闇鴉-学びの章-丑三つ刻の訪問者-10/17

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闇鴉-学びの章-丑三つ刻の訪問者-10/17

 「さて、そなたの他の者とは?と言う問じゃがな、それについては、まず、謝るべきかと思う」  「法師が私に…」  「ああ…。本来、空界では輪廻転生を断り、魂の世に自分を置くことを決めた者が入界できる。その後、いまのそなたのように学ぶことになるのだが、その際、師を自由に選べるのじゃよ。界層は時の運よ、雷界の者によって定められると聞き及んでおる。さて、選んだ師の好き嫌い、合う合わないで替えるのも自由。師は何人育てたかなど師の評価にならず、あくまでも己の才覚を雷界の者が認めるかで決まる。よって、諍いの素となる囲い込みや派閥と言う物も存在しない。取った取られたと言うこともない。もとより、師となる者は、欲の感情を均一に保つ術を備えておるからのう。他の界層は知らぬが、この空界では全てが自由が基本じゃて。自分の意志で決めればいい、それが何より尊重される。とは言っても、怠けて何もしない。その何もしないに確固たる理由がなければ、不適格者の烙印を雷界の者が押す。押されれば、下界へと送られると聞くが、人間ではないと聞いたことがある、定かではないが。要は決意にブレのある者に今後を託す者などいまい、いや、憑依された者にしてみれば迷惑至極。致し方ない処分だと私は思うがな」  「船頭多くして山へ上る、と同じですね」  「かなり違うが、決断の在り方の有無でその結末が変わると言う意味では似たようなものと致しておこう」  「思いつきで口にして恥を描く。勉強になります」  「構わぬ。思うたことを自由に口に出す。その善し悪しを時間を掛けて吟味すれば良い。それも、経験の一つよ。否定、批判だけでは糞にもならず。どう懸念しているか、それを如何にすれば改善できるかを考えぬ者は、糞にも劣ると考えるのが空界の姿勢じゃよ。産みの苦しみを知らぬ者に新たに生み出すことなど出来ぬは。いや、できたとしても基礎工事を怠った建物のように簡単に足元を救われ、全てを失うだけじゃよ。浅はかなものは安価な物に手を出し、失敗する。作り手、送り手の努力で安価でも良いものはあるが、高価なものにはそれなりの理由があることをしっかりと理解し、敬意を払う意識がなければ、安物買いの銭失いとなるだけじゃからの」  「物への、作り手への敬意がその値打ちを決める物差しですね」  「そうよな。考え、努力、技術があっての徳を得ていると素直に思える価値観が己をも育てるものと心して置くが良い」  「はい、肝に銘じて」  「さて、本来は聖徒と呼ばれておる、謂わば修行僧たちと学ぶのが正統。そこで、違った意見や共感を学ぶのじゃが、そなたからその機会を奪ったことに、これこの通り」  と法師は、頭を垂れてみせた。  「そのようなこと…おやめください。聞けば、この界に入るには審査のようなものがあったはず。その審査をせぬは裏口からの入学のよなもの。そのような者に頭を垂れるなどなさらないでください」  「礼を言うぞ。責任は感じておる。そなたは私が守りぬく故、許されよ」  「いえ、私は感謝しております、新たな生き場を与えてくださったことを。人は生きるすべを失えば、生きていても屍と同じ。屍とは負の意識。自分で考えず、動かず、流されるだけ。そんな己を見下げて、自己嫌悪に陥いる。それは全てに自信をなくすこと。社会と言う渦の中で生きるには辛いかと。開き直って我が道を行くなどと気取ってみても、寂しさと言う孤独が常に背後から刃を向けている恐怖が付き纏う。生きがいとは大袈裟なものではなく、自分の考えで新たな世界を覗き込むこと、又は執着すべきものにのめり込むことと察します。さすれば、新たな展開が待ち受け、それを吟味し、前に進む。未来と言う刻を楽しむことにあると、感じるようになりましたから」  「うん、それも良いのう。生きる術とは、これからの刻を楽しむことにあると私も考える。楽しむのであれば、自分の意志で何かを変えてみる意気込みのようなものが生きがいの糧となることも少なからずや」  「その意味で私は、感謝することはあっても、後悔などありませぬ」  「そう思うてくれると、肩の荷が少しは降りるわ。礼を言うぞ」  「勿体無い」  「これから…いや今後、嫌な思いを致すやも知れん。それを乗り越えるは己を信じること。信じることとは、己で考え、動くこと。