透明な依頼 参

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 其れにしても、何と鬼気迫る画面だろう。輪郭はぼやけているのに、其れが却って夫人の生命を稀薄にし、背景の緑色に吸い込まれる様に死んでいく姿は、彼女がもう絶対に助からない、そんな仕様のない絶望を突き付けてくる。 「最悪(ちゅう)の最悪だ」  囁く様なお千代の声に、俺はハッとして其方を見やる。  お千代は椿山を真っ直ぐ見ていた。 「其れで、今日はどのような御用件でしょう?調査は順調でしょうか?」  当の椿山は、相変わらず、悲嘆の淵に立った様な声で訊く。落ち窪んだ双眸も、血の気の失せた唇も、未だ妻の死から立ち直っていない事を示している。  ならば此の画は?悪趣味が過ぎる。自傷行為である上に、これは死者への冒涜だ。哀しみに堪え切れず、気を違えたとしか思えない。俺は怖ろしいものを見る様に椿山を眺めた。  が、お千代は硬質な声音を用いたものの、平時と変わらぬ流暢な語り口でこう言った。 「突然御邪魔して申し訳ありません。捜査は全く順調ですよ」 「そうでしたか!」  椿山の目に光が射す。俺は再びお千代を見やった。どうしてこんな事を言うのか。捜査は順調どころか、難航していると、最前事務所で話し合ったばかりなのに……。  訝しむ俺の視線も構わず、お千代は真剣な口調で以て言い継いだ。 「解決は後一歩のところ迄来ています。本日は其の大詰めの為に伺った次第でして、本来なら初手ですが、今回は事が事だけに詰めの工程に回しました。と言うのも、椿山さん、貴方にお訊きしたい事があるのです」 「協力は惜しみません。私で良ければ、幾らでも。其れで妻の浮気相手が見付かるなら」  椿山は大きく頷き、テーブルを囲む椅子の一脚に腰掛けて、 「お二人も掛けて下さい……で、私は具体的には何をお応えすれば?」 「いいえ、此の儘で結構です」  お千代は椅子を断り、コホンと、態とらしく咳払いを挟んでから、 「先ず、奥様に浮気を告白された状況を、詳しくお願いします」 「妻に浮気を告白された状況、ですか?」 「えぇ」  お千代はゆっくり頷き、 「どうにも腑に落ちない。貴方が、どうやって、浮気を聞き出したのか。出来れば、これ迄の奥様との生活についても、心情も含め詳しく話して頂きたいのですがね……」 「探偵さんがどんな疑問を抱かれているのか、判り兼ねますが、そういう質問でしたらお安い御用です」  椿山は窶れた頬を引き攣らせた。微笑んでいるらしい。其の際、えくぼの作る微妙な影が顔に差した。其の影が不吉なものを暗示している様に見え、俺は思わず鳥肌を立てた。  俺と、お千代と、画の中の首吊り夫人を前に、椿山は斜め上の虚空を眺めながら、事の詳細を語り始めた。  ……一年程前でしょうか。不安が現実の姿を手に入れたのは……。  結婚当初から、私は妻の美しいのが怖ろしかった。私の画より数段上等な芸術品である彼女は、私の画の数倍の盗賊に狙われていたのです。私は結婚当初から、自分の妻が誰かに心盗まれるのを怖れたのです。不釣り合いと、世間に言われる迄もなく、私自身が一番に理解していました。けれど一緒になったのです。「一緒になりたい」と妻の方から請われましたから。  結婚してもう五年になりますが、私は此の五年間、一日たりとて休みませんでした。天上の日々でした。浮かれ切った私は、毎日の様に妻をモデルにして画を描いた。あれは愉しかった。殆ど熱狂でした。妻の顔を成る丈精巧に描こうと必死だった。皮や肉や骨の髄から湧き出る本物の色彩を掴もうと、何度も何度も妻を描きました。  けれど、到頭私は何も掴めなかった。  欲しいものは遠くにありました。近付いている気もしなかった。描けども描けども、失敗作ばかり、世間に晒される駄作の一群……妻の姿を表すのに、私の力量は足りていなかった……益々惨めでした。画の描けない画家にはどんな値打ちもないのです。