透明な依頼 参

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 事務所に戻り、玄関を入った所、階段下から二階にいる兎へ、 「ただいま」 「お帰りなさい」  眠た気な返事を聞いてから、俺とお千代は仕事場に入った。 「これで一件落着な訳だけど」  と、お千代が所長机の椅子に着くのを待って、俺は疑問を投げ掛けた。 「未だ俺には判らないな。お千代は、いつから、奥さんが浮気してないと睨んでたんだ?」 「おや、気になるかい?」  お千代は煙管の準備をしながら小さく笑った。 「気になるさ。無実を信じるのは難しいじゃないか。してない事の証明は難しい。『悪魔の証明』って呼ばれるくらい……しかも今回は奥さん本人の証言もあったし」 「『悪魔の証明』は真実の一側面だが、しかし傾倒し過ぎると危ない。今回みたいな冤罪の元になる」  煙草に火を点ける時、お千代は金瞳を細める。癖の様なものだ。お千代は一服、紫煙を味わってから、 「推定無罪、という言葉を知っているかな?疑わしきは被告人の利益に、とも言うね」  と、煙草の余韻もそこそこに、言い継いだ。 「自白法則は知ってるね?今回の件は自白強要の良い見本だ。嘘を吐く動機の一つに、己の身を守る為というのがある。椿山の病的な詰問は殆ど拷問だった。そんな精神的拷問から逃れる為、夫人は咄嗟に虚偽の告白をした。自分は不倫している、と……家庭内冤罪だね」 「けど、旦那は、自白した時奥さんは開き直った態度だったって……其れに、運送屋の前原も、奥さんは浮気を肯定した時、いつもの様子で、堂々としてたって証言したけど」 「其れこそ彼女一流の演技だろうよ。妄想症(パラノイア)に罹った夫を欺す為、彼女は前職の技術を駆使したのさ。在りもしない浮気を椿山に信じ込ませる為、即ち己が身を守るために、彼女は美事、悪女を演じてみせたんだ。椿山の奥方が、昔、映画『痴人の愛』のナオミ役を演じたのは有名な話だ。しかし、名演も考え物だね。今回の皮肉な顛末を考えると……さて……話題を戻そう。自白法則に従えば、強制された自白には証拠能力がない。司法の基本だ。となると、自白とは別の証拠が必要になる」 「其の証拠がなかった」  俺の言葉に、お千代は頷き、 「証拠というか、今回捜したものは、目撃情報だ。椿山夫人の不貞に関する何か、例えば男と二人でいたとか、ホテルに入るトコロを見たとか、そういう情報を求めたが、これが全くなかった。そんな事が可能だろうか。近所や世間の目を完全に欺くなんて事が」 「場合に()っては可能なんじゃないか?」  賢い悪人なら、自らの悪事を晒さない工夫くらいするだろう。そういう場合を言った積もりだったが、お千代は不敵な笑みを浮かべて、 「隠し通すというのは、君が思う以上に難しいものさ。特に、椿山夫人の様な有名人は、普段から耳目を集めている。そうなれば猶更だ」  と、美味そうに紫煙を吸い、「何より」と続けた。 「週刊誌はかなり手強い。不防法が制定されてからこっち、記者の浮気調査は探偵以上だ。にも関わらず、どの誌面も、夫人の浮気を報じていなかっただろう?」  此の指摘に、六日前、宅配員の前原を訪ねた時の事を思い出す。あの時、通された休憩所に週刊誌が何冊かあったが、其のどれにも椿山夫人に関する記事はなかった。  お千代は語り続ける。 「夫人の自白は三ヶ月前。とすれば、浮気はもっと以前からあった筈だが、此の間、世間が放っておく筈もない。浮気が本当なら、ね」 「そうかなぁ……」  説明されても腑に落ちない。世間だって、近所だって、記者だって、人間ならば見落とす事くらいある。お千代は、些か、週刊誌の能力を過信してやいないか。椿山邸を見張っている者でもいたなら未だしも……。 「納得出来ないか。私とて、記者がどんな地平からでも醜聞を嗅ぎ付ける、とは思ってない。しかし椿山家は別だ。あの家を見張っている記者、或いは記者に通ずる情報屋がいたのだから」  まるで此方の思考を見抜いた様に、お千代が平然と言う。不意を突かれた俺は、暫しポカンと口を開け、「情報屋?」と、やっとこれだけ訊いた。 「そう、情報屋。いたじゃないか」 「何処に?」 「最初に行った喫茶店に。主婦達に紛れて。夫人の浮気と自殺を仄めかしたら、簡単に尻尾を出した。語るに落ちるとは、ああいうのを言うのだろうね」  ウェイターの辻井湊を訪ねた喫茶店は覚えている。気不味い昼食、ガレットと、お千代が食べたラズベリータルト。あの店内に情報屋が?一体誰か、終に俺には判らなかった。  と、俺が腕を組み考え込めば、急にお千代が、クスクス、笑い出し、 「ご免ご免。私も別に千里眼じゃないよ。夫人の浮気を疑い始めたのは、先人のお陰さ」  お千代はそう言うと、ファイルを指差した。表紙に「イセ顧問探偵事務所」と印字されたあのファイルだ。 「御丁寧にも、解答は最初からこれに記されていた。『浮気はなかった』と幾ら説明したところで、依頼人、椿山朔太郎が信じない事は、前の探偵も判っていた。