不眠症

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 寝返りを打つ。  今夜に限って、兎の存在が夢の中で際立つ。まるで睡眠に対する抗生物質の様だ。白いところなどソックリじゃないか。  考えない……考えない……兎の事は考えない……何か別の事を考えよう。手頃なもの、最近の出来事だとか。  そう言えば、先日、お千代に借りた本があった。読書習慣のない俺に、お千代は極短い小説を持って来たのだ。 「試しに読んでみ給え」  言われる儘、手渡された本を開く。と、栞の挟まったページが現れた。先ず「満願」という表題が目に入ったけれど、はてな、作者は誰だったか。 「太宰ですね」  耳許で兎の声がする。背後から本を覗き込んでいるらしい。 「太宰治、『満願』。懐かしいですね。あたしも読みました。本当に短いですから、先輩もこれを切っ掛けに本を嗜むと良いですよ」  生意気な物言い。此の頃、兎はよく俺をからかって遊ぶようになった。良い傾向だ。引き取ったばかりの頃は、これからどうなるかと心配ばかりしていたものだ。  兎は、本の中身を見ているのか、調子に乗ってこう言い出した。 「先輩は読書が苦手でしょうから、最初はあたしが読んであげます――これは、いまから、四年まえの話である。私が伊豆の三島の知り合いのうちの二階で一夏を暮し、ロマネスクという小説を書いていたころの話である。或る夜、酔いながら自転車に乗りまちを走って、怪我(けが)をした。右足のくるぶしの上のほうを()いた。(きず)は深いものではなかったが、それでも酒をのんでいたために、出血がたいへんで、あわててお医者に駈けつけた」  ――柔らかく語られる「満願」は、兎の声に因ってより美しく感じられる。普段は隠したがる真心が、こうしたふとした際に滲み出るのは、兎が純心であると共に根が真面目である証拠だろう。加えて頭脳明晰ときては、俺が先輩として面目を保てるところがない。  実際、今日の迷子犬捜索に()いても、兎は俺よりズット頼もしかった。  朝一番、事務所に駆け込んで来た中年女性は、息せき切って「一刻も早くウチの子を見付け出して頂戴!」と訴えつつ、狐顔の柴犬が映った写真を掲げた。  其の飼い主がもたらした情報の要領を(まと)めると次の様になる。  名前:コマ   性別:雄   年齢:二歳  特技:フリスビーキャッチ  特徴:赤と青が縞模様になった首輪  逃亡時の状況:日課の散歩中、コマが急に激しく走り出し、其の弾みで(かね)てから緩んでいた首輪の留め金が外れ、行方不明に  更に詳しく聞き出せば、逃げ出したのは今朝方だと言う。犬が逃げて直ぐ事務所に来たのか。互いに都内とはいえ、態々(わざわざ)、区の違う我が事務所にやって来て、高い調査費を払うとは、依頼人は余程犬を大事にしているらしい。  お千代は此の依頼を快く請け負った。にも関わらず、先述の通り、俺と兎に丸投げした。俺は最初断った。犬を捜すのを嫌がったのではない。嫌なのは、勉強中の兎を無理に外へ引っ張り出すよう、お千代に命じられた事だ。 「早い内から兎に仕事をさせておくのも悪くない。勉強、勉強では息も詰まる。外の空気を吸えば気分転換にもなるし、良い機会じゃないか」  お千代はあんまり呑気過ぎる。渋々、二階の兎に事情を説明したが、矢張り厳然と反対された。気分転換など必要ない、丁度勉強が乗ってきたところなのに、邪魔するな、と、どうしても承知しない兎を、などめすかし、どうにか納得させた俺の苦労。  兎は、不承不承、参考書を閉じて、 「迷子犬捜索は聞き込みが主体になりますから、其れは先輩にお願いします。同行はしますけど、其れだけです。知恵は絞りますが……」  と、俄に口調を早め、 「あたしが支度している間に、飼い主さんに散歩の順路を聞き出しておいて下さい。其れから、散歩中、コマ君が暴れる事があったかどうかも。犬は縄張り意識が強い生き物ですから、普段の行動範囲に未だいる可能性が高いですし、首輪の留め金が緩んでいたのは、日頃から犬がリードを強く引っ張っていた証拠です。散歩の途上に、何か、気になるものでもあったのでしょう。先ずは其れを手掛かりに始めないと」  思えば、此の時、兎が早口になったのも、胸中から迫り上がる不安を押し留めようとする作用だったに相違ない。  一階に戻り、兎に言われた通り、飼い主に散歩の順路を訊いたトコロ、葛飾区柴又の七丁目辺りとの返事。飼い犬が暴れる場所の有無も訊けば、兎の言った通り、住宅地の決まった十字路でいつも非常に騒ぎ出すという事実が判明した。  一通りの情報を聞き終えると、依頼人には一旦御帰宅願った。が、なかなかどうして帰ろうとしない。犬が相当心配らしく、コマは困ってないかしら、可哀相に、きっと寒い思いをしている、と、独り言の様に呟き続けた。 