一年前、私は終に、妻を前にして一筆も塗れなくなりました。  キャンバスは真っ白い儘、私は何も出来ず、唯立ち尽くして……そしてあの時、私は妻の瞳に欠けた箇所を見出した……抽象的な物言いですが、私は確かに見たのです。あの時、妻の瞳に兆した憐憫が、まるで冬の空気の様に虹彩を透かし、妻の心を私に見せた。愛情の欠けた妻の心を。  そうです。何が足りないか、あの時理解したのです。勿論、私の技術も至っていなかった。しかし、其れ以上に、モデルである妻に、愛が欠けていたのです。  妻を責める気持ちはありません。最初から不釣り合いは承知の上、寧ろ安堵しました。妻の愛を得るべきは私じゃない……これでは私が描けないのも仕方がない。妻が私を愛していないなら、当然、私に真実の色彩を見せる訳もないのです。  なので、私は別れを切り出しました。いいえ、少しも憎んではいません。君に好きな人が出来たのなら、潔く身を引こう、優しくそう言った積もりです。  なのに、画の描けない私にも、妻はこれ迄以上に優しく接しました。酷いじゃないですか。私は別に怒っていないのに、未だ隠そうとするだなんて。今は浮気を禁ずる法律がありますから、其の所為もあるのでしょうけど、私に妻を訴える気はなかったのです。キチンと其の事も伝えました。  其れでも妻は心変わりを教えてくれなかった。  自分を偉いと思ったのは、此処から半年間も我慢した事でしょうか。優しい妻の態度は、私の無価値に対する同情の仕打ちに思え、堪え難かった。其れでも半年は堪えたのです。半年も……限界が来たのは自然な事でした。あの儘では私が破綻してしまう。妻の不貞を一刻も早く曝かなければいけなかった……其の為には、今迄の様な生温いものではいけません。もっと苛烈な訊問をする必要がありました。  一切加減しない方法に、妻は時に怒りましたし、時に涙を流しました。しかし、到頭観念したのか、三ヶ月前、終に浮気を自白したのです。嘘は赤いと言いますから、妻の唇や舌先を私が白い絵の具で塗っていた時、早速其の効果が現れたのか、妻は静かに「貴方以外に好きな人がいる」と告白したのです。  椿山が述懐を終えると、宛も(しゅう)()の外気が紛れ込んだ如く、切ない寒気が俺の全身を包んだ。 「……其れで、貴方はどうしましたか?」  寒々しいダイニングに、お千代の声が虚しく響く。俺は静かに進み出、お千代を庇う様に前に立った。椿山の視線に、お千代を晒したくなかった。 「どうしたって、決まっているでしょう?」  応える椿山の声には依然悲哀の色が浮かんでいる。 「勿論悩みましたよ。妻本人の口から浮気を告げられたのです。聞き出したのは私ですが、其れでもショックは大きかった。私は毎日妻に詰め寄り、跪いて泣き叫び、説得を繰り返し、懺悔し、懺悔され、夜も……まぁ、これは他人様に聞かせる事ではありませんね、夫婦の事ですから」 「罰か……其の一環として、奥様の罪を他人に晒した訳ですね?」  お千代の言う「他人」とは、宅配員の前原達彦の事だろう。三ヶ月前、前原は夫人の浮気公開に付き合わされたと証言していた。  椿山は頷き、 「何しろ、妻が度々嘘を吐くものですから、他人様に知って貰って、事実を補強しなければいけなくなったのです」  と、鼻を突く絵の具の匂いの中、寂しく言い継いだ。 「『あれは嘘だった』と。『私は浮気なんかしていない』、『愛しているのは貴方だけ』……そんな嘘を吐くのです。しかし誰が信じられましょう?妻は女優なのです。其れに、私は妻を愛していましたが、其れだけに、妻の裏切りを許す事が出来なかった」 「……其れで」  俺は自分の肩越しに背後のお千代を眺めた。お千代は質問を重ねつつ、手を上着のポケットに突っ込んでいる。 「其れで、貴方はどうしましたか?」  ポケットの中に俺は小さな光を見た。恐らく携帯端末だろう。お千代は此の会話を録音しているのだ。 「どうしたって、決まっているでしょう?」  そうと知らない椿山は、悲哀の声で以て素直に応え続けた。 