だからこんなものを(こしら)えたんだ。自分達の後に雇われる探偵に向けた暗号、という程ではないが、符牒を残す為に」 「つまり、お千代は此のファイルを受け取った時から、浮気は嘘だと知ってた、という事か?だから奥さんの無実を信じられたと?」 「最初は半信半疑だったけどね。確信したのは矢張り捜査してからだ。君と共に、彼方此方、聞き込みに回ったが、得られた情報はどれも間接的な噂ばかり、直接的なものは一つとてなかった。これが何を意味するか。要するに、誰一人、真実を知る者はいなかったんだ。語られた事と同じくらい、語られなかった事も重要……捜査の鉄則だよ。よく覚えておき給え。其れに……これは受け売りだけれど……噂は、往々にして、本質からかけ離れるからね」 「けど、切っ掛けは此のファイルに違いない訳だ。此のファイルが……」  俺は表紙を開いて、パラパラとリストを捲ってみた。夫人に関係する男達のリスト……夫人の無実を(しら)せたという中身を検めるも、暗号らしきものは見付けられない。 「迷える子羊に、ではヒントを授けよう」  煙草を吸い吸い、お千代が冗談めかす。俺が顔を上げると、悪戯を思い付いた子供みたく無邪気な金瞳が正面にあった。 「鍵は並び順。リストの順番が妙だと、君も一度くらい考えたろう」  お千代はリストを手繰り寄せ、最初から五枚目迄を順々に見せた。  一.辻井湊 二十六歳 ウェイター  二.前原達彦 二十ニ歳 運送業者ドライバー  三.羽生幸之助 三十八歳 美容師  四.東海林正信 五十五歳 呉服屋店員  五.蝋山辰巳 四十歳 元マネージャー 「五十音順ではない。年齢順でも、勤務地の近さでもない。では、何に因って順番は決められたか?」  じっと、金瞳に見据えられ、たじろぐ。が、お千代は真剣な表情を一転、含み笑いを堪え切れない調子で、 「ふふっ……悩む程のものじゃない。『伊勢物語』の――からころも、着つつなれにし――と仕組みは同じ、要は単純な言葉遊びさ。振り仮名でも付けてやれば(たちま)ち解ける」  と、言いつつ煙草の灰を片付けた。 「これで今回の依頼は完了か。其れにしても、捜査のメインは初日だけだったね。後はオマケ……さぁさ、店仕舞いだ。無駄に疲れたから、私はもう休む。君も適当に帰ると良い」  お千代はそう言い置くと、椅子を立った。気怠い横顔、流れる銀色の長髪の先から、香水の様に、前職の色が漂い出る。  元花魁の色香が。  銀髪の揺れる(つや)やかに物憂い背中が遠退いて見えなくなる迄、俺は身動きを忘れてしまった。  静まり返った夜を、天井のシーリングファンが、クルクル、かき混ぜる。  所長机には広げられた儘のファイル。俺はもう一度リストを覗き込んだ。お千代は何と言ったか……確か振り仮名……並び順が鍵とも……男達の名前に、振り仮名を付ければ良いのだろうか?  机上のメモ帳を手に取り、お千代が示した一番目から五番目の男達の名前を、順番に書いてみる。  辻井(つじい)(みなと)  前原達彦(まえはらたつひこ)  羽生(はぶ)幸之助(こうのすけ)  東海林(しょうじ)正信(まさのぶ)  蝋山(ろうやま)辰巳(たつみ)  十秒程、連なる名前を凝視し続け、其の解法のあまりの単純さに、思わず手を打ってしまった。何だ、気付いてしまえば何でも無い、並び順、振り仮名、成程!そういう事か。  頭文字だ。それぞれの頭文字を並べるだけ。そうすれば、「つ」、「ま」、「は」、「し」、「ろ」、即ち「妻は白」という文章になるではないか。  ……溜息を吐く。これが謎の解けた感慨なのか、こんな簡単な事に今迄気が付かなかった己への諦観なのかは判らない。が、感慨めいたものが、ストンと胸の内に落ちた事は確かだ。  ……帰る前にもう一仕事終わらせよう……。  所長机を回って、大きな本棚の前に立つ。目当ては、芥川龍之介が随筆「芸術その他」を収めた本。有り難くも、本棚は作者五十音順に並んでいた為、物は直ぐ見付かった。  目次を頼りに「芸術その他」を見付け出し、暫し読み耽れば、芸術に対する訓辞が続く中に、次の一文を発見する――  芸術家は非凡な作品を作る為に、魂を悪魔へ売渡す事も、時と場合ではやり兼ねない。  ――思わず目に入ったが、欲するは違う文章――  単純さは尊い。が、芸術に於ける単純さと云ふものは、複雑さの極まつた単純さなのだ。  ――これだ。  胸に奇妙な自信が満ちる。過去の文豪に背中を押された様な心持ち。今なら、語彙力乏しい俺であっても、任された創作の完成を期す事が出来る。  本を戻し、自分の机に向かう。仕事机の片隅には、半ば丸まったポスターがある。六日前から放置されたポスターは、依然、キャッチフレーズが空欄の儘。俺はペンを手に、其の空欄に短い一文を書き込んだ。其れを二度読み返した後、俺はペンを片付け、帰路に着いた。  書き込んだ文は次の通り。  其の事件、承ります。
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