑張って貰いたい。俺も成功を祈っている。  が、では、彼も間男ではないのか。  俺が腕を組んでいると、隣からファイルの閉じる音がし、其方を見やれば、お千代が足を組み替える艶めかしい場面を目撃した。 「じゃあ、質問を変えるけれど」  お千代は銀髪を撫で付けつつ金瞳を細めて、 「椿山の奥さんは御存知だろうが、何処迄知っているか、教えて欲しい。椿山邸に配達し始めてどれくらいになる?」  と訊いた。お千代は頬杖を着き、前傾姿勢で相手を見詰めている。 「入社してからズットなんで、もう三年くらいになります」  西日を湛える金瞳に気圧されながらも前原が応える。 「三年か、長いね。其の間に奥さんと交流があっても可笑しくない」 「交流はありましたけど、別に奥さんに限った事では」  前原の顔に警戒心が走る。俺は其の表情をじっと観察した。 「椿山さんの家は、旦那さんも大概、御在宅でしたし、荷物も大半は旦那さんの物でした。通販で買われた画材を宅配する事もあれば、完成した画を運び出す事も多かったんで、旦那さんとは懇意にさせて頂いてます」 「夫妻どちらとも親しかった、と」 「はい。旦那さんは無口だったけど、新しい画は必ず見せてくれました。奥さんも気さくな方で……」  前原が急に押し黙る。其の顔には困惑と無念の混じった暗い色が落ちている。何事か、お千代は直ぐ悟ったらしく、 「しかし、そんな気さくな奥さんの浮気が発覚した」  と、核心を突けば、前原は諦めた様に頷いた。 「今でも信じられません……あんなに良い奥さんが……俺なんかにも優しくしてくれて……外から見ただけでは判りませんね。俺には、旦那さんを凄く大切にされていた様に見えたんですが、そんな風に演じていただけだったなんて……」 「不貞が判ったのはいつ頃?」 「三ヶ月前です」  前原が即答する。お千代は微かに眉根を上げて、 「偉く時期がハッキリしてるね」 「本当の時期は知りません。けど、俺が奥さんの浮気を知ったのが三ヶ月前なんです」 「どういう意味なんだ?」 「三ヶ月前に、浮気の事を、旦那さんと奥さんに教えられたんです」 「……益々意味が判らないな」  お千代が怪訝な顔になる。俺も首を傾げた。妻の浮気を夫婦に教えられるとは、果たしてどんな状況か? 「俺にも意味は判らなかったんです。けど、兆候は以前からあったんです」  前原は顔色を一層暗くして、 「半年前くらいから、椿山さんの家は変になっていきました。何と無く陰気というか、明るかった奥さんから笑顔が消え、不意に思い詰めた様な表情になるんです。反対に、旦那さんの口数が増えました……あれは空元気だったんでしょうか……」  と、一旦言葉を止め、首を横に振った。 「前回、違う探偵さんにも話した事なんですけど……駄目だなぁ……嫌なものは、何度目でも嫌な感じがする」 「話してくれたら、御礼もするけれど」 「大丈夫です。御礼なんて却って頂けません。お話しします。短い話です。三ヶ月前、画を運び出す仕事が入ったから、いつも通り椿山さんの家へ行きました。旦那さんに案内されアトリエに御邪魔したんです。其処に奥さんがいらっしゃいました。いつもなら、奥さんは台所でお茶の用意をしてくれているんです。変だなと思ったら、旦那さんから『今日は君に聞いて貰いたい事がある』と切り出されました」  日に焼けた顔を青くしながら、前原は言い継ぐ。 「其の時は、今回の運搬には特別な注意があるんだろう、くらいに考えてました。そしたら、旦那さんが『妻が浮気したんだ』と、突然……旦那さんはいっそ明るく『そうだな?』って訊いてました。奥さんは『はい』と応えました。けど信じられなくて、俺、奥さんを見たんです。