透明な依頼 壱

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透明な依頼 壱

 最初の一文字、肝心の出出しを模索する。が、考えれば考える程、思考の迷路は自己増殖を繰り返し、出口霞む迷宮の入口にて、ペン先は愕然と立ち止まった。  穏やかな日の光が庭の木々の紅葉を透かし、背中に当たって暖かい午前。陽光は家具や調度の木目を鮮やかに照らす。平和な事務所の中で俺は頭を抱えた儘、大判のポスターを眼下に、ボールペンを握り締めていた。  仕事机に置かれたポスターは此の事務所を宣伝する為のもの。近頃増え始めた依頼を更に増やす目的で作った、今朝方刷り上がったばかりの見本品だ。俺は先程から……一時間前から……此のポスターに添える宣伝文句(キャッチコピー)を考えていた。  頭を抱え、語彙を駆使した画期的な売り文句を考えてみるも、物書きに関して全くの素人である俺には大分荷が重い。そも、文章力ならば、所長の方が圧倒的にある筈だのに、あの無茶苦茶な所長……お千代(ちよ)……は、俺が抗議すると、微笑と共に決まってこんな風に身を躱す―― 「単純さは尊い。が、芸術に於ける単純さと云ふものは、複雑さの極まつた単純さなのだ――これは彼の文豪、芥川龍之介が随筆『芸術その他』の引用だが、これに習えば、私は少し複雑というか、煩雑に物事を考え過ぎてしまうきらいがあるものだから、こういった事には不向きなんだ。其れに、私は君の書く文章が好きなんだよ。君に自覚はない様だが、君の前職の影響が色濃く出た、古風な、と言う寄り、古風を模した様な、『退行』と呼ばれる現代に全く相応しい君の文章が、ね。まぁ、頑張ってくれ給え」  此の発言が賞賛の産物でない事を、俺は重々承知している。「君は単純だから逆に向いている」という詭弁にまんまと(だま)され、面倒事を引き受けた恰好だ。そもそも、俺の文体が時代掛かっているのは、お千代の所為(せい)ではないか。「報告書と(いえど)も文学的に」なんて無茶な規則があり、しかも所長の好む文学がかなり限定的である事も手伝って、文才のない俺は人一倍苦労し、毎回四苦八苦しながら仕上げた報告書には駄目出しを喰らい、又書き直しと、所長の気に入る迄これを繰り返している内に、変な文章の癖が手に沁み着いてしまった、という始末……其れに、前職を持ち出すなら、俺より所長の方が、余程古式床しいではないか……と、胸中で愚痴を吐きつつ、其れでも一度引き受けた仕事、今更断れる筈もなく、嫌々ながら頭を抱えるハメと(あい)なった。  ……世紀の名探偵……。  ……どんな難事件も必ず解決……。  ……謎という錠前に対する、唯一の鍵……。  陳腐な文句を書いては消し、書いては消し、溜息を吐く。探偵稼業の売りといえば矢張り手腕が第一、依頼人はいち早く()つ正確に問題を解決して貰いたがっているのだから、当然、より優秀な探偵を抱えた事務所の門戸を叩く。  其の点に()いて、我が所長程の適任はいない。お千代は探偵の天才だ。贔屓目や宣伝ばかりでこんな事を言うのではない。俺は実際にお千代の実力を何度も目の当たりにしてきた。最近では世間も其の功績に注目し始めている。間違いなく、彼女は当代一の探偵だ。  何しろお千代は過去に……。  ……そう、彼女一流の探偵的技能は、前職の技能を応用している部分が大きい。無論、あの人並み外れた頭脳は生まれ持った才能だろうが、其の頭脳に収められた多岐に渡る知見や、人心を見透かす観察眼は、彼女が前職勤務中に研鑽を積んだ賜物に相違ない。  何よりあの美貌……あれこそ最大の才能……。  ボールペンを机の上に放り投げ、座った儘背伸び、天井を仰ぐ。