偽物の金貨

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偽物の金貨

 水曜日。午後二時半、少し前。  繁雄はつけていた店のテレビも消して、ガス栓も閉めて、一通りテーブルを拭き終えると、準備をとうに済ませた岡持ちを手にした。店を出て鍵を閉め、『開店中』の札をひっくり返し、『閉店中』にする。  商店街の通りに人影はまばらで、中には挨拶をしてくる顔馴染みもいる。どこか気もそぞろに生返事して、繁雄は岡持ちを傾けないよう注意しながら、先を急ぐ。やがて、商店街の最端部に近くなると、左に見えた角を折れた。  そこはやや細い通りに続いていて、ふと見上げれば古風で小さな鈴蘭燈が店々の軒先を彩っていた。古ぼけた色合いの、それでもドギつい色をしたネオンや看板が連なっている。 《すずらん通り》――八奈結び商店街の端にひっそりとある、いわゆる飲兵衛横丁だ。表通りの商店が夕方過ぎに閉まった頃、鈴蘭燈にそっと灯が点る。商店街の親父さんに女将さん、仕事帰りのサラリーマンやOL諸氏が、日々の疲れをそっと流しに来る憩いの場だ。そしてその奥に行けば、子どもが行くのを禁じられているオトナの雰囲気漂う魅惑の社交場もある。  昨晩の疲れに眠るかのように、シンとしたこの通りを、繁雄は迷いない足取りで進んだ。勿論彼も、幼い時分にはこの通りに入ること自体タブーと言いつけられていた。そんなことだから、ある事情でここ通うようになった当初は何かやましいことをしているようで気が咎めたが、今ではすっかり慣れてしまった。  すずらん通りの最奥はどん詰まりになっていて、店もやっているんだかそうでないんだかよく分からないようなものばかりが並んでいる。そんな中、一番奥の向かって右手で、ひっそりと看板を掲げているバーの扉の前で繁雄は立ち止まった。  それまで頭に巻いていた手拭いを空いている手で取ると、前掛けの中に仕舞った。扉の隣にある窓ガラスを見て、何気なく前髪を直す。それから前掛けの中に潜ませていた預かりものの鍵を持って、扉を開ける。  ひとつ深呼吸してから、「こんちゃーっス」と適当っぽい挨拶しながら扉を開けて、中に入った。  冷気とともに、むっ……と、酒の香気が繁雄の全身を嬲るように中から溢れ出る。最初の頃こそ、アルコールを微かに含むこの香りにむせ返ったものだが、今では逆にどこか心地よく感じる。父が九州の出で酒飲みだったから、その血が騒ぐのかもしれない……などと考えていると、入り口ほど近くにあるカウンターから、のそりと人影が立ち上る。 「ああ……シゲオくん、いらっしゃぁい」  ふああ、と訛りのない言葉で、彼女はそう言った。  さくらさん。  このカウンター五席のバーのマスターで、唯一の店員。暗がりでもきらめくようなつやを持った黒髪と、憂いを帯びた垂れ気味の眼に、年齢が曖昧な童顔を持つおねえさんだ。いつからここに店を構えているのかは、誰も知らない。ただ、繁雄が中学生だったときには、『さくらさんの店』と商店街の旦那衆の間で話題に上っていた。その頃は、まさか自分がこんなにも早くに父親の店を継いで、さくらさんにうどんを出前で届けることになっていようとは想像もしていなかった。  繁雄が扉を閉めると、さくらさんが手元のリモコンで間接照明を点けた。いつものように岡持ちをカウンターの上に置いてうどんを取り出しながら、繁雄は顔を逸らしながら言う。 「いつも言うてますやん、そないな格好で寝たらあかんて」  さくらさんはきょとんとして見せる。そんな彼女の格好は、寝間着と思しきフリルつきのキャミソールに、素っ気ないショートパンツだ。そして、胸元があけっぴろげに開かれたキャミソールからはご立派な胸囲の谷間が惜しげもなく拝見できる。さくらさんは、 「大丈夫、わたし風邪引いたこと生まれてこの方一度もないし」  などと、寝ぼけ眼をこすりながら全くとんちんかんなことを言う。 「せめて上着でもはおってください……」  はぁ、とため息を吐きながら繁雄は早々に話題を打ち切って、岡持ちからうどんを取り出す。できたてほかほか、何の変哲もない温かいきつねうどんだ。  