不眠症

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 俺は再び寝返りを打った。  どうしたって脳は眠る積もりがないらしい。ならば俺も其の意気に乗り、脳が疲れ果てる迄根比べする気になっていた。  眠らない脳は、奇妙なくらい今日の出来事に固執した。まるで長い夢を見せる様に、昼間の光景が蘇る。  昼近く、風は一段と強くなった。街路樹の枝が北風にしなり、黄色くなった葉が一斉に舞い散る。手掛かりを失った俺と兎は、落ちたばかりの瑞々(みずみず)しい落葉を踏み締めつつ、町内をブラブラ歩いていた。  と言うのも、情報を基に、コマが惚れたという雌犬が飼われる家を訪ねたのだが、残念ながらコマは既に立ち去った後だった。雌犬の飼い主に因れば、今朝早く、キャンキャン吠えるコマを見付けたので「追っ払った」との事。悲恋である。  そんな訳から、アテのなくなった俺達は、追っ払われたコマを捜して、七丁目をウロウロ回っていた。 「其れで、勉強の方は順調?」  俺は早くも散歩の積もりで、隣を歩く兎に声を掛けた。 「一応……でも、覚悟はしてましたけど、難しい試験ですね」  兎は、瞳は伏せ勝ちながら、落葉の吹き溜まる道端を見詰め、熱心にコマを捜していた。 「其れに、所長の所為で、無駄な勉強もさせられましたし」  棘のある言葉。反抗期だろうか。 「無駄って事はないだろ。高卒認定試験、兎は一発で受かったんだし」 「あんなのに受かっても全然嬉しくありません。あたしは大学へ行く気なんてないんです。探偵免許を取ったら、直ぐ事務所の手伝いをしたかったのに」  兎があんまりキッパリ言うので、俺は思わず苦笑した。 「お千代は兎が心配なんだよ。其れに焦らなくて良いんだ。免許を取ったからって、直ぐ探偵の仕事をしないといけない、なんて決まりはないんだし、ゆっくり知見を広めてからの方が、何かと都合も良い。其の為に大学へ行くと思えば、そう悪くもないじゃないか」 「其れはそうですけど……でも」  あの時、兎は言葉を濁した。何か言いたそうに俺を見ていた。が、終に口にする事はなかった。結局、兎にはぐらかされた。理由は今も判らない。 「先輩には判りませんよ。受験と探偵免許の勉強を、同時にやる大変さなんて」 「想像も出来ないな」  考えるだけでゾッとする。俺は勉強が嫌いなのだ。 「本当に、先輩はよく探偵になれましたね」  兎が冗談めかす。冗談が言えるくらい回復したのか。俺は少し嬉しかった。 「まぁ、こんな俺でも受かるんだから、兎なら絶対に大丈夫さ……其れより、ほら、コマを見付けないと。其れとも、そろそろ休憩するか?彼処に団子屋があるけど」  道の先にお寺があるのか、見上げる様な山門が控えている。其の向かいに、参拝客を相手にしているらしい団子屋が、調理場の換気扇から、シュンシュンと、塊となった湯気を吹いていた。 「じゃあ、御馳走になります」  ちゃっかりしている。仕方なく、俺は懐から財布を取り出し、二人分の団子を買った。  むくりと、ベッドから身体を起こす。掛け布団を剥がし、立ち上がる。  暗く狭い廊下を歩く……パチン……キッチンの照明を点ける。暗闇に慣れた目にいきなり蛍光灯は眩しい。クラクラする。  俺は戸棚からコップを一つ取って、水道の蛇口を捻った。  シンクに流れ落ちる水を暫く眺め、徐にコップの口を蛇口の下に差し出す。透明なコップに水道水が注がれる。八割方溜まったところで、蛇口を閉め、一気にコップを呷った。  重たい身体に焦燥感が募る。眠れない。全く寝付ける気がしない。浅瀬どころか、眠りの波打ち際を延々歩いている気分だ。眠気は足を浸すだけ……早く全身どっぷり浸かって、睡眠の無重力にプカプカと浮かんでいたいのに……。  冷たい水道水を飲み下す。が、胸にある重たいものは嚥下されない。此の、何だか判らない重たいものこそ、眠りを妨げる正体。  パチン。