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「すみません、時間外に――」  本来なら、時間外に病棟へ面会者が訪れることはできない。しかし、進次郎の兄はこの病院に8年半も入院しているため、進次郎の仕事の事情を知っている病院の職員たちは揃って快く迎え入れてくれる。 「こんにちは、丸山さん。これは、病棟に着いたら付けて下さい」 「はい。いつもすみません、有難うございます」  外来受付の端にある入院患者専用の受付でさりげなくバッヂを受け取った進次郎は、慣れた調子で裏の階段から3Fの病棟に向かう。そして、服にバッヂを付けてからナースステーションの看護師に声を掛け、個室で寝ている兄の元へ――。 「兄ちゃん、進次郎だよ」  口から食事を摂ることが出来ない兄は、胃瘻(いろう)という方法を使って栄養を摂取している。胃に管を通し、栄養輸液を直接流し込むのだ。他にも、呼吸を補助するための酸素や、痰が詰まったときに吸い出すための機械、水分を摂り込むための点滴など――何年もの間、管だらけの兄はこの病院の医療スタッフによる献身的な看護で、細々とではあるが生き長らえている。 「……兄ちゃん。香奈ちゃんは、多分……兄ちゃんのことが忘れらんないんだろうな。俺が、あのとき俺が兄ちゃんの代わりに――」  真っ白で柔らかい、まるで人形のように動かないが温かい。そんな兄の手を、自分の掌でそっと握り込んだ。 「兄ちゃん。今年も上高地の観光シーズンが始まったよ」  一方的になってしまう兄との会話も、進次郎にとっては唯一素に戻れる時間だ。二年前までは、ほんの数か月だったが――長谷川と過ごす時間が、兄との時間と同じように進次郎の気持ちを潤してくれた。 「――ちょっと、床頭台(しょうとうだい)開けるね……」  早朝から夜遅くまで、忙しく働いている進次郎が自由にできる時間は僅かだ。朝食の片付けが終わった後の10~11時が丁度それだが、急な用事などが入ればすぐに潰れてしまう。そんな中、最低でも週に二回は必ず面会に訪れている。この病院の面会時間は、14時~19時だ。  進次郎はポケットから鍵を取り出し、床頭台の一段目の引き出しにそれを差し込んで右に回す。ガチャリと音がすると、ゆっくり手前に引いて奥に隠してある紙袋を取り出す。紙袋には、掌に乗せると少しはみ出す大きさの真っ赤な箱が入っている。その箱の中には、長谷川から送られた土産の折の中に入っていた菓子の栞と、長谷川からの手紙、宅急便の送り状を切り取ったものを丁寧に折り畳んで保管している。――どうしても、自宅の……、香奈がいる空間にそれらを保管できなかった。  ――宝物を保管する、RAKUGANの真っ赤な空き箱。  ――床頭台の鍵につけた、さるぼぼのキーホルダー。  たった十数分の見舞いの間に、箱を取り出し菓子の栞を眺め、長谷川からの手紙を広げる。そらんずることすらできる文面を読み返し、送り状に記されている長谷川の名前と住所を、そっと指先でなぞる。 「――俺、どうしたら……」  考えている暇はない。ホテルに戻る時間だ。仕込みや、諸々の仕事が控えている。 「兄ちゃん、また来るな」  箱を紙袋に戻して引き出しの奥に収め、しっかりと鍵をかけた進次郎は、深い溜息を残して兄の病室を後にした。
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