繁雄が出前を始めた頃に注文してくれた、数少ないお客さんのうちの一人がさくらさんだ。常連、というかリピーターになってくれたさくらさんは、こうして週に一回水曜日のこの時間、繁雄に出前に来るようにと定期予約を入れてくれている。水曜日はお店の定休日で、昨晩の閉店からそのままここで寝入って、繁雄が来る頃に起きるのだと言う。要は体のいい目覚まし代わり、といったところだ(それを裏付けるように、店を開けて入ってくるようにと合鍵を渡されている)。  さくらさんは手近なところにあったパーカーに袖を通し、差し出されたうどんを受け取る。すると顔をあどけなく綻ばせて、カウンターの中の台にどんぶりを置いてから割り箸を戸棚の中から取り出した。カウンターの中のスツール(これが三つ並ぶと即席の寝台になる)に腰をかけると、手首に結わえたままだったシュシュで、さっと髪をまとめる。それから「いただきます」、と一礼して、すすり始めた。 「うん、おいしー! やっぱりあれね、起き抜けにあったかくておいしいもの食べるのは最高の贅沢よね、うん。それくらい、お休みの日には許されてしかるべきよね」  などと、うどんにフーフー息を吹きかけて啜る間に、うどん屋心をくすぐる賛辞を手放しに送ってくる。お客さんからの好評はいつも素直に喜ぶ繁雄だが、さくらさん相手にはどこか素直になれない。なんだか照れてしまって、「ほんなら俺、これで」と、岡持ちを持ってそそくさとその場を後にしようとする。それはいつものことで、そして、 「あぁん、待ってよぅ。すぐ食べ終わっちゃうからぁ」  と、さくらさんが引き止めるのも、毎度のことである。その言葉は決して押し付けがましくなくて、するりと繁雄の足を絡めとる。  さくらさんは繁雄が何か言う前に、手早くグラスを用意して、冷蔵庫から出してきた氷と、オレンジジュースを注ぐ。そしてコースターとストローを添えて、カウンターの上に品よく並べた。その隣に、洒落た容器に入ったチョコレートも置く。コインを模した銀紙に包まれたチョコは、薄暗い照明にとろりと光を反射して、振り返った繁雄の目を打った。カラン、と涼やかな氷が耳に響く。外の熱さに渇いた喉はすかさずごくりと反応して、さくらさんは促すように微笑む。  ここまでされて、抗えるわけもない。繁雄は気恥ずかしさを隠すように跳ねた短髪をわしゃわしゃと掻くと、再び岡持ちをカウンターに置いて自らも席に腰掛けた。  そこでさくらさんはようやく満足して、自分もカウンターの中で腰掛けた。ずず、と、うどんをまた啜り始める。繁雄もおそるおそる、ストローに口をつける。  バーに卸されるオレンジジュースは、自分のうどん屋に置いてあるような安物とはまた違うんだろうか……思わずそんなことを考えてしまうほど、おいしかった。氷を入れてるにも関わらず舌に広がる甘味は濃厚で、なのにしつこくない。複数の品種の果汁を混ぜてでもいるのだろうか、奥行きがある、と感じられる味だった。少なくとも、繁雄はここで以外こんなオレンジジュースを飲んだことはなかった。  いつものことながら一口飲んで惚けている繁雄に、さくらさんはいたずらな笑いを口端に含ませて言った。 「ジュースだけじゃなくって、お菓子も食べていいよ?」 「あ、はい……」  子ども扱いされて、ますます縮こまる。どれだけ、うどん屋店主、と偉ぶったところで、自分はまだ十七の子どもに過ぎない、というのを、さくらさんといると思い知らされる。もっとも、さくらさんの年齢は非公開だし容姿からも察しようがないので、どれだけ自分と開きがあるのか見当もつかないのではあるが。  グラスを置いて、コイン型のチョコをひとつ摘んだ。持てば重みですぐ分かるが、表面の模様などはなかなか凝っていて、薄暗いこのバーの中では一見本物の金貨に見える。ここでさくらさんが出してくれるまでは、繁雄はこういうチョコがあるということを知らなかった(そのとき、さくらさんは「ジェネレーションギャップ……!」と言って嘆いていた)。  贋物の、甘い宝物。ここに出前に来て出されるこのチョコレートが、なぜだか繁雄はすきだった。おいしいから、とか、そういうことではなく、なんとなく、指先で弄んでると、そのときは何も考えないで、ぼうっと出来るのだ。  