頭上ではシーリングファンが、クルクル、呑気に回っている。俺は凝り固まった頭を解す為、ぼぅっと、回るシーリングファンの羽を見るでもなく眺めた。  レトロ風の調度品ばかり揃う室内に降り注ぐ、白く透き通った朝の日光。東京の真ん中に構えた此の事務所は、高級住宅街の直中(ただなか)という事もあり、午前中はいつも閑静だ。陽光と静寂に包まれれば、眠気に負けた目蓋が落ちてくる。  ……眠ったトコロで仕事が終わらない事は知っている。小さな妖精が俺の代わりにキャッチコピーを考えてくれる訳でなし、俺は目を開けて再びポスターを見下ろした。  ポスターには一枚の写真が印刷されてある。其処に写った豪華な屋敷、木立の緑の中に佇む建物は、一階全て赤煉瓦で組み上がり、二階は白漆喰の壁に、柱や梁の木が浮き出た外観、其れらの上に三角屋根が乗っている、田舎貴族の別荘みたいな建築物。これは分類すればハーフティンバー様式と呼ばれる事を、以前何かの拍子に知った。  が、此の写真の建物こそ、今現在、自分のいる場所だと思うと、少々違和感がある。写真だからか、其れともポスターだからか……ポスターの上半分には「蓼喰(たでくい)探偵事務所」と大きな文字が印刷され、下の方には住所と電話番号もある。が、矢張り現実味は薄い。自分の仕事場を客観視すると、途端に他人事の様に感じてしまう。  ……気付けば、集中の糸はふっつり切れていた。思考と視線が勝手に泳ぐ。隣の机、スッキリ片付いた机上には、硝子のスタンド洋燈と大判の本だけが残されている。進まない仕事から逃げようと、本を手に取り、最初の数(ページ)を捲ってみる。「実践合格!探偵免許」という表題(タイトル)の赤い問題集。(うさぎ)ちゃんの物だろう。頑張って勉強しているのか。俺も昔、死に物狂いで試験勉強したものだ。  懐かしさから、載っている問題を幾つか解いてみようと試みる。が、所々怪しい。不勉強が祟り、記憶は風化して真っ平らになったらしい。焦った俺は、表面は平然と、後ろの方に纏められた解答を参照した。 【不貞防止法の歴史】  旧刑法第三十六号(① イ )には「(② エ )の婦姦通したる者は(③ ウ )に處す。其の相姦する者亦同し」とある。これは重大な男女差別であり、憲法に記された男女平等の精神に反するとして、法律の改正が求められた。これにより施行されたのが不貞防止法である。  不貞防止法は、従来の妻のみを罰する(①)とは異なり、不貞を働いた場合は夫妻の区別なく(④ ア )に処されるという点で革新的であった。又、婚姻後の不貞を予防する観点から、婚姻前の浮気に対しても明記がある。恋愛関係を証明する恋姻届を役所に提出した男女は、一方の不貞行為が発覚した場合、(⑤ オ )を起こす事が出来る。  ア 五年以下一月以上の禁錮  イ 姦通罪  ウ 六月以上二年以下の重禁錮  エ 有夫  オ 民事訴訟 「もう一回試験を受けるのかい?君はもう探偵だろうに」  不意に傍から艶やかな声がし、俺は問題集からやおら顔を上げる。  と、其処に妖精がいた。  白昼夢、いつの間にうたた寝したのか……。 「調子はどうだい?」  彼女が訊く。小柄で、絹と見紛う髪を持つ女。しかも異色な事に、髪は銀色、キラキラと秋の日の中で輝くのだ。 「お千代」  俺が名を呼べば、お千代は微笑み、又其の笑みが俺の心を一層掴んだ。  お千代は銀髪をサラサラとなびかせつつ一寸(ちょっと)困った様に笑った。狡い笑顔だ。 「どうやら、調子は良くなさそうだね」  お千代は机に置かれたポスターを覗き込むと、キャッチコピーが空白なのを見、長い髪を耳に掛けた。完璧な造形の横顔に金色の瞳を添えて。  生来の銀髪と(きん)(がん)。浮世離れしたお千代の色合いは、しかし、造り物めいた美貌とよく調和し、不可思議な均衡を保っている。