キッチンの照明を消す。  さっきよりも濃い暗闇の中を敗残兵の様に横切って、再びベッドに潜り込む。目の前に広がる暗闇をじっと眺め、目蓋が落ちるのを待つ。外の事を思う。深夜の街は静まり返り、俺一人を残し、皆が眠り付いたかの様。そんな当たり前の事が物寂しい。世界にたった一人だけ、俺だけが取り残されている。  いつ迄待っても落ちない目蓋を、ギュッと、堅く閉じた。  水を得た身体は、一時冷えても、布団の中では変に熱を帯びた。思考にも熱が移り、心臓が痛む程の浅い呼吸を繰り返した末、足りないものは何か考えると、脳裏に女の姿が浮かんだ。  行燈の灯。四方を襖に囲まれた和室。金箔貼りの襖には極彩色の花々が描かれている。豪奢な一室に敷かれた紅色の蒲団。其の上に、真紅の振袖を着込んだお千代が横座りしている。が、兎は布団の上におらず、部屋の隅で正座し、更には此方に背を向けていた。これでは顔も見えない。  これは俺の意識の問題に相違ない。お千代も兎も吉原の出。しかし、俺はお千代の遊郭時代を知らない。代わりに、兎とは遊郭で出会った。だからか……奇妙ながらも……お千代には手を伸ばせても、兎には触れられない。見習いの儘吉原を出た兎の、純白を、俺が穢してはいけない。  ……布団の上のお千代が俺を見上げる。両の金瞳に絡め取られ、身体が固まる。兎もじっとしている。お千代が笑い、華奢な身体を大儀そうに持ち上げ、細い腕を白蛇の様にしならせ、俺の手を取る。兎は動かない。俺は卑怯にもお千代の手に引かれ、身を委ねる。兎は背を向けている。振り返らないで欲しい。其の綺麗な顔で、瞳で、狡い俺を見ないで欲しい……。 「あー……」  暗い部屋に俺の声が虚しく響く。我ながらどうしようもない。止めよう。是以上はお千代と兎に悪い。眠れないにしても、もっと別の、何か違う事を考えよう。  なんて、悔い改めようと試みても、一度浮かんだ妄想は容易に去ってくれず、しっかり焼き付き、結果、俺は吉原遊郭から離れられなかった。  都内一等地の日本堤に建つ高い塔……摩天楼の主人、高さ七百四十五メートルにもなるあの塔こそ、天下に名高い吉原遊郭の本体。そして俺が初めて兎と出会った場所。  彼処は単なる風俗店ではなかった。あれは立派な一国だった。色街とも呼ばれるが、あれは街の規模を超えていた。規則も文化も娑婆とは丸切り異なる、和装の女達が住まう、妖しくも華やかな色の国であった。  不貞防止法の見返りとして(くるわ)を復活させたというのが有力説だが、だとしたら政府はとんだものを拵えた。今ではどちらが見返りだか判ったものではない。順序としては先に制定された筈の不防法が、風営法の改定に因って生まれた遊郭に、宛も世の色欲全てをギュウギュウと封じ込めているが如しだ。  斯様に、世に点在する遊郭の中でも、吉原は別格。東京の空に高々突き出た楼閣……現代の喜見城……人々に花魁燈籠と渾名(あだな)されるあの塔こそ吉原遊郭。  俺は彼処で兎と出会った。  出会った時、兎は罪人だった。  ……罪人などと呼んでは、兎が不憫だろう。事実、兎の行いが罪だと俺は思っていない。吉原も、日本国も、同意見だ。が、誰より其の罪を信じる者、本人、即ち兎が、誰より兎を苦しめている。  報道もされず、終に世人の目に触れ得なかった、あの花魁燈籠の殺人について、じっくりと振り返るだけの精神的余裕が、いつか俺にも生まれるのかどうか、未だ判らない。が、兎は、まるで自傷するかの様に、あの事件を思い出しているらしかった。兎は時折、其の美しい顔を曇らせていた。  人は自分以外にはなれない。俺がどれだけ考え抜いても、兎の抱く罪悪感を本当に理解する事は出来ない。気休めは言えるが、其れも良くて一時の安定剤にしかならず、兎の傷を真実癒やすなんて不可能だ。  其れが歯痒い。  お千代の談では、兎は家事炊事の殆どを引き受けているとか。事務所に身請けして以来、お千代が遠慮するのも断り、毎日頑なに努めているらしい。