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次にその娘に出会ったのは、あまりにも静かな夕暮れ時だった。
娘と季節外れの雪を眺めたあの日から、お日様が三度沈んでも、僕は屋敷には帰らず、鬱蒼とした木々に囲まれたこの場所に居続けた。
此処にいれば、またあの娘に会える様な気がして、とても離れる気になどなれなかったのだ。
その日。寺へと続く石畳の程良い冷たさが、何とも癖になることに気付いた僕は、飽きることなくその道を何度も往復していた。
お日様が照りつける昼間には、到底、歩けたものではないほど熱を持っていたというのに、日暮れにはすっかりその熱を失ってしまう。
どことなく切なげな、そのざりざりとした感覚は、娘を想う僕の気持に少しばかり似ているような気がした。
——あぁ、またお日様が沈む。
あと何度、お日様が沈んだら娘は現れるのだろう。否、もう現れることはないのかもしれない。白い雪のように、儚く消えてしまった娘は、もう二度と戻ることはないのだろう。
——全ては夢のような出来事だった。
今日こそは屋敷に帰り、己の体に馴染んだ寝床で朝を迎えることにしよう。
きっと、そうするべきなのだ。
そんなことを考えながら、高く聳える木々たちが護る様に取り囲んでいる大きな建物を、ゆるりと仰ぎ見た時だった。
日毎夜毎待ち望んでいた娘の声が聞こえたのだ。
「また会ったね」
この日は、紅色をした着物を身に纏っていた。
鮮やかなその色が、娘の愛らしさを余すところなく引き出しているようで、僕は気のきいた言葉の一つも伝えられない己の不甲斐なさに嫌気がさした。
娘のそれとは全く別のものである己の声に、此れほどまでに落胆する日が来るとは、この日まで露ほども思ってもいなかったのだ。
僕は、自分でも驚くほどに酷く傷ついていた。
そんな時、あの日のように柔らかく微笑んだ娘を見て、僕は心底慌てふためいた。
何も言葉を発しない僕に呆れてしまった娘が、また何処かへ行ってしまうのだと思ったのだ。
折角こうして会うことが出来たというのに、また、離れ離れになるのかと思うと胸の奥が締め付けられるように痛みを放った。
もう少しだけ。そう伝えることすらあの時の僕には出来なかったのだ。
「ねえ、これをあげるから、少しだけ私の話を聞いてくれる? 」
何処かに行ってしまうと思っていた娘の口から、そんな言葉が零れてきた時、どれほど僕が驚いたのかをあなたは理解してくれるだろうか。
碌な言葉すら発することの出来ない僕に、この娘は話を聞いて欲しいと頼んでいる。
詰まる所、娘はただただ己の心の内を吐きだしたいだけなのだろうと僕は思った。
何かこれといった助言を求めていないのであれば、僕は何処の誰よりもこの役目に向いている。
娘が差し出した包みの中に、僕の好物が入っていることは先ほどから匂いで分かっていた故、僕は躊躇うことなく娘に近づいた。
「ありがとう。あなたならきっと話を聞いてくれると思ったわ」
娘はそう言うと包みを開いて、僕の隣に座り込んだ。
美しい着物が汚れてしまうのではないかと心配しているのは僕だけで、娘はそんなことを少しも気になどしていないようだった。
僕が好物に手をつけるのを今か今かと待っている娘の視線に耐えかねて、僕は久しぶりにお目にかかった馳走を堪能することにした。
黄金色をしたそれは、これといって珍しい味付けというわけではないけれど、とても優しい味だった。
もし、娘が僕の為だけにこれを作ってくれたのならば、どんなに嬉しいことだろう。
そんなことを考えたすぐ後に、まさかそんなことがあるわけなかろうという別の声が頭の中に響く。
僕は少々浮かれているらしかった。自嘲気味に口角を上げると、僕はひと思いに好物を飲み込んだ。
「美味しかった? 」
心配そうに此方の様子を窺っている娘を、どうにか安心させる方法はないかと考えを巡らせる。
しかし、これといって何も思いつかなかった僕は、座っている娘の膝元にすり寄って鼻先をこすりつけた。
こんなことが、娘の言葉への返答になるのか酷く不安だったのだけれど、娘は満足そうに頷くと、また柔らかく微笑んだ。
「あのね……」
そう言って話し始めた娘が何とも言えぬ表情で僕を見つめるものだから、一体何の話をされるのかと、僕はそわそわと落ち着かない思いだった。
それでも、僕がどれほど動揺したとしても、娘にそれが解る筈がないのだということに気づいてからは、落ち着いて娘の話を聞くことができるようになった。
所詮、僕には表情と呼べるものがないのだから……。
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