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「…………」
「進ちゃんの子だよ」
身内だけで静かに兄を見送った。その晩、帰宅すると香奈が突然、突拍子もないことを言い出した。
「ごめん。……言っている意味が、良く分からない」
お腹の子は三か月だという。
香奈が頻繁に外泊をするようになってから随分経つ。どういうわけか外泊が始まった頃から、香奈が進次郎を求めなくなった。
「――誰の子?」
「進ちゃんの――」
「違うよね? 本当のこと、教えてくれないかな?」
進次郎と香奈との間には、彼女が外泊を始める随分前から肉体関係は存在していなかった。したがって、物理的に有り得ないのだ。
「もしも、本当に妊娠しているのだとしたら……生まれてくる子は、本当の両親が育てるべきだと思う」
「……ごめんなさい。でも、進ちゃんがいけないんだよ?」
「うん、わかってる。で?」
相手は、この春に採用されたフロント勤務の男だという。
新卒といっても大学卒業後一旦企業勤めを経験した後、どうしてもホテルで働きたくて、旅行関係の専門学校で業界のノウハウやホスピタリティを一から学んてきたという。
亡き兄や香奈と同学年だというその男は、出身大学も同じだった。よくよく聞いてみると、東京にいた時ふたりは恋人同士の時期もあったらしい。
「……香奈ちゃん、別れよう」
何の感慨もなく、言葉は進次郎の口を吐いて出た。
「ダメッ! ダメなの……。私は、進ちゃんとは別れることが出来ないの」
「……? 香奈ちゃん、どういうこと?」
言い淀む香奈をなだめすかし『別れることが出来ない』理由について訊ねたが、泣きじゃくる香奈はなかなか話そうとしない。
「香奈ちゃん。俺は、あの火事以降……この家に引き取ってもらい、ホテルで働かせてもらって――ましてや、兄ちゃんも最期まで病院の個室で最高の医療を受けさせてもらえた。だから俺は……この家に、支配人や女将さんに、心から感謝してるんだ」
「進、ちゃん……。それって。ちが、違うんだ、よ……!」
取り乱した香奈が、とうとう泣き崩れた。
「香奈ちゃん、そんなに泣くとお腹の子にも良くない……また明日、ゆっくり話そう? な?」
「…………」
何が違うのかは、明日聞けばいい。
いずれにしても、進次郎の気持ちは固まっていた。生まれて初めて、この土地から離れてみようか……。そう考えはじめた途端、大きな不安に苛まれていた心が少しずつ軽くなった。
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