探偵免許の件も含め、俺は此の話を微妙な心持ちで聞いた。これを罪滅ぼしと見るは早計。兎は、唯、自分の居場所を必死に作っているだけ。自分の存在を許して貰いたいのだ。遊郭を出たばかりの兎に娑婆は未知の世界、異邦人の不安は役目を与えられなければ晴れない。  ……役目も何も無い、兎は兎として、此処に居て良い。其の筈なのに……。  昼間、犬を捜す途中で入ったお寺、帝釈天での事。俺がコマの写真を頼りに聞き込みしている間、兎は人目を避け、広い境内の片隅、社務所の裏にひっそり置かれたベンチで待っていた。聞き込みは俺の役目。流石に毎日散歩しているだけあって、狐顔の柴犬を見知った通行人は多かった。が、有力な証言はなかなか得られなかった。コマは一体何処へ行ってしまったのだろう?  収穫のない調査に飽き飽きし、一旦休憩を挟もうと、兎の許へ戻る。が、兎の姿はベンチになかった。何処に行ったのか、周囲を見回せば、建物の陰に隠れ、相変わらず世間から隠れる様に北風に堪えながら、本堂の方を熱心に眺める兎を見付けた。何と無し、俺も其方を見やる。  と、賽銭箱に小銭を投げる女子高生二人の姿が目に入った。真剣な願い事があるらしく、二人は本尊に深々一礼。其れが済むと、厳粛な空気への反発か、互いに顔を見合わせ、照れた様に笑い出した。兎は其の一連をじっと眺めていた。  兎は遊女以外の女を知らずに生きてきた。物心付いた頃から遊郭で日を過ごし、吉原を出て日の浅い兎が、どんな想いで彼女達を見詰めていたか……物珍しいのか、羨ましいのか、呆然としているのか……。  俺は束の間声を掛けるべきかどうか悩んだ。結果、何も気付かぬ振りをして声を掛けた。 「駄目だなぁ。コマは有名なんだけど、全員、行方は知らないってさ」  軽口風にそう言ってから、初めて気付いた様な振りをして、 「本堂が気になるなら、参拝してくか?」  と、兎に訊いた。 「そうですね。折角ですし、御挨拶しましょう」  振り返った兎は平生(へいぜい)の澄まし顔だった。咄嗟に感情を隠す術は、長年の遊郭暮らしで体得したもの。其の術が又、兎の心を危うくしている。 「(つい)でにコマが見付かるようお願いしとくか」 「もう神頼みですか?其れに、参拝は日頃の感謝を告げるのが目的で、個人的なお願いをする場ではありませんよ」  俺達は建物の陰を出、本堂の手前に据えられた賽銭箱へ向かう。十円玉を投げ込み、手を合わせる……隣で拝む兎……俺はコマの発見でも、日頃の感謝でもなく、兎の憂いが一日も早く晴れるよう願った。  正午過ぎ、風は強まる一方で、其の名の通り木枯らしと化していた。吹き荒ぶ風は境内の木々を揺らし、ザァザァと、大雨の様に落葉を降らした。参拝客は上着の襟をかき合わせ、帆の様に膨らんだ裾に飛ばされぬよう、前のめりに歩き、御堂の木柱もしなって、瓦も震える様だった。耳の中で風は渦巻き、ゴオゴオと、鼓膜を塞ぐ。だからか、少し離れただけで兎が何を言っているか聞き取れなかった。兎は俺の背後を指差し、何か言っていた。「え?」と聞き直すも、「其処に……」としか聞こえず、俺は已むなく兎の指差す方へ振り返った。  と、其処に見覚えのある顔があった。  見上げる山門の手前に、老婆が一人、曲がった腰を更に屈め、足下にいる犬の首をくすぐっている。其の犬、狐顔の柴犬、赤と青の縞模様の首輪、間違いない、コマだ!  コマは、老婆の手を離れると、足先の白い、茶色の毛に覆われた四本足を動かし、山門の方へ歩いて行った。ピンと立った耳も強風に片方倒れ、其れでも尻尾を振りつつ境内を出て行くコマの後ろ姿を、呆然と見送りそうになるも、寸でのトコロで我に返り、俺は急ぎ追い掛けた。兎も静かに附いて来る。  こういった場合、焦っては仕損じる。何より走ってはいけない。徒競走で犬に追い着ける自信はない。警戒され、駆け出されたら勝ち目はない。此処は慎重に、ジリジリと近付く事こそ得策。  