「勿論、姑息な嘘に耳を貸す私ではありません。断固として妻の嘘を撥ね除け、不貞の責任を追及し続けたのです。相手の名前を聞き出そうと躍起にもなりました。相手を見付け出して、きっと後悔させてやる……嗚呼、あの頃か、妻が『死にたい』とぼやき始めたのは……そして妻は、相手の名を明かさず、到頭自殺してしまった……」 「……そうですか」  今、お千代の心中にどんな想いが巡ったか、次の質問に移ろうとした其の時、お千代の金瞳に過よぎった哀悼を、俺は見逃さなかった。 「では次の質問を。其方の画の事で」  お千代はそう言うと、視線を椿山から件の油絵の方へ移した。 「其の画を描かれた経緯について、教えて頂けないでしょうか?」 「経緯ですか?」 「えぇ、そうです。其の油絵を描こうと思った動機、と言い換えても宜しい。拝見しましたところ、其処に描かれているのは奥様とお見受けします。しかも其の画は、奥様が今正に亡くなろうとしている瞬間の様だ」  お千代の口調に非難と反発の色が交じる。 「どうにも腑に落ちないんですよ。どうして貴方がそんな画を描いているのか……いえ、描けるのか。だって其の画の奥さんは、未だ生きてらっしゃる」  お千代の声はハッキリ響いた。 「其の画はまるで、奥さんが首を吊った直後の情景を、目の当たりにしたかの様だ。首に縄を掛け、宙吊りにされ苦しんでいる奥さんを、静観している様な……まるで、奥さんが貴方の目の前で亡くなったかの様だ。どうして貴方は其の情景を描けるのか。画家の習性でしょうか。衝撃を受けた光景は、キャンバスに描かずにはいられない、といった」  お千代の言わんとしている事をようやく察しても、俄には信じられず、俺は椿山を凝視した。まさか、此の男、妻が首吊り自殺する姿を、黙って見守っていたというのか。 「えぇ、貴女の言う通りです。よくお判りになりましたね。流石は探偵さんだ」  椿山はアッサリこれを認めた。俺には、眼前の男が、急に怖ろしいものに見え始めた。 「私はあの朝、妻が自殺するのをじっと見ていました」  こんな事を平気で宣う椿山が、現実界を遠く離れた悪夢の住人に思えたのだ。 「……首吊りの支度は奥様が?」  感情を抑えた平坦な声音でお千代が訊けば、椿山は「いいえ」と首を振り、 「支度は私が済ませました。大分以前に……妻が『死にたい』とぼやき出した頃、ならばと私が梁に縄を掛けてやり、テーブルに椅子を置いたんです。いつでも首が吊れるように」 「其れから此処で食事された事は?」 「勿論。ダイニングですから、食事は決まって此処です」 「成程、毎日此処で食事を……そして奥様は自殺を決心した」 「そうです」 「きっと悩んだ末の自殺だったでしょうね」 「そうなんです。あの朝、妻は終に椅子の上に立ち、首に縄を通した。矢張り浮気相手を庇う目的があったのでしょう。しかし不思議だったのは、首に縄を掛けた途端、妻が泣き出した事です。浮気を自白してから、あんなに毎日『死にたい』と呟いていた妻が、事此処に至って『死にたくない』と泣き出したんです。だから私は、此の期に及んで嘘を吐く妻に代わり、足場の椅子を蹴飛ばしてあげました」  椿山が天井の梁を仰ぐ。どんな幻影を見ているのか、落ち窪んだ双眸はひたすら虚空を眺めている。  椿山は告白し続けた。 「あの光景は今も目に焼き付いて離れない……妻が死んでしまった。此処で、私の目の前で、自殺した。私は哀しかった。雷に打たれたみたく……私は無意識に筆を取っていました。描かずにはいられなかった。戒めを解かれたんです。家中の妻を描き直した。そうしないといけなかった。其の間も、ズットあの光景が在り在りと目の前に浮かんで……やっと今日、其の光景をキャンバスに写せました。これが此の画を描いた動機です」  そう言う椿山の表情……哀しみの底に沈みながらも、底の底には僅かに輝くものが潜む、恍惚とした其の表情を見た時、俺はようやく合点がいった。廊下で見た画が修正された理由……蠱惑的な赤い腰付きの裸婦が、清廉な妖精に変身した理由について。  