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はて、そもそも何の話題だったか?
穂高はようよう皿洗いの続きに取りかかる。確か、ちょうど天王山の高校サッカーの話題から、最後の冬に国立に辿り着いた同窓の小林拓真の話になり、圭一郎の話になって、左利きのハサミについて話した。教科書のことなど、本人でさえきれいさっぱり忘れていたのに。
「本体は落書きの方か?」
ほとんど囁くように、彼はそう呟いた。視線を向ければ薄い刃物のような顔が見える。
これはこれは、ずいぶんと。
いったい何が起こったのか?
彼と知り合って、インテリというのは「考える」コトを厭わないことを知った。記憶力が良いとか、頭の回転が速いとか、物知りだとか、それももちろんなのだろうが、とにかく彼らはまず考える。思考する事自体がほぼ反射というか、生理現象なのだろう。職場にも頭の良い同僚はたくさんいるが(聖さんとかケントとか)、そもそも、なんというかベースラインが違うというか。
とにかくむやみにハイスペックなCPUは、穂高の話からいったいどんな解を導いたのか。語った当人にはさっぱり見当もつかない。そして彼は不機嫌な貌のまま、髪をかき上げた。
「そのMFの小林、いまどうしてる?」
「え… たしか、大学で選手は引退して、卒業後はどっかのチームのスタッフになったって…」
更に問われて、穂高は記憶を呼び起こしながら応える。誰かの結婚式のとき逢ったきりだ、と続けると、ふうん、とさして興味のなさそうな相槌が返ってきた。
「まあ、無類の不器用が、ちゃんとネクタイが結べて、正確にハサミが使える理由が分かって良かったか」
「…なんや」
事実とは云え、あまりの言われ様に抗弁しようとしたところ、彼は飲み終えたマグカップを手に立ち上がった。そしてキッチンカウンタに置くのではなく、そのままシンクに回ってきた。
マグを受け取って洗おうとしたところで、背後から彼の気配が消えないことに気付く。微かに体温を感じるぐらいの、ほとんど触れそうで、触れない、半歩分の距離。
ちりちりと、項に彼の熱を感じながら、穂高はゆっくり、ゆっくりとマグカップを洗った。
ふっ、と空気が動いて、彼の手が穂高の腰を抱えるように伸びる。首筋に彼の唇が触れるのが解る。
穂高はくっと息を詰めた。
マグを取り落とさないようにしながら、洗剤を洗い流す。
水の音だけが響く。
このまま、振り返らずに居られる勇気が穂高にはなかった。
マグカップを水切りカゴに伏せる。ゴム手袋を外す。
そっと、身じろぎをするように振り向けば、そのままキスを強奪された。
彼の唇は朱くて、柔らかくて、甘い。幾度も重ねながら深くなっていく口づけに、籠もった声が漏れた。
「ん…」
息を継ごうと少し顎を上げると、彼は穂高の唇の端、小さなホクロを舐めた。
身体が震える。
「寒椿、が」
「うん?」
咲いてる、と彼の耳朶に声に出さずに囁けば、彼は顔を上げ、窓の方を見た。
「…嗚呼、綺麗だな。佳い色だ」
あの赤は雪に映える、と。
そう言って彼は穂高を柔らかく抱きしめたまま少し、黙った。
未だに高鳴る鼓動は如何ともしがたく、瞼の裏に閃く花弁の紅色と、葉の深緑と、それを包む雪の白さと。
「出掛けるか」
「は?」
雪を見に行こう、と。
そう言って彼はするりと身を離す。またも突然の展開に、穂高は呆然とするほかない。
「いまからなら、福井か、岐阜か。何処がいい?」
「え、ええっ?」
「急がないと暗くなるぞ」
さて、休日を味わおうではないか、と。
彼はゆったりと美しく笑った。
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