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寒椿
「それで… おまえ、その教科書どうした」
問われて、穂高ははたと口を閉じ、キッチンの水栓を止める。
結局、ハサミ使用法の特訓を受けた段まで語り終えた穂高は、長い首を傾げた。ほろほろと続けた昔語りはだいぶん長く、その単語に巻き戻るまで時間がかかった。意外、と言われることも多いが、穂高はけっこうなしゃべりである。このあたりは栽培地より産地の影響によるものだろう。
「教科書って、世界史の?」
「そう、MFの小林の」
さて、どうしただろうか、と。穂高は皿洗いの手を止めたまま、記憶を反芻する。辞書ならともかく、教科書を職場の寮に持ち込んだ覚えはない。
「たぶん… ここやろな。段ボールに入れたまんまや」
高校の寮からこの家に送った荷物はその後、ほとんど触った記憶がない。物置か納戸にあるのではないだろうか。そんなことを応えると、
「中は見たか?」
と妙に鋭い声が続いて、顔を上げれば、ノンフレームの眼鏡の向こうに怜悧な瞳があった。あれ、と思いながら穂高は再び首を捻る。
「ざっと見たけど… ほぼ新品で。ほんまに拓真、一度も開いてなかったと違うかなあ」
折り目さえほとんどついてなかった、確か。
「あいつ、マジで勉強せえへんかったんかな?」
のんびりとした口調で続けた穂高に、しかし彼は何も言わなかった。そのままマグカップのコーヒーを啜る。
オフシーズンの休日、一年でそうはない貴重な日だというのに、たいへん不穏であった。
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