透明な依頼 参

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透明な依頼 参

 其れから数日を掛けた調査の結果は、俺をうんざりさせるには充分だった。椿山夫人の男リストを順番に一人ずつ訪ね、聞き込みを繰り返したが、どういう訳か全員白、リストの中に間男はおらず、どころか全員が間男の心当たりすらないという体たらく、つまり前任者と同じ轍を踏んだのだ。  とてもじゃないが、これでは依頼人に顔向け出来ない。俺達はリストに挙げられた男達だけでなく、椿山夫人の過去一切、今現在は交友のない男達をも悉く探し出し、同様に聞き込みを断行した。  が、結果は覆らなかった。間男は見付からなかったのだ。  昔、椿山夫人と熱愛疑惑を報じられた俳優、阿部充を訪ねた際など、頭から否定されてしまった。 「彼女が僕と浮気?有り得ないなぁ。一時そんな噂も流れたけどね。まぁ、時効だろうから打ち明けるけど、僕もあの噂に流された一人なんだ。お忍びデートだ何だと、報道(マスコミ)にしつこく附き纏われている内に、周りの熱に浮かされたのか、自分でも其の気になって、彼女に迫った事がある。けど駄目だった。当時から彼女は今の旦那さんに惚れていたから、僕が入り込む余地は全くなかった……あれも彼女一流の演技だったのかな……だとしたらゾッとするね。浮気の末、自殺だろう?僕の所に来た記者が全部教えてくれたよ。相手は誰だか知らないけど、若しかすると、現役時代から浮気してたのかもね……」  此処迄聞き出したところで、俺達は阿部の付き人に追い払われてしまった。探偵と長々話し込まれては外聞が悪い、という事らしい。  自白はあれど、一向に見付からない間男。まさか透明人間でもあるまいに、椿山夫人が告白した浮気は、一体、何処の誰とのものか?  正直、(これ)以上(いじょう)の捜査は難しい。手詰まりだ。俺はそうお千代に進言した。が、所長机の椅子に悠々座ったお千代は、腕を組んだ儘、黙り込んでしまった。依頼を請けてから六日目、十一月十二日、月曜日の夕方の事だ。  所長机の背後には巨大な本棚が悠然と据えてある。其の大きな本棚、知識の殿堂は、覆い被さる様に見る者を圧倒する。そんな本棚を背に、お千代は憂い顔、机に置かれた煙草盆から煙管(きせる)……銀製の長煙管……を取り上げ、煙草を火皿に詰め込んでいる。 「方針を変えよう」  俺は所長机の前に立ってそう提案した。煙管に火が入り、紫煙が薄布みたく揺らめく向こうで、お千代の金瞳が伏せている。 「リストに載ってる男達は一通り調べたけど、何にも判らなかった訳だし、やり方を変えるべきだろう。奥さんの相手はきっと交友のある人間じゃないんだ。これだけ知人に当たっても相手が判らないんだから、見ず知らずの男に一目惚れでもしたんじゃないか?ファイルが役に立たない筈だよ」  机上のファイルを見下ろす。「イセ顧問探偵事務所」……表紙に記された此の事務所も終に間男の正体は掴めなかった。其れは無能だからでなく、依頼が難し過ぎたのだと、今なら判る。俺には椿山夫人が空恐ろしく感じられた。世の犯罪者の内、探偵を二度も欺き、己が罪をこう迄隠し通せる者が、果たして何人いるか。 「手掛かりもなくなったし、本人もいないから尾行も出来ない。なら、もう一度椿山の家に行って、奥さんの所持品を検めるのが定石だと思う」  そも、椿山邸を最初に訪問した際に、済ませておくべき事だったのだ。家探し、物証確保は、浮気調査の初手ではないか。  煙管の吸い口を咥えるお千代の唇が、長々紫煙を吐き出す。煙が部屋に溶け込み見えなくなる頃、パンッと、煙管を握った右手を左の手の平に叩き付けて灰吹きに灰を落とし、お千代は口を開いた。 「確かに君の言う通りだ。此処はもう一度、椿山家へ御邪魔しようか」  艶やかな声。お千代は六日前、初めて椿山邸を訪ねた時と同じ服装、即ち黒のロングジャケットと、揃いの黒いショートパンツを着ていた。