あの時の光景は今でも頭から離れませんよ。奥さんはいつもの、サッパリした顔で、堂々と『ご免なさいね、いきなりこんな話をして』なんて謝るし、旦那さんは相変わらず明るい調子なんです。『じゃあ、仕事の話をしよう』と……其れが何だか無気味で、逃げる様に仕事を片付けました」  前原は心底嫌そうな顔をした。俺も同じ顔をしたに違いない。妻の罪を晒す夫の心境は判らなくもないが、他人を巻き込むのはやり過ぎだ。 「其れから奥さんは塞ぎ込んでしまい、家へ行っても会えませんでした。病気勝ちになったと、噂には聞きましたけど……あのぁ……やっぱり、奥さんに何かあったんでしょうか?」  探偵の来訪が良い予兆の訳がない。其れに「やっぱり」と言っている辺り、悪い予感は前々からあったらしい。前原は怖々俺達を見た。今朝の事は未だ知らないのか。そろそろニュースになっていそうだが。 「椿山の奥さんは今朝亡くなった。自殺だそうだ」  お千代が正直に事実を教える。前原は「そうでしたか」と肩を落とし、けれど決意に満ちた目を上げ、 「あの、奥さんの様子なんですが、本人だけじゃなく、画の方も良いでしょうか?」  と、声を潜めた。 「画とは、椿山朔太郎が描いた奥さんの画の事?」 「そうです。さっきも言いましたけど、俺、アトリエには頻繁に出入りしてましたから、何度もあの画を見てるんですけど、半年前から、画の様子も段々変わっていったんです。特に画の中の奥さんの様子がどんどん色っぽく……花瓶と奥さんの画は御覧になりましたか?」  俺とお千代は同時に頷いた。手前に砥部焼の花瓶があり、画面奥の裸婦がそっぽを向いている画の事だ。 「俺が見た中だと、あれが一番顕著に変化しました。最初、画の女の人は服を着て正面を向いてたんです。其れが描き加えられ、今では裸、顔も横を向いてしまいました。他の作品の奥さんも、最初は優しく笑ってたのに、いつの間にか挑発的になってたり……俺は芸術に詳しくないから、単なる勘違いかも知れませんけど」 「ふむ」  一通り聞き終えると、お千代は腕を組んだ。お千代がこんな悩ましい溜息を吐く時は、決まって思考の海に沈んでいる。俺は其の思考が纏まるのを黙って待っていた。  暫くすると、お千代は徐に顔を上げ、前原にニッコリ微笑んだ。 「貴重な情報を有り難う。最後にもう一つだけ。奥さんの浮気相手に心当たりは?」 「全くありません。前回の探偵さんにも言いましたが、今でも信じられないくらいです」 「そうか。時間を取らせて済まなかったね」 「いえ、平気です」  前原も爽やかな笑みを返す。重荷を下ろした様な、人に言えない悩みを打ち明けた様な解放感が、彼の額の辺りに晴れ晴れと浮かんでいた。  俺とお千代はソファを立ち、 「有り難う御座いました」  と、改めて礼を述べ、休憩室を後にした。  営業所を出、受付に控える警備員の老人にも挨拶する。老人は人懐っこい笑みを浮かべつつ手を振ってくれた。お千代も手を振り返し、其れから俺達は車に戻った。  バタン、バタンと、ドアを閉じ、俺が運転席、お千代が助手席に収まる。 「彼は違うね」  お千代が呟く。 「そうだな」  車のキーを弄びながら、俺は応えた。十中八九、前原は浮気相手ではない。 「次に行こうか」  お千代がファイルを開く。三人目は羽生(はぶ)幸之助(こうのすけ)、美容師。働いている美容院は椿山邸に程近い。俺はキーを差し込んで、「了解」と応えた。  赤色テントウムシが十五号を戻って行く。秋の日は既に傾き掛け、街は橙色に染まっていた。
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