闇鴉-学びの章-丑三つ刻の訪問者-10/10

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闇鴉-学びの章-丑三つ刻の訪問者-10/10

 「これはまた横道にそれるではないか、困ったものよのう。まぁ、よい、鉄は熱い内に打てと申すからな。しかし、こう横道に逸れては整理できておるのか、それが気がかりじゃて」  「それが自分でも不思議なのですが、話を順追って整理する自分と、その際に疑問に感じたことを処理しようとする自分と、全体像を見ている自分がいるのです」  「ほう、そうか。もう、そこまで出来ておるのか」  「法師の経験を共有させて頂くことで、身に付いたものと思われます」  「うん、それは良い兆候じゃ」  「法師に尋ねたいことが今ひとつ」  「何なりと聞き届ける、遠慮はいらぬわ」  「では、法師の言語は砕けた言い方で分かりやすい。師と仰ぐ者が使う言葉としては稚拙と言うか…、あっ、これはご無礼なことを」  「よいよい。それで良いのじゃ。私がそなたと同じ頃、師は小難しい言葉を連射されておった。共有していたゆえ、理解は出来ておったが、その言葉の理解度に疑問を感じたのじゃよ」  「どのような疑問ですか」  「文字に起こせば同じでも、言葉にすれば意味が変わるのじゃよ。例えば、秋茄子嫁に食わすな、と言う諺がある。これを聞いてどう感じた」  「言葉の通り、秋茄子を嫁に食わせない、即ち、与えないと言うことかと」  「で、あろう。意地悪な姑が居て、嫁を仲間はずれにすると言うことかな」  「よくある姑との諍いを言い表したものかと」  「だから、私は稚拙と言われようが誤解を招きにく言語を用いることにしておる。これは憑依した者が優秀な者であれば良いが、これがなかなかどうして立派な侍でも怪しいことが少なくない。それは、言語をそのまま受け取って、なぜ?を考えない者が多すぎるからじゃよ。こんな諺もある。牛を連れての善光寺参り。お参りをしたつもりが、実はそこは入口に過ぎず、本殿はずーと上にあった。見た目の豪華さ、華やかさに魅入られて、本筋を見失うとの例えじゃよ。では、秋茄子嫁に食わすなの本意は如何に。秋茄子はこの上もなく旨いもの。それを嫁に食わせばあまりの旨さに魅了されて、働き者の嫁も働くことを忘れるほどだと言う意味でな、それほどに秋茄子が旨いとの例えじゃよ。更に食べ合わせで、鰻と梅干があり、一緒に食らうと腹を痛めると言うのがある。これもまた事実ではなく、折角、旨い鰻を食しても、酸っぱい梅干を食べればその旨さも遠ざかるという例えで、梅干も鰻も単独で食するのが一番だと教えているものじゃよ。古のお人は、皆、滑稽な言い方で面白可笑しく教訓を学ばしてくれているものよ。字面通りに受け取っては大怪我、誤解のもとよ。要は経験値の違いが伝達する方法である言葉の意味を変えてしまうこともあるということなのじゃよ」  「言われる迄、そのようなこと、気にも留ませんでした」  「折角の情報も伝え方であらぬ方向を向くものと留めておくがよいわ」  「そう致します」  「うん、どう致すと言うのかな」  「それは、鵜呑みにせずに考えると言うこと」  「そなた、いちいちこの言葉がどういう意味か、ああだこうだとその都度、考えると言うのか。それでは、会話にもその内容も成り立つまいて」  「確かに。ならば、どう致せば良いのでしょうか」  「それを考えるのがそなたの役目、と突き放すのがやり方なれど、今回は手引きしてやろうかのう、吸収著しい折に意地悪をせず、一気に成長を促すのが今は得策だと信じて」  「是非とも」  「要は言葉の真意は字面ではなく、語り部の性格、癖を読み解くことよ。この分類も大胆に行えばいい。直接的か、間接的かを見極めれば、その本意が裏側なのか表にあるかが分かるものよ。曲者か実直な者か。更に付け加えれば、その時の状況じゃな。本当のことを言いづらい環境か否か。それによって、裏言葉か否かを見極められるでな」  「私の記憶、法師が与えてくださった生前の記憶にある出来事がまさにそれですね。周りが見えず思い込みで失態を…。良い経験でした」  「物事を考えるにあたって大事なのは、性質、本質を見極めること。感情や思い込みを捨てること、要は客観的に物事を見極める冷静さよ」  「肝に銘じておきます」
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