寒椿

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 あ、そうだ、腰が痛くなる前に、  と穂高はそのまま軽くストレッチをする。リノベーション済とは云え、やはりこのキッチン台は、長身の穂高には低かった。  窓の外を見れば、生垣の寒椿が冬の陽に映えている。  匂い立つような紅色が美しかった。  それから視界を手前に戻せば、ダイニングテーブルの上にはA4に打ち出した英文が何枚か散らかっていた。ノートPCも開いてあるが、彼は打ち出しの方をチェックしてはなにやら書き込んでいる。  なんとかというジャーナルへの寄稿だそうだが、曰く、校正は紙に印刷してやらないとどうしても見落とす、とのことだ。  野球選手というのは、24時間365日野球選手である生きものだが、研究者というのも24時間365日研究者である生きものだ、というのは彼に学んだ。  というか実感した。土日平日関係なく、盆や正月さえもカレンダの記号で、通常の彼は毎日研究室に顔を出し、なんやかやしている。  実験や測定が立て込むと二、三日帰宅しないこともあるし、日本各地や海外に観測や学会で数週間出掛けることも多い。更には隙あらば論文や文献をあたり、原稿や論文を書き、研究のことを考えている。それが基本だ。  つまり、同じ穴の狢だ。  いや、十把一絡げに扱うのが申し訳ないところではある。  彼はとにかく、本物の、ハイエンドのインテリだ。  一昨年、順調に某旧帝大の博士課程を修了したが、大学の教員等のポストに空きがなく、”かけんひ”というのを取得して大学で研究を続けている、そうだ。詳しい事は穂高にはまったく解らない。母校は元より、他大学の講義もいくらか担当して何とか食いつないでいる、とは本人談だ。せっかくの頭脳が充分活かされていない気がするのだが、この頃ではそんな状況のオーバードクタが多いという。大丈夫か、日本の高等教育。  ちなみに卒論のタイトルも、修論のタイトルも、D論の概要も聞いたはずだが、残念ながら穂高の守備範囲とは球場違いだった。  ともあれ、彼の話は面白いし、教え方も上手い。更にはその容姿も相まって、某女子大では無関係の学生も聴講に来るとかで、応用物理学だというのに大講義室が満員御礼になるという噂を聞いた。  そう、容姿といえば、彼はイケメンという単語が浮つくくらい端正な顔立ちをしていた。  身長こそ穂高より少し低いが(それでも日本人男性の平均+αだ)、手足は長い。職業柄、いわゆる芸能人を見る機会も多い穂高だが、それでも初めて逢ったときは綺麗な人だなと思った記憶がある。カメラマンではなくモデルかと思ったくらいだ。 (ちなみに、実際はカメラマンでもなく写真部の大学生だった。)  おかげで彼と一緒に居ると、たいてい穂高の方が『ツレ』扱いである。  穂高自身は人間の外見にこだわる方ではない、というよりほぼ無関心であったし、立場的にもむしろ好都合だったが、彼はそれを嫌がった。難儀なことである。
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