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 進次郎は、『いつか覚醒した兄と共に、実家の旅館を再興しよう』という夢だけを支えにして生きてきた。孤独やどうしようもない苦しみ、複雑な思いに駆られた時だって、火だるまになって亡くなった両親の事を思えば耐えることができた。どんなことがあっても、深い眠りにつく兄と共にいつか……と思えばこそだ。  最後の支えを失った進次郎は、空っぽだった。  簡素に執り行っていた兄の葬儀が終わる間際、かつて亡き父の片腕として実家の旅館を支えてくれていた、高倉という板前がやってきた。  「昔馴染みの仲居から連絡をもらって、取るものも取り敢えずやってきました。間に合ってよかった」そう言うと、棺の顔の部分の扉をそっと開けて、兄の顔をじっと見つめた後、厳かに合掌した。  燃え盛る炎の中、両親と共に客や従業員の避難誘導に当たっていた高倉は、亡き父の『早く逃げろッ!』という怒鳴り声で反射的に外へ飛び出し、寸でのところで一命をとりとめた。その後、職を失った高倉は亡き父の下で培った確かな腕と実直な性格を買われ、都内の割烹料理屋で更に腕を磨き現在は新宿の外れに自分の店を持っているらしい。 「この料理は、(しん)、――失礼。進次郎君が?」 「おじさん、『進』でいいですよ。昔うちで働いてくれてた仲居さん達なんて、いまだに俺のこと『進ちゃん』って呼ぶんですよ。おじさんにも昔みたいに呼んでもらえると、懐かしくて嬉しいです……」  急に涙が込み上げてきた。あの火事の日から、涙など枯れてしまったと思っていたのに、()()なく両の目からボタボタと。不意の出来事に成す術のない進次郎は、下を向いて泣き続けた。すると、その背をそっとさすりながら高倉が話しを続けた。 「丁寧な下拵(したごしら)え、優しい味付け、上品な盛り付け――進の料理には、お客様に対するおもてなしの心が感じられる。小さい頃から、おやっさんのケツを追っかけまわしてただけあるな!」 「…………ッ!」  そんな、何気ない高倉の言葉を咀嚼(そしゃく)した途端、今度は子供の頃の幸せだった時間を思い出し、立て続けにヒックヒックと激しい嗚咽が込み上げ、もう自分ではどうにも感情をコントロールすることが出来なくなった。 「泣けるときに、泣けばいい。もしも、もしもだ……なにか辛いことがあったら、いつでもうちに来なさい。小さな割烹だが、おやっさんが進に伝えきれなかった技術を、僕に責任をもって伝授させてもらいたい――」  当時40前後だった高倉は、現在50手前くらいだろう。一国一城の主としての貫禄が、風体から滲み出ている。ふと、亡き父を思い出し再び胸の奥から熱いものが込み上げ、壊れた蛇口みたいな進次郎の目からは滂沱(ぼうだ)の涙が流れ続ける。  翌朝、連絡先を進次郎に手渡し『進、用がなくても遊びに来い! いつでも大歓迎だぞ』そう言い残し、高倉は慌ただしくホテルを後にした。
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