不眠症

4/4
前へ
/73ページ
次へ
 朝、俺は寝過ごした。  遅刻厳禁。勤め人は辛い。朝食を摂る余裕もないのだから。俺は慌ただしく身支度を調え、忙しなく家を出た。  いつもの電車に乗っている間、欠伸が止まらなかった。頭が重い。白む太陽が目に痛い。吐き気も少しある。無理矢理に水面に引き上げられた深海魚の気分だ。こんな日に限って座席が空いていないのだから、ままならない。  いつもの駅で電車を降りる。改札を通る時、腕を上げるのも億劫だった。だから早く寝れば良かったものを。俺は普段通りの時間に床に入ったんだ。素直に眠っていれば、充分な睡眠量を賄える予定だったのに、思考がグダグダと長引いた所為で眠り足らないというのは、我ながら納得がいかない。  事務所への道をノロノロ歩く。  朝の住宅地は騒がしい。駅へ通ずる道、制服を着た学生が自転車で通り過ぎ、スーツ姿のサラリーマンとすれ違う。彼らは昨晩よく眠れたのか、スッキリした顔で駅へ向かっている。  軽く吸った空気に気管がヒヤリとする。冬の気配が近い。吐息もそろそろ白くなる。  俺は事務所の門扉を潜り、紅葉の下、玄関戸を開けて、仕事場へ入る。 「あっ」  途端、少女と鉢合わせた。重たい目を上げれば、来客用のソファに腰掛け、細長い腕に保湿クリームを塗り込む兎がいた。 「お早う御座います、先輩」 「……お早う」  ジャージにキャミソールと、簡単な部屋着だけの兎は、シャワー上がりか、首にタオルを巻いている。  俺はそんな兎をじっと見た。 「何でしょう。私に何か用でも……というより、先輩、隈が酷いですよ?寝不足ですか?」  赤い瞳を怪訝そうに細め、兎が首を傾げる。と、サラサラと、長く白い髪が肩から流れた。呑気なものだ。心配して損した気もする。俺は無性に八つ当たりしたくなった。 「そうだよ、寝不足だよ。誰の所為だ、誰の」 「え?あっ……ちょ、っと」  俺は不意を突き、兎からタオルを強奪。そうして奪ったタオルで以て、グシャグシャと、兎の髪を乱暴に拭いてやった。 「先輩、何ですかいきなり。止めて下さい。髪が傷んで……先輩!」  タオルの下で兎が騒ぐ。知った事か。これは八つ当たりなのだ。  しかし、一頻り兎の白髪を乱すと、満足するより先に虚しくなり、こうなると八つ当たりのし甲斐もなくなって、俺はタオルを手離し、ノロノロと其の場を立ち去った。背中越しに、「何なんですか、もう」と兎に叱られるが、其れに応える元気もない。こんな調子で今日一日を過ごさねばならないのかと思うと、憂鬱で仕方がなかった。  自分の机に着く。所長机では、コマの飼い主から届いた礼状の陰で、お千代がクスクス笑っているみたいだが、多分、気の所為だろう。
/73ページ

最初のコメントを投稿しよう!

45人が本棚に入れています
本棚に追加