椿山は、きっと、夫人が死んで安心したのだ。自分以外の生者は何をするか判らない。どんな約束があったとしても、我々は本当の意味で他人を縛る事は出来ない。が、死人は違う。死人は決して裏切らない。勿論浮気もしない。これで本当に自分のものになった、其の安堵が画に表れたのだ。  ……真実はどうあれ、椿山朔太郎は其れを信じた……。 「成程ね」  不安定な混乱の最中だった。今しも倒れそうな、眩暈(めまい)のする、風邪のひき始めの悪寒の様な空気を断ち切る、頼もしい一声が、俺を貫き、椿山に投げられた。 「お千代……」  俺は首だけ動かし、背後のお千代を見やった。身の内の激情を堪えたお千代は、長い銀髪も相まって、一本の鋭い刃物の様に見えた。 「成程、成程……」  お千代はチラと首吊り画を窺ってから、 「無理な力を掛けて歪んだレンズが結んだ虚像、か」  と言って、一度息継ぎを挟み、 「椿山さん、貴方は五年も結婚生活を過ごしながら、一体、奥様の何を見ていたんだ?ジョージ・ウエルズの読み過ぎでは?透明人間はいなかった。奥様は潔白だ。浮気などしていない。当然、間男もいない。なのに、貴方は奥様の見え透いた嘘すら見抜けず、在りもしない浮気を憎んだ。或いは、非凡な作品を作る為、魂を悪魔へ売渡したか。全く芥川の言う通りだ。貴方は此の画を描く為だけに、奥様を殺したんだ。たった其れだけの為に、貴方は貴方を一途に愛した奥様を殺したんだ」  此の言葉を最後に、お千代はジャケットの裾を翻し、ダイニングを出て行こうとした。  が、去り際、お千代は肩越しに椿山を見やり、 「最後に一つだけ」  と、人差し指を立てた。 「椿山さん、此度の依頼は破棄させて頂きます。未だ一週間経っていませんので、調査費はお支払い頂かなくて結構……しかし、最後に一つ、質問があるのです。若し間男が見付かったとしたら、貴方はどうするお積もりでしょう?」  じっと椿山の返事を待つ。時間も死んだ無音に部屋は支配される。  椿山は一連の非難を放心気味に聞いていたが、やがて哀しみの淵に立った儘こう応えた。 「どうするって、決まっているでしょう?」  椿山は笑っていた。笑いながら、壊れていた。 「浮気相手の目の前で、私も首を吊る積もりでしたよ。此処で、此のテーブルに立って、妻と同じ様に……妻はもうお前のものじゃない。私のものだと、判らせてやる為に」 「そうですか……」  お千代は深く、深く、溜息を吐いたらしかった。そうして別れも告げず、ダイニングから出て行った。俺も小さく会釈してから、お千代の背中を追った。  玄関に行き、靴を履く。お千代はロングブーツのジッパーを摘まみ上げた後、上着のポケットから携帯端末を取り出した。何処かに電話を掛けるらしい。玄関を出るや否や、お千代は送話口に語り出した。 「警察か?私は探偵の千代だが、とある事件に関する重大な証言を手に入れた。録音データを今から送るから、其れを再生したら、指定された住所にパトカーを寄越せ……どんな証言か、ねぇ……自殺が他殺に取って代わるものさ……あと、報奨金は後日しっかり頂くから、キチンと用意しておき給え。こっちも商売なんだから」  お千代が電話口に椿山邸の住所を告げる。俺は其の隣に立ちながら近所を見回した。スッカリ暗くなった住宅街。閑静な宵闇も、今夜はパトカーのサイレンと赤色回転灯に包まれる。 「君」  と、物思いに耽っていれば、電話を終わらせたお千代が俺を見上げていた。小柄な名探偵の、物憂げな表情、人形の様な造形美と、キレ長の金瞳に見惚れる。 「君、警察が来る前に、サッサと事務所へ帰るよ。事後処理なんて面倒は勘弁だ」 「……了解」  確かに、事情聴取だ何だと、ゴタゴタに巻き込まれては敵わない。キーを取り出し、俺達は急いで車に乗り込んだ。赤いテントウムシは逃げ出す様に椿山邸を去る。  こうして悲劇の幕は閉じた。
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