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まるで競争でもしているかのように我先と枝を伸ばしはじめた木々には、新緑をたたえた葉が青々と勢いよく茂りはじめている。
ゴールデンウィークが始まり、都会は初夏の陽気だという。
標高が高いこの辺りは、まだ春が始まったばかりだ。
数日前、上高地の開山式が行われた。丸山グランドホテルも観光シーズンに突入だ。
「お久しぶりです! 皆さん、お元気でしたか?」
夕食後、恒例の片付け&トークタイム。約半年振りにやってきた長谷川は、仲居達相手に積もる話を繰り広げている。
「この前の土日で、『尾瀬散策と山菜料理』っていうコースの添乗についたんだ。パンフに『履き慣れた靴でお越しください』って書いてあったのにヒールで来ちゃったお客さんがいて、『足が痛い』って俺に怒るんだよ。一応パンフのただし書きの話をしたら、『履き慣れたヒール』で参加したって言うんだ……。おれ、半泣きで謝り倒したよ――」
――報告書を提出しに会社に行った時、パンフには『履き慣れた運動靴って書いて下さいよー!』ってお願いしてきた。お客さんだって判断に困っちゃうもんな? と長谷川は続ける。すると、仲居の一人が慰めるように口を開く。
「ここもそうだけど、いろんな難癖をつけてくる人ってどこにでもいるんだよねー」
「そうそう! 気にしない!」仲居達が口々に長谷川を労う。互いに客商売だ、通じるものは計り知れないのだろう。
「まあ、そうなんだよなあ。それとさあ――『山菜はアクが強いのに、山菜だらけの料理を出されたら身体に悪いから食べられない!』っていうお客さんがいて、マジびっくりした!」
「うわ! それって珍しいね。ちゃんとツアー名選んで参加してるんでしょうにね?」
「えーッ! ちょっと、それって無いよねー!」
今度は、仲居達が口々に怒り出した。
「……多分。でもさあ、そこの春の山菜料理が珍しくって」
「なにが出たの?」
宴会場前の廊下に差し掛かったところで、聞こえてきた会話だ。興味を持った進次郎はしばし立ち止まって聞き耳を立てる。長谷川は、自然な口調で仲居達のネガティブな雰囲気を、ガラリと変えた。
「ふきのとう、ふき、わらび、タラの芽、山ウド、ぜんまい……そんな感じだったんだけど。その中で一番気に入ったのは、ネギ坊主の酢味噌和え! 初めて食べたけど、甘みがあって美味かったなー! 山菜って少し苦みがあったりするけど、どれも春の味って感じがするんだよ。今度、進次郎さんにネギ坊主で何か作ってくれるようにお願いしなくちゃ! あれ、絶対に天ぷらもいけると思うんだ――」
長谷川が勝手なことを言っている。ネギ坊主……使ったことはないが、今度試してみようか……。
宴会場の中の話題は、コロコロと変わっていく。誰もが手を休めることなく、テキパキと片付けをしながら。
さっき下膳に来た仲居の一人が、『長谷川くん来てるから、進ちゃんも後でおいでよ!』と言ったから……そんな言い訳を心の中で考えていた。本音は、半年振りに長谷川の話を聞きたかったのだ。一分一秒でも早く。それらの気持ちを封じ込め、片付けを手伝う風を装い進次郎は宴会場に足を踏み入れることに成功した。
「あ、進次郎さん! お久し振りです。やっぱりここの飯は最高です! ご馳走様でした。うちのお客さん達も喜んでましたよ」
いち早く進次郎を見付けた長谷川が、親しげに声を掛けてきた。たった半年振りなのに懐かしい。心に沁み入る声だ。
「……お久し振りです。有難うございます」
今晩もあの場所で、星空の晩酌をするのだろうか? 久し振りに、長谷川から発せられる外の空気を思い切り身体に摂り込みたい。そして今日は――進次郎からも、長谷川に聞いて欲しい話がたくさんある。どこまで伝えられるかは分からないが……。
晩の、あのなんとなくはすっぱな長谷川の喋り口調が、仕事中のそれとは違って心地好く進次郎の耳に馴染む。実のところコンタクトを装着している仕事中よりも黒縁眼鏡の長谷川に、より親しみを感じてリラックスできるのだ。
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