明日の仕込みのこと。秋からの限定メニューの考案。商店街理事会の当番に、会議の日程。そうだ、銀行寄って和希の給食費下ろして来な。  間断なく、ずっと頭の中でめぐっている諸々の雑多な用事が、ここだと全て忘れられる。少なくとも、さくらさんがうどんを食べ終わるまでは、彼はただの子どもなのだった。  だが、やがてはっとした。顔を上げると。さくらさんがどんぶりから顔を上げて、じっと繁雄を見ていた。どきり、とする――が、すぐに自分を見ていたのではないことに気がつく。自分の手の中の、贋物の金貨を見ているのだ。 「それさぁ」ぽつりと、真剣ぶってさくらさんは言う。「本物だったら、って思ったことない?」  突然の話題に、繁雄は目をぱちくりさせた。そして手の中の、容器の中の金貨をざっと数えてみる。二〇枚もない。これが本物だったら、いくらくらいになるのだろう。生憎、そうした大金にとんと縁のない繁雄には今いちピンと来ず、 「いや……考えたこともないっスね」 「シゲオくんは欲がないねぇー」  さくらさんは、嘆息半分の溜め息を吐いた。そして、チョコが入ってる袋を出してきて顔の横で上下に振ってガサガサと鳴らす(それにつられて露わな胸元がたゆんたゆんするのでもうホントどうにかしてほしいと思いながら繁雄は必死に目を逸らすのである)。 「こんだけあったらさぁ、結構いろいろできるよぉ。どう?」 「って言われてもなぁ……」繁雄も頭を捻ってみるが、「……今は早よ店、軌道に乗せなあかんし、そんな暇ないですもん。ああ、店のテレビもうちょいでかいヤツ欲しいスかね」 「健全! 眩しい! ウッ!!」  さくらさんは太陽に晒されたヴァンパイアのようにしおしおとしな垂れた。自分でもつまらない回答だ、と苦笑しつつ、繁雄は尋ね返す。 「ほんなら、さくらさんはこれが本物やったらどないするんです?」 「わたし?」  自分が訊かれるとは思ってなかったようで、姿勢を正すと、んー、と唇に人差し指を当てて考えるさくらさんである。しかし、やがて思いついて手を下ろすと、 「……逃げる」  と、そう言った。  その意味を図りかねて繁雄が目を瞬いていると、さくらさんは、いつもは多彩な表情を浮かべる、その愛らしいと評判の顔に何も浮かべずに、続ける。 「どっか、遠くへ行く。遠く、遠く……ここじゃないどこか。人が少なくて、静かで、あたたかくて、何も考えなくても済むとこに、逃げる」  その言葉に、繁雄は唖然とする。  そんなことは、思いついたこともなかった。生まれも育ちも八奈結びだった繁雄は、ここより余所のことを多くは知らない。それでも、比べるまでもなくこの町が、商店街が、一番居心地のいい場所だと思っている。ここに住人は大抵そうだろうと当たり前に思い込んでいた彼は、目の前にここから逃げ出したい、という人がいたことに、少なからずショックを受けていた。  その思いを感じ取ったのか、さくらさんはちょっと皮肉気に口許を上げて、言う。 「わたしは君がそう思わないことが、不思議だけれど」 「え……?」  それがどういうことか尋ねる前に、さくらさんが言葉を継いだ。 「でも、それはこの世が辛うじて与えた数少ない奇跡なのかもしれないね。そのくらいあったっていいんじゃないか、っていう、ご都合主義の……」 「すんません」繁雄がおずおずと口を挟む。「何のことやか、俺、頭悪いんでようわからんのですが……さくらさんは、八奈結びが嫌いなんスか?」  肯定されたら身も蓋もない問いではあったが、つい繁雄は口にしてしまった。八奈結びを嫌われるというのは、あまり快くないことだった……なんだか、自分をそうだと言われているようで。だから何も考えず、不安を打ち消したくて、聞いてしまったのだ。  しかしさくらさんは薄く微笑んで、 「うん、嫌い」  と、さらりと言う。  ガン、と石で頭を殴られたような衝撃が繁雄を襲った。だが、さくらさんはなんでもないような調子で続ける。 「ああ、でも八奈結びはまだマシな方。もうちょっといられるかなって感じ。それまでいたところはどこもクソでクズでゲスでゲロカスで……嫌い」  さくらさんはそこで言葉を切って、顔を俯かせた。  その眼差しには、それまでに彼女が見せたことのない光が宿っていた。  