が、インナーは違っていた。ボタンラインと襟、カフスの白い、黒のクレリックシャツ。ブーツも革のロングブーツに変わっている。これだけで、前回の可憐さは鳴りを潜め、代わりに凜々しさが備わる。衣装とは不思議だ……と、俺が見惚れていると、お千代が椅子を立ち、「行くよ」と、一人玄関へ行っていまった。  俺とお千代を乗せた赤いアンティークカーが、夕日沈む都内を静かに走って行く。助手席のお千代は、椿山に電話を掛け、今から訪ねる旨を伝えている。  地平線を赤く染める夕日はビル群の影に隠れ、天蓋を覆う藍色には気の早い一番星が煌めいていた。秋の日は短い。薄暗い道路は車のライトに照らされ、白と赤の人工灯が列をなす。店先のネオンや看板が灯り出し、前から後ろに流れ、流れ、赤信号で止まる。空の色も移ろい、燃える様な夕映えも直じきに夜空に変わる。  お千代が電話を終えれば、車内は静まり返った。 「透明人間、か……」  思わず呟く。青信号と共に車列が動き出す、其の緩やかな弾みに、つい、思考が言葉になって出た。 「透明人間なんかいないよ」  思いの外キッパリと否定するお千代の声に、俺はドキリとした。 「いや、別に、いない事は俺も知ってるよ。(たと)え話じゃないか。間男が全然見付からないから……」  お千代は何とも応えず、黙ってフロント硝子の向こうを見詰めていた。  車は大通りを外れ、車の少ない住宅街を走っていく。街灯と、家々の灯りが、薄闇に混じり合って、ぼうっとした前方に、目的地が見えてくる。大小幾つもの正立方体を規則的にくっつけた、元は美術館だったという建物は、宵闇と悲嘆に暮れ、纏った芸術性も負に働きかける。「悲劇」と題された白一色の画の様に、椿山邸は陰鬱と佇み、塀に車を寄せれば、此方迄暗澹に飲み込まれそうだった。  車を降りる。十一月も半ばとなれば夜気は肌寒い。俺は二の腕を擦りつつ辺りを見やった。家々の明かり漏れる通りは安寧だ。が、椿山邸の玄関に回ってみると「立入禁止」を示す黄色いテープが未だ残り、其の蛍光色が闇中(あんちゅう)に際立っていた。  暗がりの道、ふと、新たに鮮やかな色が横切る。長く滑らかな銀髪が、黒ジャケットの背で揺れたのだ。小柄なお千代は、ロングブーツの高いピンヒールをカツン、カツンと、鳴らし、玄関の階段を上った。  ……ピンポーン……。  場違いに平和なインターホンの音。玄関戸が開く。家の中から現れたのは、六日前より更に(やつ)れた男。椿山朔太郎は、逆光を浴び影の掛かった顔、身体が、今にも崩れ出しそうなのをどうにかドアノブで支えつつ、俺達を出迎えた。此の(かげ)り、傷心は未だ癒えていないらしい。 「お待ちしていました。どうぞ、中へ」 「……どうも」  挨拶を済まし、俺とお千代は暗い玄関にて靴を脱いだ。ピンヒールのブーツを脱げば、お千代の背は一段低くなる。其れでもお千代の威厳は損なわれず、寧ろ家に入って益々増していく様だった。  しんとした廊下を、椿山の案内で進む。玄関を上がって直ぐ正面に見える中庭は、もうスッカリ夜が満ち、真っ暗闇、窓硝子は壁に埋め込まれた照明を反射し、黒地に俺の顔が映り込む。ひっそりした家の中。  そんな廊下の途中、又しても湖畔の情景を描いた画の前を通る。其の際、俺は無意識に足を止め、二度見した。見間違いかと思ったが、矢張りそうだ、六日前に見た時と画の内容が変わっている。  大きな変化ではない。殆どは以前と同じ、山間に湛えられた湖畔の様子が幻想的に描かれ、輪郭は全て朧気、優しいかたちを持った霧漂う森の中、水面は夕日を照り返し、水辺には女が一人、裸身を洗っている。  変わったのは、唯一、裸婦だけ。(かつ)て腰周りを赤く縁取られていた女は、今や其の挑発的な赤い腰付きをなくし、代わりに水面と同じ淡い青色が彼女を包み、清廉と印象を新たにしている。だけでなく、其れは最早人間ですらなかった。何しろ、彼女の背中から、鱗粉を完璧に落とした蝶にも似た、透明な羽根が生えていたのだから。  ……こう考えるのは、ロマンチシズムが過ぎるだろうか?つまり、画が夜の顔を見せている、と。昼は腰の赤い女の姿、夜は妖精の姿となって、彼女は我々の前に現れる……。  勿論、本気で考えている訳ではない。変更点は椿山が描き加えたものに相違ない。なのに、こんな世迷い言を思い付いたのは、そう思わせる程の、何か、妙な気配が、家中に充満しているからだ。 「申し訳ないけれど」  と、廊下の先で声がする。お千代だ。お千代は出し抜けに立ち止まり、椿山を見据えて、 「今日はアトリエでなく、現場……奥さんの亡くなった部屋でお話し出来ませんか?」  と、言い出した。 「え……?えぇ、構いませんが」  椿山は面喰らいながらも拒否はせず、俺達を事件現場に通した。  其処は矢張り、事件当日、沢山の警官が出入りしていたあの部屋であった。  二十畳はあるだろうか。家の中でも一等広い部屋。正面の壁は、其の儘大きな一枚硝子になっていて、本来は庭と繋がっているのだろうが、此方も中庭と同じ、窓は横長の黒一色にしか見えない。部屋は深い緑色の壁紙に囲われ、其れが森林を思わせ、広さの割に酸素を濃く感じる。左の壁にはマントルピースが、部屋の中央には大きな丸テーブルが据えてあり、テーブルの周りには椅子が並べたあった。ダイニングなのだろうか。  しかし奇妙なのは、其のテーブルの上に、一脚の椅子が横たわっている事だ。  テーブルの上に転がる椅子。其処から視線を真上に向ければ、天井を横断する太い梁があった。  慌てて視線を逸らす。テーブルの上で転がる椅子、太い梁、足りない物は丈夫な縄くらいか。此の三つを組み合わせれば、ある風景が浮かぶ。実際に見た訳ではないが、十一月六日の早朝……此処は自殺現場だった。  直視に堪えず視線を外しても、猶、ダイニングに似付かわしくない物が視界に入る。イーゼルだ。イーゼルが部屋の右隅に立っている。ちゃんとキャンバスも乗っている。キャンバスには画が描かれている。当然だ。キャンバスは画を描く下地であり、此処は著名な画家の家なのだから。  問題は画の主題(モチーフ)。  画はダイニングの入口に背を向けていたので、此処からだと裏側の骨組みしか見えない。 「拝見しても?」  お千代が訊く。 「途中ですが、どうぞ」  椿山は頷いてから、 「今日一日、ズットこれを描いてました。描いていれば気も紛れますから……実は構想自体は先週からあったんです。けど、他のものの修正が立て込みましてね……今日やっと取り掛かれたので、未だ未だ荒い部分が多いから、あまり他人様に見せられる物じゃないんですがね」  と、言い訳めかしい事を付け加えた。  俺とお千代は、丸テーブルに沿ってイーゼルのある場所迄行き、画の正面に回り込んだ。そうして黙り込んだ。  途中だと椿山が言った通り、画は描きかけ、端々に白い素地が残っていた。が、題材は此のダイニングに相違ないと直ぐ判る。深い緑色の壁、画面奥にはマントルピース、丸テーブルと、其の上に転がる椅子。  唯、画の中心に描かれたものだけが、現在、存在しない。  画の中心には人間が描かれていた。椿山朔太郎が描く人物は一人だけだ。が、俺は一瞬、其れが誰か判らなかった。判りたくなかった。  見た儘を伝えれば、寝間着姿の女だ。  彼女は首を吊っていた。  苦悶の顔は鬱血し紫色。彼女は自分の首に掛かった縄を両手で必死に掴み、引っ掻いている。が、縄は容赦なく其の細い首に喰い込み、喉を潰さんばかりだ。長い黒髪と白いネグリジェは重力に従いストンと真下へ流れている。にも関わらず、両足は宙に浮き、足先はフラフラと、宛も無重力の上に爪先立ちしている様だ。  間違いない。此の(ひと)は椿山夫人だ。  そして此の輪郭をぼかした描き方は、間違いなく椿山朔太郎の作風である。
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