闇鴉-学びの章-丑三つ刻の訪問者-10/24

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闇鴉-学びの章-丑三つ刻の訪問者-10/24

 「余談ついでにこの話はどうかな?」  「どのような話でしょう?」  「これから問うのは、異議申し立てや反感などの負の要素は一切ないことを念頭に、よいな」  「はい」  「丁度、イエスキリストのことよ。そなたは不思議に思わんか?何故、彼が多くの民の共感を得て、己の考えに導けたかを。私は至極興味を持った。彼を知ればどのように致せば、人心掌握を出来るのか、緒があるのではと、な」  「人々の癒えた心を癒す言葉や行い、考えを数多く、残されていると考えますが」  「いや、教えに関しては何ら異論もないのじゃよ。考え方に国境などあってはならない、基本となるものはひつようじゃからな。ただ、残念ながらそれを世に広める者の在り方が新たな問題の引き金になっているのも事実。先程も言ったように解釈の違いを招きやすい言葉は慎重に使い、必要ならば、補足を加えて説くのが最善の道。伝えたき思いがあいまいになるあまり、話し終える時にはその事の深刻さに気付かないことさえある。断固とした指示を相手への配、自尊心を考えすぎ、結果怠ることとなり、事を大きくしてしまう。自分の自信のなさや自己過信の末、「これぐらいは目をつぶっておこう」と考えるのは、優しさでなく自己欺瞞であり、人間関係の歪みを生む原因ともなる。人と関わるは、反論による衝突を避けぬ、恐れぬこと。種も交われば赤くなると言うではないか。自らに厳しくし、結果を出すことで人を統率できる。子は親の背中を見て育つ。自らを律することは、他人との衝突の恐れと、無駄な気配り、配慮を取り除き、本気でぶつかることにあると、私は考えてるでな。イエスの文言にはそれがよく表されていると、参考にすべき点も多い」  「はい」  「さて、私の疑問とは、彼は神の生まれ変わり、或いは神によって召された者なのか、それには興味がない。それこそ、信じる者は救われるじゃよ。人間の子、いや女神の子が人間の姿に…いや、そこも気にするまい。私が人々が何故に彼を神と崇めたか。縋りたい気持ちを抗うものであれば一時的な心の癒しで払拭致す。しかし、その存在は後世にも受け継がれる。ならば、イエス以前に神はいなかったのか?生物は神の創造物とされるなら、イエスは既に存在していたではないか、また、崇拝する者は如何にして創造されたのか?人々はイエスの死を見たとされる。その彼が復活することで神と拝められる。人は人を崇拝した、それを神と致したのか。それであれば、空海を崇めるのと同じ。仏様ではないか。空海も仏の道を極めて、後世の仏様となる。ならば、イエスや空海の以前の神や仏とは何なのか…。私も魂界に長きに渡って棲息するも、この目にしたことはない。会ったことがある、声を聞いたことがある。それは自らが作り出した妄想の在り方ではないのか。潜在意識であったり、それこそ、失われたアークでのナイトヘッドの成せる態か。とは言え、私も私ではない者の助言や忠告、教えを聞いたことがある、いや、聞いた気がしたのか。考えても答えを導く緒さへ見えぬわ。そこで、考えることを辞めた。そのような存在があることが、何より自らの救いになると悟ったからな。その意味では、信じるものは救われるで、心、穏やかになったと言うか、解けぬ謎があるからこそ、探究心が唆られと言い聞かせておる」  「時に解けぬものは、解けぬものとして存在させることで、前に進めることもあると言うことですね」  「そうじゃな。解けぬものも確実に有する。無いものとされるがな。それが空界の通称、あるなし理論じゃよ」  「それは?」  「簡単じゃよ。物事の全てをあるないで考える。崇拝される、崇拝されない。ようは、人気がある、人気がない。というようにな。そこでなぜ、人気があるのか、なぜ、人気がないのか、を考え、疑問に感じた事に当ては嵌めるのじゃよ。そうすれば、見えないものも見えてくる、見逃していたものが顕になる。では、なぜ、見えないのか、見逃したのかを考える。それは、自分か、他人か、自他か。そうじゃ、いい機会じゃ、あるなし理論に欠かせないのは俯瞰で物事を観ることじゃよ。これを三点思考と読んでおる。甲と乙、客観的に観る丙。いわば、罪を犯した者、その罪を明らかにする者、双方の言い分を客観的な事実のみで判断する者、と言う仕組みかな」  「客観的ですか…。だから、感情に流されべからずが大事なのですね」  「そうよ、感情や贔屓目は目を曇らせる。不利、有利など挟まず、真実を見極める事が、事の解決には不可欠なものなのじゃよ。その答えが不利なものであれば真摯に受け止め改善に務める。有利であれば、更に向上を目指す。そういう考えじゃよ」  「イエスのこと、仏のこと。突き詰めても答えが出ぬものもあれば、突き詰める事実があるものもある。その分別が大事と言うことですね」  「ほほほぉ、そうじゃ。無駄な考え休むに似たり。本当に無駄かを見極める力は、経験じゃよ。より多くの経験は、より多くの考察へと導く。それを育ててくれるのが参考となる意見や記録じゃよ。その見極めは真実と言うことになるわな。真実は敵にも見方にもなる。見方を変えれば、見え方も変わる。真実は一つであっても向き合い方で、行く通りに見えるものがあるゆえ、十分に注意すべきものと心得よ」  「承知致しました」
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