「御心配は尤もです、しかし貴女が落ち込んでいては、コマ君が帰って来た時に元気付けてあげる人がいなくなってしまう。若しかしたら自分から戻ってくるやも知れませんし、今はお家で待っていてあげて下さい」  と、俺が説得し、依頼人にはようやく御帰宅頂いた。  見送りを済ますと、見計らったのか、依頼人と入れ違いに支度を終えた兎が二階から下りて来た。お千代は、兎の頭を帽子越しに撫でて、 「行ってらっしゃい」 「……行ってきます」  次いで、お千代は俺を見やり、 「頼んだよ。これも成就への一歩だ。待つ方も我慢しているのだから」  と、不思議な事を言った。待つ方とは、依頼人たる飼い主を指しているのだろうが、しかし成就とは?思い当たるところがない。俺は首を捻った。が、靴を履いた兎の赤瞳が急かす調子だったので、お千代に質問する暇もなく、俺達は外に出たのだった。  さて、其れから車で柴又七丁目へ向かい、強風に煽られながら、迷子犬コマが日頃通っている散歩道を二人でトボトボ辿ってみた。此の時にも兎の知恵には大いに助けられた。コマが騒ぎ出すという十字路にて、道行く人に聞き込みすると、近所にコマが懸想している雌犬がいるという証言を、アッサリ聞き出せたのだ。これこそ逃走理由だろう。  聞き込みは、約束通り、俺一人で行った。俺が十字路の真ん中で主婦を相手に聴取している間、兎は人目を憚って電柱の陰に隠れ、帽子のツバをひっしと離さなかった。顔を……厳密には白い髪と赤い瞳を……見せまいとして、却って目立っている兎の立ち姿。仕方がない。兎の美貌はどうしたって人目を引く。  家の塀に寄り掛かる様に、電柱の傍にポツンと立つ兎の、切な気な面差しに、俺の胸の内は切り刻まれる様だった。が、そんな哀しみは努めて表に出さないよう、俺は「寒い寒い」と自分の二の腕を擦り擦り、兎の許へ戻るのだった。 「冬が近付くと、東京は風が参るな」 「お疲れ様です」  俺が通りから隠す様に其の前に立てば、兎はやっと赤瞳を上げてくれた。 「聞き込みはどうでした?」 「此の近くに可愛い子がいるんだとさ。コマは彼女に逢いに行ったんだろうって。愛の逃避行だよ。兎の推理が当たったな。これなら直ぐ優秀な探偵になれる」 「先輩だって探偵じゃないですか。其れに、あたしは先ず、試験に受からないと」 「兎なら大丈夫だろ。俺だって受かったんだから」 「……先輩はどうやって試験に受かったんですか?」  兎が怪訝そうに訊く。当代随一の難関と誉れ高い探偵免許取得試験を、俺みたいな男がパスした事実は、誰より俺自身が信じられないのだから、無理もない。  俺は頬を掻いて、 「まぁ、俺の場合、お千代が勉強を見てくれたから」 「こんな先輩の勉強を見るなんて、お姉様も大分苦労されたんですね」  悪戯っぽく微笑む兎。年下の少女にこうも手酷くされては矜恃が傷付きそうなものだが、兎に悪気はなく、寧ろじゃれつく様なものなので、俺もつい笑ってしまう。 「確かにな。お千代には苦労掛けたと思う。けど」  ならばと、俺も少しじゃれついてみた。 「兎もお千代に苦労を掛けてるだろ?確か、お千代に『お姉様でなく、所長と呼ぶように』って、言い付けられてなかったか?」 「あ……」  兎は俺にやり返されたのに驚き、瞳を丸くしていた。こんな時、兎は少女らしく拗ねてみせる。 「……忘れてただけです。先輩に言われなくとも、所長の前では『所長』と呼びます」  意趣返しが済んだのと、兎の頬の膨れるのとで、俺の心は達成感に満ちた。拗ねた兎が足早に行ってしまう。俺は小走りに其の華奢な背を追い掛けた。  ……あの時はこれだけで済ませてしまったが、今一歩考えてみれば、兎は態とお千代を「お姉様」と呼んだのかも知れない。兎が娑婆に出てからそう時間が経っていないのだから、遊郭時分の名残を捨てるには些か時期尚早だろう。  兎は遊郭に未練があるのか、判らない。訊いた事もない。確認しても何の意味もない。  ……兎は、もう、彼処には戻れない……。  其処に考え至ると、見計らった様に、妄想の中に一匹の赤い金魚が泳ぎ出た。発光しているのか暗闇にもクッキリと浮き上がる真っ赤な金魚が、鱗をキラキラ動かし、悠々と虚空を泳ぐ。金魚もやがて姿形を転じ、赤い蝶に変わる。木の葉みたく頼りなく、ヒラヒラ、羽ばたく蝶々。闇に舞う金魚と蝶。俺が抱く漠然とした遊郭の印象が、美しい魚と虫の姿を借りている。  振袖姿の兎を思い出す。遊郭時代の、長い白髪を結い上げ、毅然と気高く、見方に因っては傲慢なくらい凛と佇む、夢の中の兎の面影。  金魚の真っ赤な尾鰭(おひれ)、或いは蝶の羽根……どちらとも付かぬ、儚く揺蕩(たゆた)う赤い薄膜が兎の着物の、ダラリと垂れる袖の、華やかな牡丹模様に触れた途端、全部霧散する。
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