不眠症

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不眠症

 満月だった。其の所為かも知れない。  寝付けない夜、これは誰にでも経験がある筈だ。が、寝付けない夜、これがどの夜にやって来るか、誰にも予想が付かないものでもある。しかし大概、寝苦しい夜は、明日も朝から職場へ行き、仕事をしなければならず、故に夜も遅くならない内に寝付きたい夜にやって来る。其れはいつも通りの夜に擬装して、疲弊した身体を横たえ、真っ暗の中、枕を頭に目を瞑り、さぁ寝ようという段になって初めて、やぁと挨拶してくるのだ。  ……こんな事を、自宅の、真っ暗闇の部屋の中、枕に沈んだ頭を使って、目を瞑りながら延々考えている俺は、(まさ)しく寝付けない夜を過ごしていた。  深々と更ける夜。昼間に吹き荒んだ木枯らしは嘘の様に止んでいる。時刻が気になっても、枕元の時計を見る勇気はない。見れば怖ろしくなる。残り何時間しか眠れない、そんな勘定を行えば、焦りが募って一層眠れなくなる。唯でさえ、今日は昼間に歩き回っているというのに。  頭の中の思考回路は、モヤモヤとした眠気が掛かり、ハッキリしない。にも関わらず、グズグズと、動作を止めようとしない。下らない思考が脳内を飛び交い続ける。俺はいつ迄こんな事を考えるのだろう?不思議に思う。若し仮に、俺の頭が電化製品だったなら、きっと何処か漏電しているに相違ない。メーカーは何処だろう?文句を言ってやる。修理に掛かる日数は……?  莫迦莫迦しい。思考を無理矢理打ち切る。明日も朝から事務所へ行かねばならない。つまりサッサと眠りに落ち、朝を迎えたい訳だ。夢でも見ればアッと言う間に願いは叶う。  けど、そうだな、俺の脳が思考を止めない理由は、今現在、俺が目覚めながら夢を見ているからやも知らん。夢が、過去の追体験と呼べるのであれば、俺は今、夢を見ていた。過去の映像を編集する。其れは遠い記憶であり、今日あった事柄でもある。  昔見た映画のシーンが蘇る。高層ビルを臨む俳優。社長から内部調査を依頼されている。或いは、次々と男達を欺し、銀幕での地位を駆け上がる悪女が、刑事の撃った銃弾に(たお)れる。暴君を討った武士が、追っ手から逃れる為、姫を残し、雪降る灰色の田園を一人行く。  ……眠れない……。  追憶は映画を離れ、現実へ飛び込み、東京の空を突き刺す高い塔、其の頂上の景色を思い出す。あの時も綺麗な月夜だった。彼女は泣いていた。瞳を赤く腫らして。今日の昼間、俺と彼女が何をしていたか。俺達二人は、夕方迄、朝一番に寄せられた依頼、迷子犬の捜索に専念していた。  こういった依頼にお千代は参加しない。「面倒だ」そうだ。確かに、探偵の仕事の内、迷子犬捜索は一等地味、面倒の一言に尽きるは尽きる。が、愛犬が失踪した依頼者の心中を思えば、地味と(いえど)も緊急性は高い。  故に、俺達二人はお千代を事務所に残し、依頼人の住まいに程近い柴又を捜し回った。 「手早く終わらせましょう。私もこんな依頼は面倒なんです」  小生意気な声が響く。彼女は不機嫌そうにそう言っていた。二階で勉強していたのに、強引に仕事を押し付けられたのだから、無理もない。 「面倒って……(うさぎ)ちゃんも探偵を目指しているなら、依頼に優劣は付けるべきじゃないぜ。不貞や殺人ばかりが探偵の仕事じゃないんだから……と言っても、ウチの所長からしてあんな調子だから、説得力はないけど」  俺はこんな返事をしたと思う。住宅街を行く少女は、これを聞くと益々不機嫌になり、顔を上げた。其の刹那、帽子の陰から垣間見えた美しい瞳……宝石みたく赤い虹彩と、其の底が皹割れ紋様となって浮き出た如き瞳孔……が俺を睨んでいた。 「先輩、『兎ちゃん』は止めて下さい。何度目ですか?そろそろ慣れても良い頃でしょう?私の事は『兎』と、呼び捨てにして下さい」 「……ゴメン」  十八の娘相手に、俺は情けなく謝った。兎は苦い顔をしたが、其れ以上は追及せず、ふいと顔を背けてしまった。  兎。  目蓋の裏に浮かぶ彼女の姿は、何よりも少女らしかった。お千代より背の高い兎は、齢より大人びて見えるが、其の瞳に思春期特有の反発心を内包している。若さ故の有り余る生命力を不器用に抑え付け澄ましているのは、自分はもう大人だと広告したいからだろう。不機嫌そうな其の姿勢が、却って不安定さを助長している事に、本人のみ気付いていない。背伸びする少女は、そうして、触れれば砕ける、脆い硝子細工の様に、大人の保護欲求を刺激する。取り分け兎は、気の強い性格が、細長い四肢や華奢な身体の内側から(まばゆ)く輝く様で、観賞するには此の上ない。  眠れぬ頭の朧な思考を以てしても、昼間見た兎の服装は鮮明に映る。目深に被ったキャスケット帽子、白いドレスシャツ、赤いアランセーター、デニムパンツ、キャメルのケープと同色のエンジニアブーツ……を着込んだ兎の姿が、在り在り思い出される。全てお千代のお下がりだ。兎は未だ自分の洋服を持っていない。  風の強い一日だった。晩秋、北風が孕む冬の気配が頬に冷たかった。兎は枯れ枝の並木道に映える。実際にこんな並木道を歩いたかどうか、定かではない。が、これは夢の光景、言い換えれば妄想なのだから、現実に則しているとは限らず、又其の必要もない。  しかし俺と兎の二人が迷子犬を捜して街中を歩き続けた、これは事実である。 「何ですか?」  兎が俺の視線を訝しみ訊く。 「いや……」  其の時、俺は兎の被るキャスケット帽を見ていた。兎は美しい顔を不機嫌そうに……不機嫌ばかりだ……キャスケット帽のツバを摘まんだ。 「何かいけませんか?此の帽子」 「いや、いけない訳じゃない。よく似合ってる」  俺の率直な感想に、兎が少し面喰らう。年相応の照れ。気難しい年頃の心理作用は非常に細やかで、俺には判らない部分も多い。なので滅多な事は口に出来ない。何が繊細な心を傷付けるか、見当も付かないからだ。  帽子が似合っている、という発言に偽りはない。兎は何でも似合う。が、此処に本心を述べれば、其れ以上に勿体ないと思っていた。大きな帽子の下に隠してしまうには勿体ないくらい、兎は綺麗なのに。  と、口に出さずとも俺の思考を読み取ったのか、兎は巧い作り笑顔を浮かべて、 「有り難う御座います。先輩に褒められるのは素直に嬉しいですし、心配も有り難いですが、あたしにはこれが必要なんです」  兎が帽子を被り直す。すれ違う人の目を避ける様に、髪と瞳を覆い隠してしまう。生来の長い白髪を……。  兎。  其の名の通り、真っ白い肌と真っ白い髪、そして真っ赤な瞳を持つ少女。  そして飛び切りに美しい少女。  どれ程の美しさか、スッカリ隠しているが、かの高名な吉原遊郭、其の最高位、太夫の間に勤めていたと言えば想像は付く事だろう……。
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