お千代はかなり小柄で身体付きも華奢なものだから、ともすれば少女にも見えるが、持ち前の大きな瞳や、言葉遣い、所作から滲む余裕は賢人の雰囲気を醸している。数年来の付き合いである俺でも時折化かされている気分になるのだから、取り分け初対面の相手はお千代の容姿に驚く。現に、新規顧客の中には、彼女を一目見るなり、物の怪か妖怪変化の類では?と訝んでくる者も屡々(しばしば)だ。銀狐が化けた姿と思うらしい。これだけ科学の進んだ世界に妖狐とは、時代錯誤、普段なら一考にも値しない。が、当の俺も、お千代はまるで幻想世界の妖精か、耽美主義者の作った人形とも付かぬ、生ける芸術と考えているから、そも、現実がどうこうと議論するだけ無意味(ナンセンス)かも知れない。 「いや、俺も必死に考えているんだけど、どうにも初めての事で、勝手が掴めなくて」  お千代の姿を観賞しつつ、俺は何とか其れだけ応えた。  今日のお千代は黒のロングジャケットを羽織っている。ジャケットは仕立て良く、小柄な身体を柔らかく包み込んでいる。又、其の下には白いフリルのキャミソールを着、キャミソールの襟元にはリボンが垂れていた。下半身には黒いショートパンツ……恐らくジャケットと揃いの物……を履いている。殊に、胸元で花弁みたく結ばれた白フリルのリボンが少女然と、夢の様な銀髪や、キレ長の金瞳、真っ白い肌と調和する。 「ふむ。どうも難しく考え過ぎている様だね」  お千代は上半身を起こして、 「複雑に考える必要はない。君が思った儘、事務所の其の儘を書けば良い。肩の力を抜いて、自然体で。さっきも言った通り、単純な方が良いからね」 「単純ねぇ……」  俺はポスターに視線を戻した。今、単純に心に浮かんだ言葉を書けば、「依頼は美女探偵、お千代にお任せを」とかそんな風になるが、其れでも良いのだろうか?  俺は首を横に振って、 「難しいな。何を書けば良いのやら……やっぱり、こういう仕事は俺より適任者がいると思うんだ。お千代とか、兎ちゃんとか」  そう言えば、今日は未だ彼女の姿を見ていない。ふと其の事に気が付き、職場を見回せば、コホンと、お千代が咳払いした。 「兎なら二階で勉強している。だからあの子の手は借りられない。其れに、君、確か本人から『兎ちゃん』は止めてくれと、そう言われてなかったかい?」 「あぁ……まぁ、そうなんだけど」  頬を掻く。確かに、当人から「ちゃん」付けで呼ぶのは止めて欲しいと厳しく頼まれている。が、未だ呼び慣れておらず、咄嗟の時などは「兎ちゃん」と口にしてしまう。  しかし、そうか、兎は勉強しているのか。ならば邪魔するのは忍びない。ではお千代はと言えば、俺に面倒事を丸投げした張本人、仕事を代わってくれるなど望むべくもない。  俺は小さく溜息を吐いた。 「ふむ、行き詰まっているみたいだね」  そんな俺を見、お千代は顎に手をやって、意味あり気に頷いた。こんな時、俺は必ず嫌な予感に襲われる。お千代が笑顔で考え事に耽る時程、怖ろしいものはない。 「成程。なら朗報だ」  ほら来た。これで朗報だった(ためし)がない。俺は自分の口許が引きつるのを感じた。 「朗報か。其れは是非、聞かせて貰いたいな」 「うんうん。君ならば、きっとそう言ってくれると思った。君も行き詰まっている様子だし、息抜きがてら、少し別の仕事をやって貰おうと思ってね」  お千代は美しい笑顔の儘、悪怯れもしない。  ……心許してしまう俺も俺だが……。 「実は先程、珍しい人物から電話があってね。誰だと思う?何とね」 「うん」 「椿山(つばきやま)だよ!あの椿山朔太郎(さくたろう)!我が事務所も其れだけ有名になったという事だ」 「椿山……誰?」  