プロローグ

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 ここ『丸山グランドホテル』は、日本屈指の景勝地として国内外から人気が高い『上高地』へのアクセスが良く、最高のロケーションを誇る温泉郷の中にある。大小さまざまな宿を(よう)する温泉郷の中では、このホテルが一番多くの客を迎え入れることができるので、上高地観光パックツアーの宿泊場所として4月後半の開山から11月中旬の閉山までの間、各旅行会社がこぞって予約を入れてくるのだ。  このホテルで板前をしている丸山進次郎(まるやましんじろう)は、生まれてから24年の間、一度もこの土地を離れたことが無い。実家は人気の高い老舗旅館だったが、高校生の時に不審火で焼失したため、今はもう跡形も無い。両親を失った進次郎を引き取ってくれたのが父方の伯父で、このホテルの支配人をしている。伯父の妻は女将で、二人の間には一人娘がいる。  実家の老舗旅館は、何事においても手を抜かぬこだわりの姿勢が口コミで広がり、年間を通じて予約が取れない宿として有名だった。特に、板前として調理場を執り仕切っていた、進次郎の父親が作る料理は人気が高く、いつの頃からか進次郎も父親のような板前になりたいという夢を持つようになっていた。  そして、中学生になると頻繁に調理場で父親の手伝いをするようになった。学校が終わると急いで帰宅し、シャワーを浴びて清潔な服装に着替えてからエプロンを着け、三角巾を頭に被ってから調理場に入る。厳しい父親は、当初調理場に入ることすら良しとしなかったが、進次郎の熱意に根負けし食材に触れることを固く禁じた上で、毎日毎日、食器洗いやごみ捨て等の雑用を命じた。それでも進次郎は、中学を卒業するまでの三年間、愚痴一つこぼすことなく与えられた仕事を淡々とこなした。  その間、父親や父親の下で働く板前達の手先をじっくりと観察しながら――。  一日でも早く一人前の板前になりたいという希望があった進次郎は、『中卒で雇って欲しい』と両親に願い出たが、『高校だけは卒業しなさい』と諭されて地元の高校に進学した。高校生になっても変わらず調理場の手伝いに入り続けていると、根負けした父親から、少しずつ食材に触れることを許されるようになった。進次郎はこれまで覗き見することしかできなかった調理に、少しでも携わることができるようになれたことに、大きな喜びを感じながら日々を過ごしていた。主たる仕事は雑用だったが、あらゆる調理方法を目で見て学んだ。しかし、そんな幸せな時間もあの火事に全て奪われてしまったのだ。  子供の頃は活発な進次郎だったが、(くだん)の火事以降は寡黙と形容されるようになった。高校を中退した進次郎は、引き取ってもらったホテルの調理場で板前見習いからはじめた。7年経った現在は、見習いが取れて一人前の板前として働いている。進次郎が作った料理を周囲は手放しで褒めてくれるが、目標としていた父親から直接何も教わることができなかった身としては、何年経とうが不安な気持ちは拭えないでいる。  ――進次郎は、仲居達が褒めそやす長谷川という添乗員がどんな人物なのか、ふと興味を持ちそっと宴会場を覗いていた。  腕まくりしたワイシャツ姿の長谷川は、仲居達の邪魔にならないようにと、ビールやジュースの瓶を一か所に集めたり、ごみを拾ったりしながら楽しそうに喋っている。背丈は自分より低そうだが、緩くカールした癖のある黒髪が丸顔によく似合っており、妙に都会的な雰囲気を醸している。黒目がちの大きな瞳は意志の強さを感じさせる不思議な光を宿しているが、決してきつい印象ではなく、長い睫毛と二重瞼が愛嬌のある表情を演出していた。ダークカラーのスラックスは細身の小洒落たデザインで、スタイルの良さと脚の長さを強調し――全てにおいて洗練されているように、進次郎の目には映った。  その一見したリア充ぶりに、自分とはまったく相容れない種類の人間だと勝手に判断し、そっと離れて調理場へと戻った。
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