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『……え? 兄、が――?』  仕事が終わり、重い足取りで帰宅した。風呂を済ませベッドに潜り込み、泥のような眠りについた深夜。……けたたましい電話のベルに起こされた。不吉な予感を以って応じると、案の定それは兄の病院からだった。 『すぐに行きますっ!』  このところ外泊が多い香奈は、今夜も不在だ。そのことに安堵して眠りについた身としては、彼女を(とが)める気など毛頭ない。状況が見えないことや、兄との最期になるかもしれない時間を他人に邪魔されたくない。そんな思いを抱いた進次郎は、誰にも連絡をせず……、一人で病院に向かった。  病室に着くと、兄の両側に立つ当直の医師と夜勤の看護師がモニターを見ながら話をしていた。 「あ、あのッ! 兄の容態は?」  息を切らした進次郎が真っ青な顔で当直の医師に訊くと、馴染みの夜勤看護師が「先生、弟の進次郎さんですよ」と件の医師に説明した。 「そうでしたか。間に合って良かった……」  思わずといった(てい)で言葉を吐いた。その医師の発言により、ここ最近じんわりと予感していた兄の死期(・・・・)がすぐそこまで迫っていることを、はっきりと自覚してしまった。頭がおかしくなりそうだ。 「このところ四肢の浮腫(むく)みが顕著だったことは、ご存じでしたか?」 「はい……。その説明は、一昨日、担当の先生から聞きました――」  管から流し込む栄養、点滴から注入する水分や薬を体内で吸収できなくなってきている。内蔵の機能が低下し消化吸収に支障が出てきて尿量が減り、それらが体内で蓄積して四肢から浮腫み始める……。行き場を失った水分等が心臓を圧迫すると、水の中で溺れているような状態になり呼吸が困難になる、……という説明だったか。 「見ての通り、呼吸が荒くなっています。酸素を始めて、濃度も上げ続けています」 「はい」 「どなたか他にご家族は?」 「先生ッ! 丸山さんは……っ!」  今日の夜勤は古くから勤務しているベテラン看護師で、兄が受傷した火事の様子も、その火事で進次郎の両親が焼け死んでいることも知っている。それらの事情を熟知しているからこそ、当直の医師にそれ以上の言葉を言わせなかったのだろう。  一昨日握った兄の手は、これまでになくふっくらとしていた。今夜の兄の手は、まるで水風船のように膨らんでいて盛り上がった甲は半分透けて見える。穏やかだった息遣いも、今夜は胸の辺りから波打つように激しく……植物状態に陥ってから、初めて兄の()をその荒い呼吸で実感するという皮肉が虚しい。   「あの、先生……。兄は、苦しいのでしょうか? ……苦しいと、感じることができているのでしょうか?」 「…………」  医師も看護師も、兄の死を前にして成す術を持ち合わせていないのだ。 「あと……どの、くらい……?」  二人きりになった病室。  進次郎は苦しそうに呼吸をする兄と、心の中で最期の言葉を交わす。そして、床頭台からすっかり心の拠り所となった紙袋を取り出して儀式のように中のものを確認し、元に戻す。  そんなことをしている間に、夜が明けてしまった。 「すみません。仕事に行きますので、兄の事をお願いします。日中の緊急連絡は、ホテルに直接下さい」  掌の中で存在感を放つさるぼぼのキーホルダーを一瞬ギュッと握り締めた進次郎は、明るい声音を作ってナースステーションの看護師に声を掛けた。  ――それから丸二日、奇跡的に兄は頑張り続けた。進次郎も仕事の時間を除く全ての時間を兄の病室で過ごし、最期を見届けた。
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