俺が訊く。と、子供の様にはしゃいでいたのが一転、お千代は肩を落とした。 「椿山朔太郎を知らない……?」 「うん、全く」 「いけないね。君は不勉強でいけない。あんな文章を書くくせに、美術書の一冊、どころか本の一冊も開かないのだから」  酷く失望されている。お千代は嘆息するも、直ぐ気を取り直して、 「では、知らない君の為、簡単に説明しよう。椿山朔太郎というのは有名な画家の名だ。彼の油絵は国の内外を問わず人気がある。時には一枚数億円の値が付く物もあるくらいだ。来歴は省くけれど、画壇では高名な男でね。で、そんな彼からついさっき、ウチに電話があった」 「へぇ……」  俺は曖昧に頷いた。まるで遠い国の話。特に「一枚数億円の値が付く」と聞いた辺りで、俺の知る世界から遙か彼方へ話題は遠退いてしまった。  お千代が説明を続ける。 「其の依頼内容が少々面倒でね。今朝早く、彼の奥さんが自殺したそうなんだが、どうにもこれには裏があると、椿山本人は疑っているらしい。奥さんは元女優だからね。谷崎潤一郎原作の映画なんかによく出ていた、特に悪女役が見事な良い女優だったんだが……其れで、自殺の裏側を是非私達に調査して貰いたいんだとか」 「元女優……」  著名な画家の妻である元女優が自殺……本当に遠い、日常とかけ離れた世界の事件、現実離れした話題に俺が追い着く前に、妖精めいたお千代は既にやる気になって、 「依頼の詳細は彼の自宅で聞く事になっている。つまり事件現場でね」  と、出掛けの支度を始めていた。つまり、俺も調査に同伴しろという事か。  俺は椅子を立ち、仕事机から離れ、 「其れで」  と、お千代に声を掛けた。 「椿山さんの家には車で?」  姿見鏡の前に立つお千代は「うむ」と頷き、車のキーを此方へ投げ寄越した。 「彼の家は都内にある。運転は任せた」 「了解」  俺はキーを受け取り、出掛けの支度に取り掛かった。  と言っても、そう持って行く物もない。財布と、携帯と、探偵免許証くらいなものだ。  お千代は身嗜みを調えると、仕事場を横切り玄関を目指した。俺も後に附いて行く。廊下の途中、階段下に差し掛かった時、お千代は二階へ向けて、 「兎、私達は少し出掛けてくるから、留守番を頼むよ」  と声を掛けた。すると、少女の声で、 「はーい、いってらっしゃい」  と返ってくる。  そうして、俺とお千代は玄関を出た。  お千代は真っ直ぐ駐車場へ歩いて行く。カツカツと、石畳のスロープにヒールの音が鳴る。お千代の靴は黒に染めたスウェードのショートブーツ。  俺は玄関戸を閉めつつ、事務所を仰ぎ見た。ハーフティンバー様式の建物は、ポスターに印刷された姿と寸分違わない。強いて違う点を挙げれば、木々が秋色に染まっている事くらいだ。  玄関の鍵を閉め、俺も駐車場へ向かう。駐車場には車が一台だけ停まっている。真っ赤なアンティークカーは、いつ見てもテントウムシに似ている。  此の車も、事務所も、全てお千代の所有物だ。  お千代は既に車の助手席に収まっている。俺も運転席に滑り込み、次いでエンジンを掛けた。 「ラジオでも聞くか?」 「そうだね」  カーラジオを点け、車を発進させる。ラジオは丁度、コーナーが変わったところらしい。 「専門家の皆様には『不防法という現代の禁酒法』について議論して頂きました。皆様、有り難う御座いました。ではお天気です。本日は全国的に快晴、関東地方の空には秋晴れが広がるでしょう。気持ちの好い天気ですね。其れでは皆様、本日十一月六日火曜日も、どうぞお元気で」  門扉を抜け、赤色テントウムシは事務所の敷地外、公道に出た。
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