そこでの経験が耐える力、突破口を見出す糧となるからのう」  「はい」  「空界での聖徒は現世に似ておる。苛め、好き嫌い、派閥、村八分など何でもありじゃ。それを解消してこそ、人に憑依する資格がある。まぁ、出来れば経験したくないことも、憑依したものが境遇にあらば、対処せねばならない。確かに経験のなさを記憶の図書を紐解き、学ぶことは可能じゃが、経験に勝る実用感ないからのう」  「それはキリストやらの言葉にあったような…。右頬を打たれば、左頬を打たれよ。またこのようなものも思い起こされます。イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行ったとか。そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えた。すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」イエスは答えて言った。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と」。ここには隠語があります。4という数字は、次のステージに移るための聖めと訓練の期間に関係しており、その期間の終わりには、次のステージへの扉が開かれていると。ヘブライ語とやらで、4番目の文字「Dalet」は数字に置き換えると4です。この「Dalet」に「Door」という意味があるのは興味深いことです。試みる者とは悪魔。悪魔とは、神に敵対する者です。彼の戦略は、人を神から引き離し、自分の支配下に置くことであり、誘惑、不安、恐れ、疑いなどが彼の戦術です。悪魔は機を見るに敏(びん)、戦いに長けており、常に人の弱点を衝くとか。彼は、イエスが断食を終えて空腹を覚えたその瞬間、近づいてきてこう言ってきたのです。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」とね。それは私への戒めと記憶しております。悪魔はイエスを神の子と認めていましたが、逆にそこを突いてきたのです。神の子の権威をもって、石をパンになるように命令したらどうかと誘惑してきたのです。実に油断ならない存在です。私たちも、自分の立場、与えられた能力を用いる際には、十分に気をつけなければならないことを教えられた気がします」  「おお、そこまでもう踏み込んでおるのか。そなたの思考の探究心は頼もしいのう。確かにそれも考えの一つじゃ。じゃが全てにあらずじゃよ、それを前提に続けてみるか」  「はい」  「人を構成しているのは、「肉体、魂、霊」。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」とは、肉体は、パン(食べ物)で生きるのじゃが、魂は、神の教えで存在している。神の口から出た一つ一つのことばによって存在しているということ。それは、単に安らかな人生を送ることができるだけでなく、永遠に生きることをも意味する。いまのそなたよ。「生きる」は、「死を突き破って永遠に生きる、さらに、神の定めで生きる」というもの。ここに、人生最大の問題である「死」についての解決と永遠のいのちの希望がある。とは言え、「欲」とは肉体と執着心や優位性を求めるもの。その是非が死を遠ざけたり、近づけたりするものよ。われらは、神や仏、先人の思いを受け入れ、迷える者を救うこと。それが我らの生きがいよ。ただ、我らは神でも佛でもない。敵も作れば、悲しむ者も作る。勝者と敗者、善と悪のように光あれば陰がある。それが生きると言うことよ。その表裏の此岸と彼岸の間に進化がある。進化は、神が与えられた人間への課題。苦難に立ち向かうための術じゃよ。その術の扱いの不具合で争いごとが起こる。人間は均一ではないからなぁ。まぁ、私はそれを神の悪戯と捉えて楽しむことにしておるがな」  「私にはまだ、難しいかと」  「これからじゃからな。まぁ、兆しはある。探究心は旺盛のようじゃからな」  「それはどうかわかりませんが、わからないこと、興味を持ったことを捨て置けない性格なのでしょうね」  「それで良い、それで良い」  法師の満足げに龍厳を見つめる様は、口角が上がり、目元が下がるものだった。それはまさに佛の柔らかな表情に龍厳には、映っていた。
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