寒椿

4/4
前へ
/20ページ
次へ
 はて、そもそも何の話題だったか?  穂高はようよう皿洗いの続きに取りかかる。確か、ちょうど天王山の高校サッカーの話題から、最後の冬に国立に辿り着いた同窓の小林拓真の話になり、圭一郎の話になって、左利きのハサミについて話した。教科書のことなど、本人でさえきれいさっぱり忘れていたのに。 「本体は落書きの方か?」  ほとんど囁くように、彼はそう呟いた。視線を向ければ薄い刃物のような顔が見える。  これはこれは、ずいぶんと。  いったい何が起こったのか?  彼と知り合って、インテリというのは「考える」コトを厭わないことを知った。記憶力が良いとか、頭の回転が速いとか、物知りだとか、それももちろんなのだろうが、とにかく彼らはまず考える。思考する事自体がほぼ反射というか、生理現象なのだろう。職場にも頭の良い同僚はたくさんいるが(聖さんとかケントとか)、そもそも、なんというかベースラインが違うというか。  とにかくむやみにハイスペックなCPUは、穂高の話からいったいどんな解を導いたのか。語った当人にはさっぱり見当もつかない。そして彼は不機嫌な貌のまま、髪をかき上げた。 「そのMFの小林、いまどうしてる?」 「え… たしか、大学で選手は引退して、卒業後はどっかのチームのスタッフになったって…」  更に問われて、穂高は記憶を呼び起こしながら応える。誰かの結婚式のとき逢ったきりだ、と続けると、ふうん、とさして興味のなさそうな相槌が返ってきた。 「まあ、無類の不器用が、ちゃんとネクタイが結べて、正確にハサミが使える理由が分かって良かったか」 「…なんや」  事実とは云え、あまりの言われ様に抗弁しようとしたところ、彼は飲み終えたマグカップを手に立ち上がった。そしてキッチンカウンタに置くのではなく、そのままシンクに回ってきた。  マグを受け取って洗おうとしたところで、背後から彼の気配が消えないことに気付く。微かに体温を感じるぐらいの、ほとんど触れそうで、触れない、半歩分の距離。  ちりちりと、項に彼の熱を感じながら、穂高はゆっくり、ゆっくりとマグカップを洗った。  ふっ、と空気が動いて、彼の手が穂高の腰を抱えるように伸びる。首筋に彼の唇が触れるのが解る。  穂高はくっと息を詰めた。  マグを取り落とさないようにしながら、洗剤を洗い流す。  水の音だけが響く。  このまま、振り返らずに居られる勇気が穂高にはなかった。  マグカップを水切りカゴに伏せる。ゴム手袋を外す。  そっと、身じろぎをするように振り向けば、そのままキスを強奪された。  彼の唇は朱くて、柔らかくて、甘い。幾度も重ねながら深くなっていく口づけに、籠もった声が漏れた。 「ん…」  息を継ごうと少し顎を上げると、彼は穂高の唇の端、小さなホクロを舐めた。  身体が震える。 「寒椿、が」 「うん?」  咲いてる、と彼の耳朶に声に出さずに囁けば、彼は顔を上げ、窓の方を見た。 「…嗚呼、綺麗だな。佳い色だ」  あの赤は雪に映える、と。  そう言って彼は穂高を柔らかく抱きしめたまま少し、黙った。  未だに高鳴る鼓動は如何ともしがたく、瞼の裏に閃く花弁の紅色と、葉の深緑と、それを包む雪の白さと。 「出掛けるか」 「は?」  雪を見に行こう、と。  そう言って彼はするりと身を離す。またも突然の展開に、穂高は呆然とするほかない。 「いまからなら、福井か、岐阜か。何処がいい?」 「え、ええっ?」 「急がないと暗くなるぞ」  さて、休日を味わおうではないか、と。  彼はゆったりと美しく笑った。
/20ページ

最初のコメントを投稿しよう!

41人が本棚に入れています
本棚に追加