山門を抜けると、正面は昔ながらの土産物屋が並ぶ通り。其の店先を、コマは客の足下を縫う様に行く。平日昼間でも人入りはなかなか、人混みと呼ぶ程ではないが、相手は犬一匹、人足の林に(たちま)ち紛れてしまう。コマは呑気に歩いていても、此方は見失わないかヒヤヒヤしながら早足で追い掛けねばならない。間もなく、コマが小走りを始めたのだから遣り切れない。見付かった訳ではないだろうが、何にしても此処で見失っては面倒だ。俺達は通行人を掻き分け、土産通りを走った。  其の時、今日一番の強風が、一陣、背後から吹き付けた。 「きゃっ!」  悲鳴。振り返る。と、秋の空に白い糸束が舞い上がっていた。  天女が落としたと思しき艶やかな正絹(しょうけん)の糸束が、地面に垂直に下りる。其れは兎が咄嗟に屈んだ為だった。兎は、己の長く美しい白髪を手で覆い隠そうとして、懸命に頭を抱えた儘、しゃがみ込んでいた。  此の時の事は、今思い出しても冷や汗が出る……突然、身を屈めた兎に、通行人の注目が集まる。俺は呆然としながら、頭上に気配を感じ、其方へ目をやった。  キャスケット帽が空を飛んでいる。  あろう事か、最前の風が、兎のキャスケット帽を吹き飛ばしてしまった……あれは彼女の盾代わりだったのに……白髪は晒され、兎は無防備になってしまった。  俺は走り出した。全速力だった。コマの追跡などスッカリ忘れ、空中流れる帽子を捕らえるべく、俺は風下へとひた走った。  数メートル先、空気抵抗を受け、フワフワ浮かぶ帽子……眠れぬ頭がハッキリ映し出す……手を伸ばし切っても届かない距離……そんなキャスケット帽を、見事、空中で捕まえたのが、他ならぬコマであった。  コマはハッハッと息を荒げながら、全力疾走、直ぐ帽子の真下に着き、そして突然跳び上がり、空中の帽子を見事口で捕らえたのだ。多分、フリスビー遊びと勘違いしたのだろう。コマは帽子を咥えた儘、兎の許へ駆け寄って来た。  俺を含めた、呆気に取られる観衆をよそに、兎は頬の涙を拭うと、足下にじゃれつくコマの頭を優しく撫でていた。 「有り難う、有り難うね。うん、良い子、良い子」  兎は一頻りコマを褒めそやすと、泣きそうな笑顔で帽子を受け取った……世にも美しい光景(シーン)……周囲から拍手が出るのも自然な事。 「利口な犬だ。其れにお嬢さんも随分と綺麗で。これは映画か何かの撮影かい?」  群衆から漏れる声。此の感想は順当だ。兎は、其れくらい、映画映えのする美人なのだから。  第一印象からして美しい。白髪を薄布(ヴェール)の様に垂らした奥にある顔、細くも明瞭な線で以て、ブレもせず、一息に描かれた輪郭に縁取られた横顔は、気の強そうな鋭さの底に、可愛らしい、生粋の少女らしさを湛えている。そんな気丈と可憐とを強調するが如き、形の整った高い鼻と、小さな唇……脆く、守りたくなる様な顔立ち……其れから瞳、異彩を放つ大きくて赤い瞳……奥二重の、睫毛の長い、宝石の様な瞳。帽子の下に隠されていた兎の素顔は、斯くも輝かしく、そんな兎には笑顔こそ似合う。  と、不意に、脳裏にある声が過ぎった。あの音読、「満願」が―― 「これは、いまから、四年まえの話である。私が伊豆の三島の知り合いのうちの二階で一夏を暮し、ロマネスクという小説を書いていたころの話である」  ――やっと判った。四年まえ、三島、二階、一夏。冒頭に書かれた此の数え下ろしは、願いが叶う事の暗示だ。お千代も言っていたじゃないか。 「頼んだよ。これも成就への一歩だ。待つ方も我慢しているのだから」  満願成就。いつかは判らない。俺は本人ではないから、肩代わりも出来ない。が、全て杞憂だ。兎は一歩ずつ、キチンと向かっている。俺達は其れを信じて、兎がやって来るのを待つしかない。  大丈夫。もどかしいが、時間は掛かっても、兎ならきっと、自力で叶えられる。
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