昏く、深く――果てない闇に閉ざされた湖の底に、唯一差したようなか細い光芒が。  その輝きを失わないようにぎゅっと瞼を閉じて、小さく、か細く、掠れた声で、さくらさんは呟く。 「ここは、この世界というのは、全部、嫌い。大嫌い。だから――いつか、わたしは逃げるの。ここではないどこか。もう苛まれずに済む場所へ」  「……さくらさん?」  そのまま放っておいたら、さくらさんが消えてしまいそうで。  思わず、繁雄は名前を呼んだ。さくらさんはそれに応じて、ぼんやりと頭を上げた。  そして、困ったように苦笑を浮かべた。お化け屋敷で置き去りにしてしまった弟を迎えに来た姉のような、泣いたような、笑ったような顔をしている。 「なぁんて、ウソウソ。驚いた?」 「もー……なんなんスか」  繁雄も、苦笑しながら溜め息を吐いた。  ――今の吐露するような言葉が偽りであるだなんて、繁雄は思わない。  でも、さくらさんがそういうことにしようとするなら、それに合わせよう。そのくらいしか、自分には出来ることはないのだ。いつも優しくしてくれる彼女に、自分が出来ることはその程度のこと――。  さくらさんは、軽快に音を立てて残りのうどんを全てさらった。スープまで飲み干して、きれいになったどんぶりを繁雄に差し出す。受け取った繁雄は、もう片方の手に贋物の金貨を持ったままだったことを思い出して容器に戻そうとするが、 「ああ、いいよ。それくらい持って帰って」  と、さくらさんが言うので、一枚だけありがたく拝借することにした。  どんぶりを岡持ちに入れて、カウンター席から立ち上がる。そして出る前に振り返って一礼した。 「それじゃ、ありがとうございました」 「こちらこそ。また来週、よろしくね」  さくらさんは微笑みながら気だるげに、ふわふわと手を振った。それを見てもう一度頭を下げてから、繁雄はバーを出た。  ――ふたりで過ごした時間は、ものの三〇分にも満たない。すずらん通りはまだ眠っていて、商店街の大通りから聞こえる喧騒もまださほど賑やかなものではない。いつもの、代わり映えのない八奈結びがそこにある。  その中を、どこか肩が軽くなったような気がしながら、繁雄は歩いていく。  表通りまでやってきたところで、ふと、手の中にもらった偽の金貨を握ったままだったことに気がついた。和希に見つかるとうるさいし、帰るまでに食べてしまうことにする。岡持ちを置いて、取り辛い包装をやっとのことでめくると、金貨の擬態は呆気なく解けてチョコが姿を現した。一口で食べてしまうと、あっという間にほろ苦い甘みが舌に解けて、すぐに消える。寂しいような、でもこれでいい、なんてそんな不思議な気持ちになる。  そうして、再び岡持ちを手にし、歩き出そうとした繁雄の背中に、 「あれ、繁雄くんやないか」  と、聞き慣れた声がかかる。  振り返ると、人がいいので有名な北村さんが歩いてこちらへやってきた。 「珍しいな、こないなところへ」 「あ……」繁雄は少し言いよどむ。「ちょお、出前に来てました」  なるほど、と北村さんも頷いた。 「さくらさんところやな。繁雄くんのうどんだいすきやって、よう話してるわ。大人気やな」  北村さんは、さくらさんの店によく行くらしいことは繁雄も知っていた。なんていっても、北村さんの紹介でさくらさんは繁雄のうどんを取るようになってくれたのだから。そんなことは、とっくの昔に知っている。だから、ぎこちなく笑って繁雄もこう答えた。 「おおきに! ほんま、北村さんがいつも応援してくれはるからっスわ」 「いやいや!」北村さんは恐縮する。「そこは繁雄くんの実力やから!」  どこかに行く途中だった北村さんは、照れた顔のまま「ほな、また店寄らせてもらうわ」と言ってそそくさと去っていった。  そう、とっくの昔に知っている。  さくらさんの心にいるのが誰なのか。  軽くなったはずの岡持ちを少し重たく感じながら、また繁雄は歩き出した。夕日がじり、とうなじを焼く。口の中にあったはずのチョコの甘みはとうに失せ、舌先に微かな苦味だけが残っていた。
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